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日蓮大聖人・池田大作

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第一部 現代の危機  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  ユイグ 今日、文明が、きわめて重大な危機を通過していることは、まったく疑う余地がありません。今日では、それがほとんど決まり文句になっており、広範な大衆の中に、はっきりとしたこととして浸透しています。周知のように、一九六八年、西洋、とくにフランスの青年たちは、この危機について、ほとんど動物的、本能的ともいえる意識にとらわれ、苦悩の痙攣というべき状態まで示しました。若者たちは、自分たちに残されている未来に対する不安から反抗したのです。
 十九世紀を支配した精神状態に対して、これほど対照的なものはありえません。この十九世紀ぐらい、人類が、世界は限りなく進歩していくという観念をもったことは、かつてありませんでした。
 この“進歩”の観念は根本的なものでした。それは、すべての詩人によって祝福されました。ユゴーのごときは、自らを予言者と任じて、人類は豊かな幸福と光へ向かって進むであろうと予言したのです。二十世紀になって、状況は完全にくつがえされました。
3  たしかに、今日いわれるように、“事件本位”の歴史――そうした事件は、非常に深い、かくれた変化の顕著な反動であるのに、事件の中に原因をさぐるやり方の歴史であるわけですが――、こうした事件本位の歴史は、すべてを二十世紀前半につづいて起こった二度の世界大戦で説明できると信じています。つまり、何百万にのぼる死者と、荒廃と戦争によってひきおこされた経済的消耗によってです。
 そして、確実に、その爆発の反響は、西洋世界、とくに西欧の凋落をもたらし、西欧がアジア・アフリカ諸民族に対してもっていた覇権の零落を推進しました。
 しかしながら、新大陸におけるヨーロッパの接ぎ木であるアメリカ合衆国が、その後は、西欧の後継者を自任しているようです。アメリカ合衆国は西洋によって準備された科学技術文明の運命を自分の手中に収め、その勝利への前進を引き継ぎました。
 しかし、合衆国が引き継いだ科学技術文明は、ヨーロッパの没落をひきおこした、その同じ根本的な欠点も包含しています。その進歩を遂げようとする傾向は抑えがたいものがあり、しかも、進歩にともなって不可避的に同じ障害にぶつかり、たぶん、その障害は物質的な成功に比例して高まります。
4  このような外面にあらわれた激動の背後にあって働いている力はどのようなものでしょうか? その力の圧迫は絶えまなく強まり、西洋と西洋文明とをこの危機に導いていきます。そして、西洋文明は、抗いがたい上昇を達成したときに、その運命がきわまり、たぶん滅亡してしまうであろうと感ぜざるをえないような危機におちいったのです。
 勝利の成果を確実ならしめたその同じ要素の中に、十九世紀は未来を毒することとなる悪の胚珠を宿していました。十九世紀を酔わせた成功はなにに負っていたのでしょうか? 十九世紀は、十七世紀に下描きされ、十八世紀に確立され、そして科学的知識のうえに打ち立てられた一つの新しい文明の型を完成させたのでした。そのとき、とくに物質科学が確立し、発展し、さまざまな技術的成功をもたらしたのです。
 物質科学はその機能を果たし、したがって、生活をより便利に快適にしました。しかし、それだけのことです。なぜなら、科学の進歩、向上が関わるのは、物質世界の知識に限られているからです。この物質科学は発展の主役ですが、その扱う対象は、空間の中の物質のみに限定されているのです。
 そしてたしかに、それは人間に自然をより早く、よりたやすく自分のものにし、いわば自然の素材を自由に使って、少なくとも人間の具体的実証的な欲望をよりよく満足させるようにさせてくれました。
 人びとは、より多くを求めることしか考えず、技術とその力の絶えまない拡大は、時の経過とともに、どこまでも野心の増長を満足させてくれる――そうならないわけはないと思わせたのでした。つまり、科学は万能だったわけです。
5  数年来、科学はすでに幻滅におちいっています。石油とエネルギーの危機が冷酷なめざましとなったのです。石油とエネルギーの危機を、私たちはようやく体験しはじめたばかりです。それなのに、すでにその解決法を私たちは逸したのです。産油国が私たちの咽喉もとにつきつけているナイフは、科学が代替エネルギーを見つけてくれるまで待ってはくれません。
 人びとは“より多く”を求めました。だが、すでにこの明快で本質的な問題について私たちは、既得利益をただ維持することだけを願うところまで後退しています。
 しかし、これがすべてではありません。人びとはもっと別のことを要求しはじめています。そうした私たちの本性に固有の、さまざまな渇望に応えようとする欲求があらわれ、しかもこれまで極端に無視されてきただけに、よけい激しくあらわれてくることを、以前だったら、だれが想像したでしょうか。私たちは、物質的進歩に陶酔して、内面的生命とか精神、魂といったもの(私は、現代人の多くにとって、ほとんど意味が失われるまでになおざりにされているこれらのことばを、わざと重ねていっているのですが)もまたもっていることを忘れてきました。それらは、これまで飢渇するにまかせられてきましたが、今は求められており、さらに明日は、再び考慮されることが緊急の課題として求められるでしょう。その時は、間近にきているのです。
6  テイヤール・ド・シャルダン(二十世紀フランスの古生物学者・イエズス会司祭)の「だれが、なんといおうと、われわれの世紀は宗教的であり、他のあらゆる時代よりもたぶんに宗教的である。ただ、現在は崇拝することのできる神を、いまだ見いだしていないのである」という挑発的で確信に満ちた言葉は、まさに的を射ています。この断言はたしかに挑発的であるが、見かけほど逆説的ではありません。
7  池田 あなたのご指摘のように科学技術文明の象徴である“進歩の観念”への反省が人びとのあいだに起きていると思います。とくに先進諸国では、物質的な繁栄を追求することだけが人間の目的であってはならないという意識は、ますます明確にあらわれていると思います。
 そうした反省の契機となった事柄については、あなたが的確に分析されたとおりです。そこで私は、この“進歩の観念”に対する反省が、現代人の意識の中で、どのように行われているか考えてみたいと思います。
 技術文明の恩恵に浴する人びとは、永らくこの豊かさの中で欲望を満たしてきました。今日では日常生活のすみずみまで科学が浸透し、からだの一部にさえなっていると思われるほど必要不可欠になっているものも少なくありません。そのため、私たちは科学技術の中にスッポリと身をおきながら、一方で、科学技術による“進歩の観念”を超克しなければならないわけです。自分が“進歩の観念”の埒外にいてそれを批判し指摘するのは簡単ですが、自分がその渦中にいて正当に評価を下し、行動に移すことは、はるかに困難です。
8  たとえば“進歩の観念”に痛撃を与えた一つに、資源の枯渇という問題がありました。今の科学技術は大量の資源を消費するシステムになっているために、これは深刻な問題を投げかけています。資源問題が人びとの意識にはっきりと刻印されたのは石油の備蓄がなくなるという例の石油危機の時でした。石油危機のさいには、日本でどういう事態が起こったかといいますと、まず自分の使用分の確保であり、つぎに節約でした。またトイレット・ペーパーがなくなるという噂がマスコミをとおして流れたことがありました。そのときにはマーケットのトイレット・ペーパーは高騰し、主婦が列をなして買いだめしたということがありました。こうした事態は日本人にかぎらず人間に共通してみられる心理状況であろうと思います。
 私が今、こうした卑近な例をあげましたのは、人間の思考とか行動は、自らに直接的にふりかかる危機については、じつにエネルギッシュに反応するということを示すためです。
9  公害問題についても同じことがいえます。自らが公害の犠牲になったり、公害が身近な所で発生したりしたときには、人びとは猛然と反対運動を起こします。しかし南氷洋のクジラの胃袋からナイロン・ストッキングが発見されたとか、北極の氷から鉛が検出されたというようなニュースに接しても、そこから環境汚染に対するアピールはなかなか起こってきません。
 しかし、私がこうした例をあげるのは、なにも人間一般の醜い一面を指摘するためではありません。ある意味では、これは各人の生存本能に根ざす自然な行為でもありましょう。もし危機が眼前にせまってもなんら効果的な行動をとらず座して死を待つというような状態であるとしたならば、そこにあるのは、生命力の完全に萎えた“人間”という名の物体に等しいというべきでしょう。
 ともかく、人びとが危機に対して行動を起こすのは、それを眼前のさしせまったものとして受けとめたときです。そしてそのときにとる行動の形態は一九六八年のフランスの青年の抵抗のようにラジカルであります。危機が深いほどその抵抗は過激さを加え、パニックへと突入するでしょう。
 私は、“進歩の観念”への反省がみえはじめた今が、危機を回避する方途を人びとが真剣に模索しはじめる絶好のチャンスであると思うのです。
10  しかしながら、この作業は一部の政治家や専門家にゆだねるべきものではありません。すべての人びとが取り組み協力すべき重要事です。
 私自身、かねてから、これまでの“進歩の観念”は物質を対象とした外界の現象に対する働きかけであり、これからは人間の内面に目を向けなければならないということを主張してきました。
 人間が、自らつくったもろもろの環境に従うのではなく、絶えず人間精神によって環境を支配しリードすることによって、自立性を回復することがなによりも先決です。そして人間精神が豊かな英知あふれるものであるためには、人間を貫き、自然を貫き、万物を貫く宇宙生命の脈動をその根源にたたえていなくてはなりません。
11  ユイグ 人類がおちいっている危機は、複雑なあらわれ方をしています。それは、さまざまな分野で私たちを襲っており、その二世紀以上にわたる歪みはすでに物質的欲望の面にあらわれた結果、私たちを孤独感におとしいれているわけですが、将来は、あまりにも軽視されている精神的欲望の面で襲ってくるでしょう。
 どのような場面で危機があらわれているかを、まず列挙して明確にし、一つ一つ調べてみたいと思います。そこには、私たちの肉体の健全さを脅かしている物質的危機があり、つぎに心理的健全さを脅かす精神的危機があります。そして最後に決定的に姿をあらわしてくるのが道徳的危機で、これは私たちの精神的生活を窒息させるのです。

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