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日蓮大聖人・池田大作

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家庭の未来について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン 二十世紀における社会的変化の速さは未曾有のものであり、したがって現代人が世の中で経験することは、その両親や子供たちの経験とは根本的に異なったものになります。新たな進展があまりにも急速に起こるため、個人は、一生の間にも、若いころの習練が、その後の人生で出合う新しい現象に備えての、十分な準備ではなかったことに気付きます。
 世界中で、そして社会の各層において、人々は、今日、新しい知識に出合い、新しいタイプの要求に対応し、新しい型の社会的組織に参加することになります。そして、仕事のためにも、家庭の中でも、また余暇のためにも、新しい技術、新しい器具、新しい方法を学ばなければならなくなっています。現代人は、繰り返し再教育を受ける必要があることを感じているのです。
 過去においては、個人は、自分が送ると予想される人生に必要な基本を子供のころに学んで、その後の学習は累積的な過程、つまり経験の集積を増すことであると考えていました。これに対して、今日では、累積という要素は大きく減退しています。むしろ、経験は、人を時代遅れの方法に執着させるため、しばしば障害となります。学んだことを忘れ、学び直すことが、日常の必要事となっているのです。
 これらのすべてが家庭に与えた影響は、次のようなものです。つまり、かつては一世代の経験が次の世代へと伝えられ、過去の(しばしばその特定の家族の過去の)知識が、あらゆる知識の中で最も重要な知識でした。これによって、各個人が自己の独自性を自覚したのです。しかし、今日では、あらゆる技術部門がますます重要な位置を占めつつあり、過去の知識はもはや使われなくなるばかりか、邪魔とさえみなされる傾向が強まっています。
3  池田 未来への創造ということ自体は、疑いもなく素晴らしいことです。創造することにこそ人間の優れた特質があり、現代文明が過去の桎梏に囚われないで、未来への創造に打ち込んでいることは、それ自体としては称賛されてよいと思います。
 しかし、反面、人間は過去からの伝統に深く根を下ろしている時に、精神的な安定性を得ることも事実です。それは、ちょうど、木が大空に枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を生らせるのと同時に、他方では、大地に深く根を張る必要があるようなものです。大地に下ろした深い根がなければ、安定性は失われてしまいますし、いまは盛んに葉を茂らせ、実を生らせていても、やがて栄養分は途切れて、全体が枯れ衰えていくでしょう。
 過去は、一面では桎梏になりますが、同時に他面では、新たな発展をもたらす養分を提供してくれるものです。桎梏という一面のみを見て、他方の養分をもたらす土壌という面を忘れ、無視して、過去を否定し、過去とのつながりを断ち切ることは、きわめて不幸なことであると私は考えます。
 現代の若者の間にも、この点の認識は、かなり強まってきているように思われます。わが国で最近高まっている歴史への関心は、その一つの表れといえます。しかし、現状では、それはたんなる関心であり、日常生活の中で過去に束縛されることについては、相変わらず拒絶的です。
4  私が思うのに、ある意味で大地が木にとって安定性を与えているのは、同時にそれが束縛でもあるからではないでしょうか。もし、大地が根を伸ばすのになんの障害にもならない柔らかく軽い砂であったら、木に安定性を与える力にはならないはずです。堅く重い岩や、ギッチリと詰まり重なった土であってはじめて、いかなる風雪にも耐えられる安定性を木に与えるのです。それと同じく、人間に精神的安定性をもたらすのも、ある程度束縛感を与える過去でなければなりません。
 これは、さきにも論じ合った、自然との合一ということについてもいえます。ほんとうに自然に帰ろうと思うなら、文明の便利さに甘えていてはなりません。自然の厳しさに触れ、自然の中での労苦を味わってこそ、自然に帰れるのです。その労苦を代償として、自然からその真の豊かさを得ることができるのです。過去もまた、その桎梏がもたらす苦しみを適度に私たちが味わってこそ、それを代償として豊かな養分を提供してくれるのです。
 長い伝統をもつ家庭という人間生活の基盤も、それを維持し、守るためには、少なからぬ労苦をともないます。現代人は、その労苦を嫌って、果実だけを求めているわけです。そして、労苦の部分については、国家や社会が肩代わりしてくれることを期待しているのです。
5  ウィルソン その通りです。ところが、国民一般のレベルでは、学校が技術的な学科により多くの時間を割くようになり、自国の歴史や文化遺産についての教育は、ますます減る一方なのです。いまなお人間的な修練を教えている学校でも、往々にして、ますます技術偏重的な精神で教えるようになっています(イギリスでは、演劇の教師が、劇の内容よりもテレビカメラ技術のほうに、ずっと興味をもっているということです)。こうして、文化的な知識が国民一般の間で失われる度合いは、家庭内で、世代間の価値観の伝承がなされなくなることによって、さらに強まっています。
 この事態はじつに深刻です。新しい技術のもつ力がどのようなものであっても、人生において重要ないくつかの領域は、倫理的態度がひろまることに必然的に依存しているのであり、また、倫理的な知恵というものは、技術の特徴である、流行り廃りの繰り返しの過程に左右されるものではないからです。ひろがりつつある世代間の断絶は、青少年の道徳化の過程を危険なほど損ない、その結果、青少年は人間的・文化的価値に対して当然もつべき感受性を、失ってしまっています。彼らがその経験上、自然科学の研究成果を応用すればすべての問題が解決できると考えるようになるのも、うなずけることなのです。
 社会的変化の影響や、現代生活の差し迫った必要によって、複数の世代が同居する家族は、もはや人間的な交わりのパターンとしては、存立しえなくなってきています。そして、これに代わって、特に国家の諸機関が、かつて家庭が果たしていた機能を埋めるべく、割り込んできています。
6  このことは、かつては子供たちの当然の責任とされていた、年老いた親の世話という問題にも当てはまります。この、家庭から国家への機能の移行という過程は、累積され、相互に作用し合います。国家は、もはや若い人々がほとんど引き受けたがらなくなっている奉仕を、提供しようと努力しています。こうしてひとたび新しい仕事を始めると、国家は若い夫婦からますます負担を背負うことを期待され、福祉的奉仕の提供は増大して、それが当然のことと考えられるようになります。国家は、自分の面倒を見てくれる子供をもたない老人や、家庭看護では手の及ばない重病人を保護する「最後の手段」から、しだいに「頼みの綱」的な存在となり、老人の看護に責任をもつ機関とみなされるようになってきています。
 近代国家における社会福祉事業は増大し、そのために莫大な経費が注ぎ込まれています。看護をしなくなった、もしくは看護の仕方を忘れてしまった一般の人々から、“看護”の専門家が、仕事を引き継いでいくからです。かつては自分の身内・親族への人間的な情として当然とされていた仕事にも、役割の専門化が進んできたことは、現代という時代をよく表しています。一般の人々は、ほんのちょっとばかり困難であるような症例までも、すべて専門家の手に委ねてしまっていますが、彼らはなぜそうした身内の人々の衰弱や病苦を、(医療の必要がある場合は別としても)むしろ自分自身が関わるべきことだと思えないのでしょうか。
 しかし、私がここで“医療の必要がある場合は別として”と断ったのは、その場合には困難をともなうということです。医療に関しては、家族にできることは、専門家に比べればはるかに少ないといえるでしょう。
7  今日では、病気以外の苦しみでさえ、家族の世話よりも新しい技術のほうが、苦痛を取り除けるかもしれません。老齢、疾患、出生時の不慮の出来事、親の早死に、捨て子、その他の理由から、正常な家庭生活を営むことができず、人生を“より豊かに”生きる機会を得るためには面倒を見てもらわねばならないといった人々の生活に、このような専門家や専門的意見が、ますます立ち入ってきています。
 これらの奉仕事業はすべて、あなたが指摘されるように、高額の経費を要します。あたかも若い人々は、自分の時間を使って自らこうした奉仕をするよりは、むしろ(税金を払って)収入を減らしてでも奉仕料を払おうと決めてしまったかのようです。皮肉なことに、家庭で、できるだけすべての手仕事を「自分の手でする」ことが流行になっている折も折、家族の責任や看護の仕事については、「自分の手でやらない」ことを選ぶのがスローガンのようにすらなっています。この選択は、われわれ現代人が個人の自治――すなわち他人から責任を負わされずに、自分の時間と悦楽を自由にしたいという願望――に囚われていることの反映なのです。
 こうした選択が、倫理上の責任感の破綻を意味しているとすれば、これはまた同時に、われわれが、自分たちのしなければならないことはすべて新しい技術を応用すればできるということに、いかに期待を寄せているかを物語るものです。そして、それはまた、昔から普及していた仕組みよりも新しい特殊な技術のほうが優れているという、往々にして正しいとはまったく認められない想定に、われわれがいかに期待を寄せているかを示すものです。
 現今の西洋では、福祉的奉仕が急激に増大していることに対して、たとえ経済的理由からにすぎないにせよ、一部に反動が強まっています。ところが、それよりもはるかに認識されていないのが、技術的な能力を重視して倫理的責任感が捨て去られるとき、いったい何が失われるのか、ということなのです。
8  池田 それによって失われるものは、計り知れないほど大きなものだと思います。日蓮大聖人の言葉に「蔵の財より身の財が優れ、身の財よりも心の財がさらに優れている〔「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」〕」とあります。老いた親のために、物質的・経済的な面で扶助するというだけなら、公共の福祉機関によって可能です。つまり、蔵の財というだけなら、子供に代わって公共機関が肩代わりできます。身の財――すなわち、身体の不自由な老人のために世話をすること――も、ボランティアによってできるでしょう。しかし、老いた親にとって何より嬉しいことは、子供の注いでくれる愛情であり、心の財です。家庭の伝統が崩壊しつつある現象の根底にあるのは、この心の財の尊さを忘れているということではないでしょうか。
 これは、親と子の関係という、家庭に関わる問題だけではなく、現代文明のあらゆる問題に共通することであると私は考えます。未来への創造だけに心を注ぎ、過去から養分を汲み取り、過去の中に安定性の基盤を求めることを忘れているのは、物質的豊かさと技術の発展しか考えていないからであり、すなわち、蔵の財、身の財のみを重んじ、心の財を見失っている姿といえましょう。蔵の財、身の財は、過去に囚われないところに、むしろ創造がなされていくのかもしれません。しかし、心の財は、過去を養分として、真の豊かさを増大していけるのです。
9  ウィルソン 科学技術は、一つの累積的な現象です。技術は、それまでの方式を次々と廃れさせながら発達していきます。道徳的知恵は、そのようなものではありません。この知恵は徐々に習得されるものであり、そこに近道はありません。若者たちは、新しい技術を急速に身につけることができますが、道徳的・社会的・精神的な価値は時間をかけて習得するしかありません。
 さらにまた、そしてこれこそあなたの指摘されている点ですが、こうした価値は主として家庭内や共同体社会の中で、高齢者から習得するものです。家庭が崩壊し、各地の居住地域が真の生きた共同体の姿を失うにつれ、道徳が継承される過程も破綻をきたしています。
 今日、倫理的・社会的な結合力があらゆる分野で危機に瀕していますが、そこで教育に必要とされているものは、人間関係が安定すること、模範が有効であること、そして、自然発生的な共同体の環境の中でのみ生じうる社会的参加を継続する意識があることなどです。
 このような人間関係には、マイナス面もあることは明らかです。しかし、これこそが道徳の学習の本質的な要素なのです。若い人々が老人たちと一緒に暮らすことの不便さは、かつて老人たちが彼らを生み育てるのに蒙った不便さの償いにすぎませんが、そのことを知るには、彼らは、十分に長期にわたる倫理的感覚を身につけなければなりません。
10  家庭は、いまやかつての機能の多くを失っています。それぞれの家庭はより寿命の短い制度となり、子供たちを生み育てる比較的短い期間を過ごすだけの、社会的存在として存続しています。子供たちがやがて家庭から巣立つと、死亡や、増加しつつある離婚によって分断されないかぎり、両親夫婦だけが家庭に残されます。結婚式を挙げない(だからといって必ずしも永続性があまりないとはいえない)男女の結合が増えており、今日、人類に――より明確には女性に、というべきでしょうが――出産率を支配する力をもたらした技術によって、生物学的見地から定められた労働の分業や、それに付随する家庭経済さえもが、徐々に蝕まれています。技術は家庭の構造や機能や気風を侵蝕しており、制度としての家庭が弱体化していることは明瞭です。
 しかし、われわれは、家庭に代わるべき適切な制度を知りません。こうした家庭の凋落が、より広範囲の、さまざまな倫理的・社会的風潮の伸展と密接に関係していることは疑いありません。そうした風潮は、若者たちの無頼気質や破壊行為をはじめとして、(西洋での)一部の組合労働者の、流血騒ぎを好む傾向にまで及んでいます。
11  家庭を侵蝕しているさまざまな社会的な力については、徹底した社会科学的な分析によって初めて認識することができますが、これらのさまざまな力を考えるとき、家庭が以前のような役割を回復することはなさそうです。しかしまた、家庭が全面的に崩壊し去るということも、同じく想像し難いことです。たしかに、人々が施設の中で子供を生み育てるよう組織立てることも可能でしょう。しかし、そのような家庭の代替物は、知能が低く、意欲の薄い、情緒的反応の弱い子供を作ってしまいやすいことは、周知の事実です。親子関係への欲求はいぜん根強く存在しており、この欲求は、実際に家族的構成を要求しています。
 家庭と宗教は、いろいろな面で密接に関連し合っている制度であり、いずれも地域共同体に根差しています。宗教は、あらゆる地域にあって家族関係を正当なものとして認め、年老いた(またしばしばすでに死亡した)世代と、若い人々とがつながっているという意識を強めます。家庭を侵蝕しつつあるさまざまな力は、宗教の働きを妨げる力でもあります。すなわち、技術は、倫理的・精神的知恵に取って代わる知識として、登場しているのです。
12  近代社会には、真の保守主義者というものは、ほとんど存在しません。保守を自称する政党も、たいていは自由放任経済と、それに付随する自由放任の論理に、どっぷりと身を浸しているだけなのです。そしてまた、自然環境の保護を唱えたり、「大きな政府」や多国籍組織を批判したり、「小さいことはよいこと」をモットーにしている人々も、家庭の機能や価値が侵蝕されていることには、まだ気付かずにいるようです。また、彼らが(それが宗教に関わる場合も)何ら共通の宗教的見解を示さないことも確かなことです。
 しかしながら、やはり家庭生活は深い象徴的な意義をもっています。政治家はしばしばこのことを唱えますが、彼らは家庭生活を脅かしているさまざまな力については、ほとんど何も知らないのです。もし宗教指導者たちが、文化の伝承とその障害に関する微妙な問題について誰かに調査をさせたならば、政治家の約束に冷笑気味になっている一般大衆は、おそらく家庭生活の価値に賛同する旨の反応を、直ちに示すことでしょう。
13  池田 宗教は、多くの場合、家族生活によって維持・継承されてきたといえますし、逆に、宗教が、家族生活の伝統を伝えてきました。“宗教”の“宗”という文字は、祖先の霊を意味したともいわれています。仏教においては、祖先の霊を信仰の対象とはしませんが、祖先の霊に安らぎと幸せを送り、その恩に感謝することは、その種々の儀式・祈りの重要な目的の一つとされています。

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