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日蓮大聖人・池田大作

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序文  ルネ・ユイグ  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  序文  ルネ・ユイグ
 人類が、今日負わされている問題ほど大きな問題に対峙したことは、おそらく未だかつてなかったであろう。ただたんにわれわれの精神が――精神が明晰であるならば――とくに十九世紀以来、歴史的認識の発展によって、時を支配するようになったり、何千年と継続してきた進歩の中心にわれわれの時代を置くようになったりしただけでなく、精神はまた国際関係の拡張や、情報・マスメディアの発展によって「世界のことを考える」ようになっている。たとえば、ポール・モラン(フランスの詩人・作家)が、著作の一つに『地球は一つ』という題をつけたのはもうすでに数年前のことである。
 人間集団は、いずれも、何千年ものあいだ、自分たちの固有の欲望や習慣や信仰以外は認識しようとせず、それを他の人びとに強要しようとし、あるいは他の人びとの欲望や習慣や信仰を無視したり排斥したりしてきた。それが広まった国ぐにの中では人間同士の争いを克服し、これを一つにまとめようとしたある種の宗教でさえ、お互いに否定するだけにとどまらず、新しい衝突や争いを生じ、それが「聖戦」となったのである。キリスト教とイスラム教が激しく対立していたとき、それぞれの宗教の内部では、さらに各派が互いにいがみ合っていたというしだいである。
2  今日では、もっと普遍的な認識が生じている。政治的な争いや、国際的、経済的あるいは軍事的な対立を越えて、ある共通の概念が明らかになった。すなわち、われわれすべてを連帯で、同じ運命に引きずりこむ世界的危機の概念である。他方、この概念の特異性や重要性は、過去の世紀と対比するといっそうよくわかってくる。過去においてこのような危機の概念はまったく例がなかったし、地球の住人であるわれわれの未来は、ひとえにこの概念に依存していることをわれわれは理解している。
 この概念の全体の姿、すなわちその性格やそれがもたらす結果や、その由来するところや、またその概念が浄化されるために概念が人間に要求する改革などを把握することが重要である。それには、世界の二つの果てからきた思想、東洋(極東といってもよい)と西洋のように、もとからまったく異なった伝統や文化や宗教におおわれてはいるが、客観性の共通の努力の中で、その思想を比較対照させる必要がある。池田大作氏の主導によって着手されたこの対話の着想はまさにそこにあるのである。
3  氏は、六百万人の活動会員(ヨーロッパで五千人)をかかえる創価学会の会長を務めてきて、最近名誉会長になったことからもわかるように、最も普及した仏教思想の一組織の指導者で、現代世界の諸問題にも心をくばる、深い精神的伝統の相続人であると同時に、その伝統を担う責任者でもある。そういうわけで氏は、キッシンジャー米国務長官、コスイギン・ソ連首相、周恩来中国首相や、国際連合事務総長ワルトハイム氏などの人びとと討論を行ったのである。氏は、今日の新しい諸問題と、過去およびその精神性が与えたものとを対比させるのに、他の誰よりも適した人物といえるだろう。氏はヨーロッパの思想をよく代表している人びとと対話し、これを数冊の著作として刊行することを考えた。こうして最初にあらわれたのが“CHOOSELIFE”で、イギリスの総合的大歴史家トインビーとの対話が採録されており、トインビー最後の著作となった。第一版は一九七六年に刊行されている。つぎに、池田大作氏はフランスに目を向けた。だが、アンドレ・マルローの死によって対話録のフランスでの企画は実現しなかった(日本語での対話録は一九七六年に刊行された)。。もしそうでなければ、少なくとも私ども二人が共同で行ったこの仕事はその一巻となっていたはずである。ついでイタリアがこの論戦に加わるであろう。ますます大きな危険をはらむ現代文明の不均衡にもたらすべき良薬探求の重要な中心となっているローマ・クラブの会長、ペッチェイ氏と池田会長との出会いがそれである。
4  この不均衡はあまりにも明白になってきているので、わずか数年のあいだに、文明に対する危機感を蔓延させ、これを人びとに認めさせてしまった。ヨーロッパもこの危機感を心ならずも認めないわけにはいかなかった。一世紀以上ものあいだ、ヨーロッパは科学の進歩によるたゆみない前進の神話をためらうことなく讃美する楽観主義にもとづく勝利の歌の音頭をとってきた。しかしこの歌は、現在に対する失望と将来に対する恐れによって不安がつのるにつれて、しだいに小さくなり、ついには消えてしまった。こうした危機の到来を予告する孤独な声は、すでに数十年前から聞こえていたのであるが、人びとはそうした声に対して初めは懐疑的でしかなかった。しかし危機はますます明白となり、猛威をふるうようになった。まず経済的危機が起こり、さらに風俗や思想の荒廃がこれにつづいた。要するに文明の危機、そしておそらくは文明そのものの危機が到来したのである。かくして“進歩”の波にかわってまったく逆の潮がわきおこり、それは疑惑と不安をまき散らし、とくに、時代の先端を行く若い世代、したがって一番影響を受けやすい若い世代に打撃を与えたのである。こうして、今世紀初めにはまだ、人びとの考えに君臨していたある明白な事実に、これとまったく根本的に異なった別の事実が取って代わったことが認められる。そしてこの新しい事実は世界中を襲っている。
5  かつて、各大陸はそれぞれの伝統や問題の中に孤立し、多少とも定期的に行われていた大陸間の接触も、表面的な好奇心を満足させるにとどまるか、あるいは強者と弱者との対立というかたちでしかなかった。やがて、ヨーロッパはエキゾチシズム(異国趣味)からコロニアリズム(植民主義)へ移行したのであった。今日では、自分たちのもろもろの学説や思考方法や信じ方、生き方、精神的自立を最もよく維持してきた民族も、経済と近代テクニックの共同体が煮え立っている巨大な鍋の中につぎつぎと落ち込んでいる。彼らは最初は、ヨーロッパとその分枝であるアメリカに追いつこうとして、その風俗を真似たり、合理的かつ機械的な生活方法を採用したりした。しかし、彼らは、この模倣によって“進歩”に対する欲望を満足させるにつれて、彼らが獲得した外的な、かつ輝かしい利益と引き換えに、深刻な代償を払いつつある。そして彼らもまた同じ危機に落ち込んでいるのである。
6  一つの共通の体験が、彼らに自分たちが失ったものの相対的な価値を教えている。彼らが自分たちの物質的かつ実際的な欲望を満足させればさせるほど、内部には大きな間隙が生じ、これまで精神生活の実践のおかげで自分たちを支えていたすべてのものが、その穴の中にくずれ落ちていくことに気がついたのである。この二つの本質、物質と精神は、彼らを苦しい、また取り返しのつかない選択の前に立たせる。こうして、経済学者や政治学者や社会学者などの専門的な分析を超えて、“危機”は、舞台裏に起こる不穏なざわめきや脅かされて混乱した大勢の人びとの唸り声にも似てくる。そしてその声は、なにかが欠け、不足していることを告発する。すなわち内的深みからの躍動、あふれる精神の源からの躍動の欠如である。多くの専門的分析は、かえってこの現象の重要性を過小評価し、また、あまりにも特殊な観点や、あまりにも理論的な方法でこの現象の説明がなされているが、こういうときに、この現象にあるがままの広大さと、その普遍的な真実性を回復させる必要がある。われわれがここに試みたのは、とりもなおさずそのことである。
7  しかしながら、池田氏が対話の相手として望んだ人びとの多様性は、氏の探求をいろいろな方向へ導き、われわれの心をとらえて離さないこの危機の問題に、さまざまの角度から光を当てることを可能にした。この対話が私の研究分野である芸術にとくに重要な場を与えているのは当然のことである。あるいはそれはただたんに、対話の相手の専門分野に合わせるということでしかなかったかもしれない。しかし実際はもっと重要なことである。芸術は、その性質や役割から、われわれの合理的、客観的かつ共通性を有する文明によって最も脅威にさらされた能力に依存しているのである。そして、危険にさらされた人間生活の均衡を立て直すためには、この能力の再発見が必要である。その能力とはいろいろあるが、なかでも、直観や創造的想像力や感受性や個性また個々の主観的なもの、質的なものに対する知覚などである。われわれの対話の中に絶えずあらわれる芸術は――たとえ芸術と指摘されなくても――、われわれの時代があまりにもたやすく向かう方向、すなわち、経済学や社会学や政治学などの強迫観念を反映した道にわれわれの分析が迷い込むことを予防してくれている。たぶん、それが問題の核心に、よりたやすくふれることを可能にしているし、少なくともそう私は期待し、確信さえしている。
8  この対話は、それからそれへとさまざまな主題に移っていくこともありえたが、それを避けるために、一定の方向を定めて、しだいに対話を展開させていく必要があった。そこで最初の部分では、世界が日に日に落ち込みつつある“危機”の確認から出発し、まずわれわれの時代を最も悩ましている分野、すなわち経済分野にあらわれた物質の重要性を取り上げた。しかしこの危機がもたらしたおそらく最も重大な影響は、道徳的危機すなわち内的な痛手である。そこで対話の第二部では悪の根源を歴史的観点からさぐる。悪は、文明が長いあいだにこうむったさまざまの変動の最後の変動の時期に始まっていることが明らかになる。
 第三部は、われわれをとおして行われた変化が、なににもとづいて成り立っているか、またしだいに減少しつつあるいくつかのわれわれの本質的可能性から突如切り離された人間性に、その変化はどのような修正をもたらそうとしているかについて、さらに、その結果として、人間が危険にも失ってしまったと感じているこの均衡を、人間に取り戻させるべき救いの錘をどこにおけばよいのか、を探求している。
 そこで、第四、第五部は、危機に対する救済手段を取り上げている。まず個人の再教育方法を検討した。しかし対話は、人間にのみ属する本質的可能性から引き出すことのできる、かつ引き出すべき、すべてのものを想定した。それらの可能性の一つは芸術、もう一つは宗教であり、その二つを結ぶもの、それは“神聖”の概念である。
9  危機によって生じた問題に対峙するとき、ある一定の理論の独断的態度は禁止されなければならない。そうした合理主義は、危機そのものをさえ帯びているであろう。この危機こそわれわれがよく見きわめて批判しなければならないものである。対話の利点は、二つの異なった、しかも同じ方向をめざす考えが出合うことにある。異なった考えというのは、互いにまったく遠く離れた二つの伝統の結果を反映しているからで、その距離は、何世紀も以前から西洋と東洋をへだてている距離に相当するが、根本的に異なったそれぞれの道を経ながら、なおかつ同じ結末に向かっているところから、共通の目的を有しているといえるのである。しかも、この結末は、それが由来する二元性を担っていることによって、重要性を有するのである。

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