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資源の消費  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  資源の消費
 ユイグ したがって、一九七二年にローマ・クラブの要請で作成されたマサチューセッツ工科大学のリポートが勧告しているように、あらゆる点からいって人類は「成長に制限を加える」ように努めなければならないでしょう。成長のための成長、生産のための生産、消費のための消費をやめることです。これらの観念のもっている力の根強さは、この報告が激しい議論を呼び起こしたことや、いくつかの政党が、選挙宣伝の必要性から、あえて理由を問いただす前に、そうした結論に対して、ためらいもなく拒絶したことにみられるとおりです。
 しかも、事実は、現在の世界の人口は四十四億を数え、年に二ないし三パーセントの増大を示しているのです。西暦二〇〇〇年には増加する人口は倍になるでしょう。そして、この上昇ぶりは一次曲線でなく指数曲線のそれですから、このままいくと、百年で約百五十億になりましょう(これを理解するには、睡蓮におおわれた池の水面が一日ごとに倍になり、三十日で全体がおおいつくされる例を考えればよいでしょう。二十九日目から最後の日までのあいだに、全体の半分が増えることになるのです!成長の速度は速まり、ますます狂気じみてきます。地球の人口も、同様でありましょう)。
 富める国ぐにが産児数の増加を少なくしているのに対し、貧しい国ぐにはますます増えていることを知るなら、将来にのしかかってくる脅威を考えないわけにいきません。いま世界人口の五分の一を占めている白人種は、一世紀半後には一三パーセントに過ぎなくなるでしょう。十五年以内にその繁殖力は半分に減っているのです。
2  さて、資源消費が現在の調子でいけば、これ以上増やさないようにしても、統計学者によると、鉛、水銀、金、錫、銀、亜鉛の、すでに知られている埋蔵分は、二十年ぐらいで使い果たされる。銅とタングステンは約三十年、アルミニウムとニッケルは約七十年、そして鉄は百年で消費されるということです。この数字は悲観的であり、まだ知られていない埋蔵分が計算に入っていないにしても、彼ら統計学者は確実に危機が近づいていることを強調しているのです。状況は約百年で破局的になり、三十年で取り返しのつかないものになるであろう、と。
 もっと一般的なところで、マサチューセッツ工科大学は、人間の生活にとって最も必要不可欠の物質について、同様の数字を提示しています。水資源さえも、やがて不足をきたすだろうといっています。パリ市民は平均して、一人毎日五十リットルの水を使っています。この数字に人口を掛けてみればよいのです。
 少なくとも、空気はこのかぎりではないと考えることができるでしょうか? そのように思う人は、さまざまな機械によって、酸素の消費がどれほど増大しているかを忘れているのです。一台の自動車が千キロメートル走ると、人間一人が一年間呼吸できる酸素を消費します。しかも、この酸素を再生する源も損なわれています。森林は減少しており、しかもこれは、より小さい悪でしかありません。
3  周知のように、酸素の最大の生産源は海中のプランクトンで、全生産量の七五ないし八〇パーセントを占めています。ところが、年々ひどくなる汚染が、これを絶滅する働きをしているのです。計算によると、約二億八千万平方キロメートルの総水面積のうち、少なくとも四百万平方キロメートルが、人間の廃棄物、とくにタンカーから排泄される炭水化合物によって、やがて死滅化しようとしています。
 それに加えて、現代の文明は新しい欲求をつくりだしました。現代文明は全面的にエネルギーの消費に基礎をおいていますが、そのエネルギーの資源は量的に限界があります。私はただ、産業国家のエネルギー需要が十年ごとに二倍になっていることを指摘しておきましょう。ということは、炭素がどんどんなくなっているということです。石油については、人びとは未開発の油田を見つけようと熱にうかされたように探していますが、それはたくさんの問題をはらんでおり、世界経済をひっくりかえさないともかぎりません。ウラニウムは、石油よりもさらに、無尽蔵というのには遠いのです。
4  最近、世界エネルギー会議が発表した計算によると、地球に埋蔵されている可燃性鉱物資源(すなわち、とくに石炭)は十一兆二千億トン、可燃性液体(つまり本質的には石油です)は七千四百億トン、天然ガスは六千三百億トンです。これは膨大な量にみえますし、大丈夫のように思われるかもしれません。しかし、これには、有効な採掘条件をそなえているのは、ほぼ三分の一にすぎないということをつけ加える必要があります。
 そのうえ、開発可能な貯蔵量のほとんど一〇パーセントが現在の二十世紀が終わるまでに、なくなってしまうだろうと予測されています。ということは、私たちのあとにくる二つの世代の時代の分岐点ということです。しかし、ますます増える人口と個人消費の増大の事実から、さらに五十年たったときには、二二パーセントしか残らないことになるでしょう。その西暦二〇五〇年においては、今日生まれた子供は七十歳になっているわけですが、その多くがまだ生きているわけです。電気のことだけ考えてみても、今後四十年で使用量は倍になろうと予測されています。これらの数字は条件ぬきで楽観している人びとが目を開くようになるまで、広く知られるようになるべきでしょう。
5  たしかに、その時には、代替として風、太陽、海洋、さらには地熱による恒久的なエネルギー源を利用する新しい手段を、科学が開発しているであろうと予期することはできます。高まる窮乏の解消のためにそうした科学的探究も急速に着手されています。しかし、この前例のない革命を成し遂げるためには、ほとんど一世紀という時間の準備が必要ですが、事態はひどく緊迫しているのです。
 また、とくに頼みの綱として期待されているのは原子力エネルギーです。だが、ソ連の熱物理学の専門家である、B・M・ベルコフスキーがいみじくも指摘しているように、この実地の使用は立ち遅れており、需要にほとんど釣り合っていません。この原子力エネルギーの利用という問題に人びとが取り組むようになって三十五年になりますが、原子力は世界のエネルギー生産の一パーセントしかまだ供給していません。一つの新しいエネルギー資源が他の物の代替ができるようになるのに、通常六十年はかかってきたのが通例です。たとえば、石炭に石油が代わり、つぎにガスが石油に代わった例がそうです。ですから、事態がうまくすすんでも、百年後には伝統的な資源はなくなるでしょう。
6  池田 あなたは今、エネルギー資源の使用によってひきおこされる一つの問題、つまり資源の枯渇の問題とならんで、その有害性の問題にふれられました。エネルギー資源の使用によって環境はいちじるしく汚染されており、それは海洋のみならず大気にも及んでいます。
 さて、石油の枯渇にそなえて、それに代わるエネルギー資源が現在探求されていますが、その第一候補と目されているのが核エネルギー、原子力エネルギーです。これについては、あなたのお国のフランスでも、相当、力を入れられていると聞いています。しかし、原子力エネルギーは、石油の場合よりもずっと恐るべき汚染をひきおこす危険があります。私がここで提起したい問題は、人類は今後ますます大量のエネルギー資源を必要とすると考えることが正しいかどうかという点です。
 物質的欲望の追求を正しいと認める観点に立てば、これは正しいというべきでしょう。しかし、もし、この大前提から問い直すならば、エネルギー消費も減少の方向に向かうことが可能であるかもしれないのです。そうしたエネルギー消費の減少をめざしたうえで、汚染を生ぜず、しかも枯渇しないエネルギー資源の開発に取り組むべきだと思います。この問題についてのあなたのお考えをうかがいたいと思います。
7  ユイグ 他の分野と同様、このエネルギー資源の分野でも、現在の文明は、かつて人びとが保っていた自然との協調精神を軽蔑することによって、気違いじみた開発をすすめています。もし、自然が私たちの必要とするものを提供し満たしてくれるようにと期待するなら、自然と私たちとのあいだの相互性をめざし、よい関係を保つよう戒めていく必要があるということは確かです。
 宇宙ロケットによる偉大な発見の一つは、外から見たこの私たちの地球の光景であったといわれるのは正しいでしょう。そのとき地球は、子供が持っている球の入った袋のように、ある限定された中身をもつ一つの球体としてその姿をあらわしました。子供はその中に幾つあるかを知って使わなければなりません。無分別なやり方で浪費すると、それだけ早く、空っぽになるでしょう。
 地球は、この球の袋と同様に、無尽蔵ではありません。そして、やがていつか、人類は資源がなくなっているのに気づくでしょう。すでにいってきましたように、未来を予測するには、人口の絶えまない増大と同時に個人による消費の比率について考えるだけで十分です。現代は、量の追求に身も心も捧げており、このしなければならない計算については、奇妙にも故意にいいおとしているようにみえます。
8  これは数年来いわれてきていることですが、人類は、たんに増大しているばかりでなく、曲線にたとえていえば漸近線に沿った――ということは、この休みのない増大がばかげた事態に紙一重になる時があるということです――危険に直面しているのです。現代は、また合理性の追求に身も心も捧げており、これらの事態を前にして、ソフィストのように議論しているだけなのです。
 大多数の人は、技術への盲目的信頼に身をゆだねています。要するに「それはわれわれを困難におとしいれることができたのだから、そこから脱け出させることもできるはずだ」というわけです。この理屈は少々天真爛漫です。
 しかし、現在の文明によってかつてないほど解放されている気違いじみた欲望に身をまかせるのでなく、欲望を抑制し、規制するようにするにはどうしたらよいでしょうか。こうした自己抑制は、その基盤となる、深い精神的変革を前提とします。この分野では、論理よりも恐怖のほうが効果をもたらすというのが真相です。
9  この問題についての政党の扱い方は、自分たちの政党宣伝という直接的要求によっているため、あてにできるものではありません。そこではまだ、直接的利益、つまり投票用紙に対する貪欲さが支配しており、この問題の意識は語られず、人類の憂慮はたいして重みをもっていないのです。消費抑制のなんらかの命令が出されるや、そうした命令は、庶民階層の安楽さの拡大を妨げようとする意志の表明であるととられるのです。――ばかげた軽率さという以外ありません!
 このさい、階級闘争は、人類の存続のための戦いに席をゆずるべきです。船が明らかに沈没しはじめているとき、そして、船長が恐慌状態になるのをなんとか防ごうとしている場合、救命艇に乗る船客の一等と三等の比率がどうであるかなどということは、二次的な問題であるはずです。彼が救出したいと望むのは当然、船全体です。
10  ですから、人類の地球全体にわたる連帯性を考え、共同戦線をつくりあげるということは、それほどむずかしいことでしょうか? ただ論戦をつづけるだけで、日に日に不可欠となっているこの自覚を麻痺させることに、なんの意味があるでしょうか?
 人類はその歴史において、必要な英知を、あまり発現させないできました。しかも現在は、科学的進歩と技術的力、それから得る物質的利益に酔って、かつてのいかなる時代よりも、そうした英知の発現について後退しているようにみえます。しかも、事態は早急にはよくなるはずもありませんから、私たちが冷厳な危機に向かっているということは考えられることです。
 人間が諸条件を改めるのを拒んでも、たぶん、この危機の残虐さが転換を余儀なくさせるでしょう。そうなって初めて、人間は、無分別の恐ろしい悪循環とみえる現在の事態から脱出することでしょう。
 そして、あなたが指摘されたとおり、原子力エネルギーが不可欠の代替エネルギーにやがてなると仮定しても、この解決は汚染という新しい危険を、これまで以上に激しいものにするでしょう。この点はいまやより身近なものとして、その全体観から研究する必要があります。

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