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日蓮大聖人・池田大作

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消費文明  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  このことは、多少、意味あいの違いはあるにせよ、食用になる植物生産物についてもいえます。農耕のために森や林もまた不断の後退を余儀なくされており、ひとたび破壊された森林は、再び元のようにはなれないのです。少なくとも、現代技術のやり方は農地の生産力を刺激していますが、それは化学肥料ばかりによっています。こうした生産力の向上によって、まだ開拓されていない広大な土地を肥沃化するにしても、それは無限に進展できるものではありません。
 一方では、このためには膨大な量の水を頼りにしなければなりませんが、すでに水不足は大きな不安のタネになっています。他方、化学物質の利用は土壌を枯渇させる危険があり、食糧供給のうえで有害な影響をもっています。このことについては、人びとも考え始めていますが、人間の健康がその引き換えにされているのです。今日、ガンのとどまることをしらない蔓延が、部分的にせよ、自然の法則に反する化学物質を体内に取り入れている(それに加えて薬剤の誤用もあります)ためにひきおこされているのではないとだれがいえるでしょうか?
3  私たちの体は、植物または動物の肉といった、生物学的につくられた物を吸収するようにできています。人工的に得られた物質をそこへ無謀に入り込ませることは、その機能を乱す結果になる恐れがあります。私たちの知能は一面しかみないで満足してしまい、直接的な結果しかみようとせず、こうした問題については間違った計測をしています。そのため、予期しなかった反動にあって、途方に暮れてしまっているのです。
 一九五一年から一九六六年までのあいだに、農業生産は三四パーセント増加しました。しかし、それは、窒素肥料を三六パーセント増、殺虫剤三〇〇パーセント増投入という代価によって得られた収穫増であり、殺虫剤は、知られているとおり、その目的としない、そして地球の生物の均衡にとってなくてはならない種類の動物にも有害な作用を及ぼしています。
 さらにそのうえ、昆虫たちは薬剤の攻撃力に適応してしまい、それを無効にしてしまいました。人間の一世代のあいだに何世代も交代してしまうおかげで、こうして抵抗力を強めた有害な昆虫は二百五十種にのぼるといわれています。
4  池田 破壊されているのは大地だけでなく海も同じです。私の育った家庭は「海苔」を採取していました。農業ではありませんが、第一次産業と呼ばれるものに従事していたわけです。場所は東京湾の一角でしたが、私が子供のころは、まだ生業として十分に成り立っていたのです。しかし、現在は見るかげもありません。
 日本では明らかに第一次産業は後退しています。狭い国土を有効に使うためには、第二次産業で利益を得、それで農産物を「買う」ほうが有利だからでしょう。また第二次産業が第一次産業より優位に立つべきだという考えがそれに加わっているかもしれません。もしそうだとしたら、これは人類の未来にとって危険なことです。
 いうまでもなく、人口は等比級数的に増加しています。それはもはやかつての漸増的なものではなく、爆発という名がふさわしいほどです。それにくらべて、農産物は技術改良をしても、遅々とした歩みでしか増えていないようです。これらの行きつくところに生ずる破綻は明らかです。
5  生態学的に考えても、一つの種のみが増えるということは、非常に危険なことです。その種を養う環境が十分にととのわないのに増加する種は、かならず破局におちいります。草を食べて生きている動物が繁殖し、食べるものがなくなって、草の根まで食べつくし、その結果、その動物も植物もともに絶滅するという幾多の悲惨な例を、けっしてわれわれと関係のない図式だと考えてはならないと思うのです。やがては世界的な飢餓が人類を襲い、共倒れになるか、陰惨な殺戮が行われるという予測を、いったいだれが否定できるでしょうか。否、すでに世界的な飢餓が人類をおおっていることを知らなければなりません。
 すでに、現代において人類の食生活はまったく悲惨な状態にあります。まず第一にあげられるのは食糧の絶対量の不足です。食糧がありあまっているのは一部の先進国だけで、開発途上国の多くでは――農業技術が人口の急増に追いつくことはまったく悲観的なことです。しかも先進国では、多くの人びとが栄養過多におちいり、その結果、成人病が死因の上位を占めているという事実と飢餓線上にあえぐ民族が世界の各地にいるという事実が同居しているというアンバランスが、その悲劇的状況に拍車をかけています。
6  さらに、日本が最も悪い例でしょうが、食糧を自給自足する責任を自ら放棄し、工業等に重点をおいて、金さえあればそれを得られるという考え方から、貧困な国からも食糧を買い取っています。これら貧困な国では、食糧は実際は十分ではなく、多くの人びとがこの犠牲になっています。これも食糧問題に関して先進工業国の犯している背徳の一つでしょう。
 事実、日本においては、全体的には他国に依存している部分が多いのですが、それでもコメに関しては恒常的な生産過剰になっています。そのため減反政策などという珍妙な政策もとられているのです。この地にコムギをつくることもできるのですが、コメに対する保護政策がコムギにおいてはなされないために、コムギがつくられないということもあります。こうした政治と結びついて生じているアンバランスも具体的な問題として是正されなければならないでしょう。
7  さらにあげられることとして、あなたがいわれた、農業の人工化があります。実際、われわれが食べているものがどのようなものかを知るならば、少なからぬ戦慄をおぼえます。狭い農地から効率よく農作物をつくりだすには、どうしても人工肥料と農薬が必要になってくる。その農薬が人体にどのような影響を与えるかが十分に検証されないまま、さしせまった食糧事情や労働事情のために、公然と使用されることも少なくありません。これは農業にかぎらず、畜産、漁業等においても同様です。ブタなどは、運動をさせずに、人工の飼料を与えつづける。しかもそれをブタが受け入れられるように消化吸収剤も同時に与えているのです。そしてブタは短時間のうちに太らされるわけです。そこで得られる肉は、脂肪分の多い、さらに人体に有害な成分を多く含んだものとなってしまうのです。
8  海洋汚染もとどまるところをしらず、汚染された魚介類が、十分な検査を経ずに市場へ出回っていることさえ、しばしばあるようです。しかも、乱獲ぎみで、多くの種が絶滅の危機に追い込まれているといわれます。このほか食品添加物、洗剤による公害等々、われわれの食生活の周りは危険に満ちみちているようです。
 人類は今まで、地球は大きく、海は広く、食糧は無尽蔵にあり、エネルギーに満ちた環境につつまれていると考えて生活してきましたが、もうそれは、幻想にすぎないことを知らなければなりません。農業の問題、否、食糧問題が、人類にとって最もさしせまった課題として浮かびあがってくるのは、今世紀中であると推論しても、けっして悲観主義的であるとはいえないと思います。
 食糧問題は、二つの側面から解決の手をさしのべなければならないと私は考えます。一つは食糧自体の問題であり、もう一つは食べる側、すなわち人間の問題です。
9  食糧自体の問題についても課題は山積しています。耕地面積の拡大は、世界的にみれば、まだまだ可能でしょう。化学的・工業的方法によらないで農産物を増収することも真剣に考えられるべきであり、それもなんらかの方法で可能でしょう。しかし、それにしてもやはり、限界があることも事実です。そこで、もとより根本的な解決ではありませんが、食生活そのものに対する考え方を検討するのも大事なことではないかと考えます。それは肉食に対する検討です。肉食を多くすると、どうしても多くの農産物を必要とします。農産物をウシやウマが食べ、それを人間が食べるのですからムダがあるのは明らかです。
10  事実、植物を摂取して得られるエネルギーを肉食でとろうとすると、その十倍の植物を必要とするといわれます。したがって、植物を主体とした食生活に転換していけば、単純計算のうえでは、同じ面積の土地で十倍の人口を養えることになるわけです。もちろん人びとの食生活を一挙に転換することは不可能でしょうし、動物性蛋白をどう補い摂取するのかという問題もあるでしょうが、こうした根本的な検討もなされるべき時代に入っているのではないかと思うのです。まして肉食過多が成人病の要因になっているとしたら、植物主体に食生活を転換していくことは、二重の利益があることになるわけです。仏教の一部においては肉食を、とくに修行者において禁じていますが、それは生命を慈しむ精神から出たものであると同時に、人類の生き延びる道をはるかに指し示していたのかもしれません。
11  第二の問題として、食べる側、すなわち人口の増加を抑えるという課題があります。いくら食糧生産を改善したとしても、人口が爆発的に増大しつづけているかぎり、根本的な解決にならないのは明らかなことですから、農業問題、食糧問題は、根本的にはこの人口抑制という課題にまでいたると私は思うのです。最初の問題提起からずいぶん飛躍しているかもしれませんが、文明に対する基本的な考えがそこに入らないかぎり「ほころびをつくろう」やり方では、いつまでも解決はないのではないでしょうか。
12  かつて、人類が人口を抑制する最も手っ取り早い方法は戦争でした。そのほか日本では生まれてきた子を殺す「間引き」も、貧しい民衆のあいだで行われた、生き延びるための悲惨な知恵でした。今日では、そのどちらも絶対に行ってはならないことです。やはり、人口抑制への、理性的な唯一の有効な方法は避妊でしょう。私は、生まれ出てくるべき子をあらかじめ抑制する避妊は、けっして背徳であるとは考えません。動物は一定の時期に発情し、子供を宿し産みます。しかし人間には一定の期間は設けられていません。それは人間の知恵がコントロールすべきものであり、そのために避妊はむしろ人道的な人口抑制策でもあると思うのです。
13  先にもいいましたように、増加しすぎた種は、絶滅への道をたどるものです。人類がその道を歩みたくないと望むならば、自らの手で、増加を抑える以外にないのではないでしょうか。人類は長いあいだ、人口の増大と、自然の征服による物質的豊かさを“進歩”と考え、こうした“進歩”を理想としてきました。しかし、こうした進歩発展はかならず行き詰まりにおちいる思想であることに、そろそろ気づくべき時にきているのではないでしょうか。征服的な進歩でなく、万物との平和的な調和こそ美徳であり、生産・消費でなく、循環こそ文明のあるべき姿であると思うのです。
14  仏教思想をはじめとする東洋思想とともに生きてきたアジアの民族は、ときには物質的な栄華を誇りとした時代もありましたが、今は西洋の科学、技術の威力の後塵を拝しているようです。工業化の発達した先進諸国からみれば、科学技術文明を容易に取り入れようとしない人びとの生活は貧しく悲惨にみえます。しかし、彼らにしてみれば、それがいったいなにになるのか、と考えているかもしれません。彼らは、自然の許すままの恵みに頼っていく生き方がほんとうで、たとえ細々とした貧しい生活であったとしても、それが人間の正しいあり方だと考えているのかもしれないのです。もとより、貧しく、飢えにさいなまれている状態が望ましいというわけではありません。しかし、自然と、また地球と「うまくやっていく」ためには、人類は少しは自らの欲望を制御しなければならないのではないでしょうか。便利さ、つまり暮らしやすさは人口の増加をもたらし、生のゆえに人類の絶滅をもたらすであろうからです。
15  少なくとも、農業が、自然の恵みと人間の手足以外の、工業的・化学的手段をもって支えられているあり方は、絶対に望ましいものではありません。そういう手段を使わないで、自然の要素を活用してできうるかぎりの農産物の増加を図り、他方、人口の抑制を図るところに解決の糸口を求めていくべきであると私はいいたいのです。
 そのための基本的な思想として、いまや人類は調和と安定の時代に入った、否、入らなければならないという考え方に立つべきだと私は考えています。

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