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日蓮大聖人・池田大作

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序文  池田大作  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  こうした事態を改善するためになにが必要かは明白である。この家の外は、荒漠たる死の世界であるから、逃げ出そうとしても無意味であろう。この家の中で仲良く幸せに生きていくために、一人ひとりが、考え方と生き方を根本的に変える以外にないのである。
 互いに利益をむさぼるのでなく、この家をより住みやすく、安全にしていくよう、自らの労力を提供しなければならない。互いに憎み合うのではなく、愛し合い、守り合い、助け合っていくことである。
 この人間の考え方と生き方の転換のために宗教はなにができるか、が私の主たる関心事である。
 キリスト教やイスラム教は、その初期の精神的いぶきによって、利害の対立に明け暮れる諸民族を、一つの共同体にまとめあげた。細部においては紛争は絶えなかったにせよ、大局的には、強い精神的絆で結合された共存の世界を実現したのである。
 とはいえ、自らの信奉する神を唯一絶対とする考え方は、他の神を仰ぐ人びとに対しては非寛容さを増したし、時代の進展とともに神学が煩雑化するにつれて、異端論争が激化し、これは血を血で洗う抗争を招いた。
3  もちろん、キリスト教やイスラム教が血なまぐさい争いの因になっていたときにも、その本来の愛の精神を忘れず、神の愛による平和を叫んだ人びとがいたことを私は知っている。
 一方、私の信奉する仏教は、万物に対する慈悲を教え、他の信仰をしている人に対しても寛容であるべきことを教えるし、熱心な仏教信仰者の治世は、平和によって特徴づけられる。しかし、すべての仏教者が平和主義者であったのではないことも事実であり、仏教の寺が僧兵を養って、権力者にとって重大な脅威となった時代もあるし、殺生を禁ずる仏教国の東南アジアの国ぐにで、残虐な殺し合いが演じられていることも否定できない。
4  したがって、いかなる宗教を信ずるかが平和実現という問題のすべてを決定するとはいえないことは当然である。もとより宗教の教えの内容には違いがあるし、その教えのいかんによって、社会の営みや人間の生き方に反映されるものも異なろう。だが、それとともに、その教えをどう受けとめ、人生の生き方や社会生活の中にどのように実践化していくかということが大切である。そこに、同じ宗教の信仰者であっても、戦闘的な人もいれば、平和主義を貫く人もいるといった多様性が生じてくるからである。
 ただし、全体的にみて、宗教による差異も無視することはできない。この全体的視点に立つとき、仏教の平和主義的色彩は、やはり群を抜いている。それがなにに由来するかについては、この対話の中で私なりの考えを述べ、ユイグ氏ならびに読者の批判を仰ぎたい。
5  私の尊崇する日蓮大聖人は、戦争によってひきおこされる人間の苦しみを深刻に思い、平和への鍵を探求された。そして、仏教の一切経を読み、思索された結果、誤れる宗教の信仰こそ戦争をはじめとする人間社会の災いの根源であり、正しい宗教の信仰を立てることがなによりも大事な鍵であるとの結論に到達されたのである。
 この日蓮大聖人の主張は、これまで、自己の宗教を権力者に押しつけようとする独善的な教義であるかのように誤解されてきた。日蓮大聖人に対して批判的な立場をとる人びとがそう批判したばかりでなく、日蓮大聖人の教えを実行しようとする人びとも、そのような考え方におちいったのであった。
 だが、日蓮大聖人の著作を冷静に読んでみれば、この誤りは明瞭となる。正しい宗教の信仰が樹立されるのは、個人の心の中においてであって、それは外からの権力主義的な強制などによっては不可能である。日蓮大聖人がめざされたのが、個人の自由意思による自覚的な信仰であったことはいうまでもない。
 したがって、他の宗教の信仰を、権力によって排斥するのでもなければ、いわんや武力によって弾圧を加えるのでもない。あくまでも、信仰は人びとの自覚的選択によるのである。そして、この考え方の底流には、日蓮大聖人の究めた宗教――いうまでもなく仏教であるが――が、人びとの生命を変革する原理であるという事実がある。
6  仏教の生命観とは、欲望や憎悪、怒りに支配された生命を弱者のそれとして凝視し、真実の強者とは、他者の幸福のために自己を捧げる菩薩であるとする。菩薩が究極的に到達する境地が仏である。この生命観は、生物学的な生命観とはまったく異なり、倫理学と結びついており、心理学とも深く関わっている。
 私は、ここで仏教の宣伝をするつもりはない。ただ、私が現代世界の問題について関心をもち、その解決のために、人びとと対話し、方途をさぐり、努力していくのは、仏教の信仰者としての自覚から出発していることを明らかにしたいだけである。仏教は、現実社会の人間的苦悩に真っ向から取り組んでいくことを根本精神とする。仏教を開創したゴータマ=ブッダが道を求めて出家した動機も人間苦の解決のためであったし、日蓮大聖人の生涯も、現実の人間苦を克服するための苦闘の連続であった。
 もちろん、私はこれらの偉大な人びとに比べれば、とるにたりない平凡な人間である。私のできることは、真理を発見したり道を開くことではなく、これらの人びとによって灯された火を現代の人びとにさし示すことである。
7  あらゆる宗教がそうであるように、仏教においても、かつて創始者たちが初めて真理を語ったときには新鮮な響きをもっていたことばも、時代の変遷とともに古びて聞こえるようになってしまった。しかし、その言葉の中に秘められた真理は、けっして古びたり衰えたりしてはいない。黄金は、どんなに埃をかぶっても、やはり黄金なのである。
 ただ、それが黄金であることを人びとに納得させるためには、その表面をおおっている埃を取り除かなければならない。その埃とは、歴史の推移の中で形成された固定観念や、それに対する反発から浴びせられた偏見のたぐいである。とはいえ、私の理解や解釈そのものが、また新しい埃や泥を重ねることになってはいないかを恐れる。
 私が仏教の世界とは離れた西欧の知識人、思想家との対話を思い立ったのは、一つにはこの点について自分でも納得したいがためであった。先に対話した故A・J・トインビー博士は、今世紀を代表する歴史家の一人であり、人類の文明を歴史的にとらえられている大局的洞察力は、私の思考を全体的に検証するためのなによりの鏡となった。
8  ルネ・ユイグ氏は、現代フランスの屈指の美術史家、美術批評家であられる。しかも、ユイグ氏は、たんに美術作品の研究家であることにとどまらず、美術作品を生み出す人間の魂の深みに対しても、すぐれて明晰な観察をされており、氏の数多くの著作は、その深遠な人間探究の書ともなっている。氏の『見えるものとの対話』の一節などは、仏教の生命論の根本である十界論とまったく合致する内容をもっているほどである。
 西洋文明の土壌の中に培われたすぐれた知性の代表としてのルネ・ユイグ氏に対し、私は学者としてではなく、東洋の仏法の実践家として人生を歩んできた。同じ学者同士の対話とちがって、うまくかみあっていないところもあるかもしれない。この対話は、二つの歯車のかみあいとしてではなく、二つの魂の相互照射として読んでいただければ幸いである。そしてなによりも、ユイグ氏という明晰な鏡を得て自らを映しみる機会を与えられたことを、私は感謝している。

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