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科学の発達の是非  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン 科学は、いまや現代社会において、各大学においても、専門の研究施設においても、また産業においても、完全に制度化されています。強力で、多種多様で、多岐にわたる科学の影響が、いまこそなんらかの形で社会的監視を、そしておそらくは社会的管理すらも、受けなければならない潮時なのです。科学は、われわれすべての生活に影響を与えます。自分たちの生活や社会に科学がもたらす影響の決定権に、何の発言力ももたない、文字すらも知らない未開社会の人々の生活にさえも、影響を及ぼしているのです。
 科学者たちが仕事を遂行するためには、きわめて幅広い自由を必要とすることは明らかです。しかし、その自由は、責任の倫理と均衡を保っていなければなりません。大部分の科学者は、個人としては十分に責任感のある人々であっても、科学自体が、いまやあまりにその内部で多様化し、その分野もあまりに細かく区分され、その活動も――主として公共の費用によって――あまりに完全に制度化されていますから、おそらくいまこそ、科学における責任の倫理というものが、正式に、恒久的に、また公的に示されるべき時がきているのでしょう。
3  科学知識の利用法を規制するような、ある倫理規範が制度化されることは、まだ可能性の域を出ていないことなのでしょうか。少なくとも西洋諸国では、医療や法曹等の職業を営むうえでの倫理規範は機能しています。それに比べて、科学の規制がはるかに複雑であることは周知のことですが、しかし、これらの倫理規範が、科学技術の倫理への基礎的な規範、もしくは少なくとも参照例にはなるでしょう。
 科学者は、医師や弁護士に比べれば、依頼者対受託者という直接の関係において仕事をすることが、はるかに少ないものです。科学者の仕事は、もっとずっと細かい専門分野に分化されています。しかもそれは、(医学でも似たような傾向が生まれていますが)秩序立ったチームワークに依存する度合いがはるかに大きいのです。
 科学がもつ多様性と、その将来の多面的な発展性を考えれば、科学者だけでは十分な倫理規範を導き出すことも、運用することもできないことが分かります。そうした規準が効果的なものとなるためには、科学技術を利用する人たちだけでなく、一般大衆の代表者からの支援が必要でしょう。
4  この規範が真に効果を発揮するためには、政治次元を超えるとともに、国際的であることが必要でしょう。また、この規範の設定には非常に大きな困難がともない、多くのレベルでの政治協力が必要とされます。
 しかし、国連やユネスコ、さらにはノーベル平和委員会といったいくつかの国際機関が、そうした組織体の中核をなすことが考えられます。このような機関が、ただ政治的・外交的なものであってはならないことは当然の理ですが、同時にまた、この機関自体に、政治家全般にひろまっている倫理観を超えた、何らかの倫理精神が吹き込まれることが必要でしょう。政治家の関心は、結局は、一つの選挙から次の選挙までの期間に、自分の選挙区民が満足すべき状態に置かれるという、短期的な関心である場合が多いのです。
5  池田 まったくおっしゃる通りです。政治家は、どうしても、直接、利害に絡みがちです。特に現代の科学は技術と結合し、それが企業の利益に結びついているため、政治家は自分を支持してくれる基盤としての企業家や、その従業員の希望・期待に沿うことを、いうなれば至上命令にしがちです。こうした苦い教訓は、公害問題を巡る政治家たちの対応によって、私たち日本人の多くが身に染みて味わってきました。
 もちろん、政治家のすべてが、自分の地位の安泰しか考えていないというわけではありません。逆に、たとえば、そうした利益との結びつきが比較的少なく、人間的良心によって行動すると期待される宗教家も、まったく世俗的利害と無関係というわけではありませんし、良心よりも利害を優先しないとはかぎりません。
 そのため、こうした機関を構成するメンバーは、あらゆる分野から選ばれた、できるだけ利害に動かされる危険性の少ないと思われる人であることが理想的でしょう。完璧にこのような条件を備えるということはもとより不可能ですが、それに近づけるよう努力することが必要です。
 また、審議する問題によっては、あまりにも専門的にすぎて、大部分のメンバーが内容の理解すら得られないために、討議することが無意味であるということもありましょう。そうした場合は、内容を理解できる、またその結果に関係をもつ人々を選んで、小委員会を設け、そこに審議を委託するということが望ましいと考えられます。
6  ウィルソン おっしゃるように、科学の倫理規範を発達させ、機能させる機関は、利害関係をもたず、公平に見ることができる客観的な存在でなければなりません。その機関の最後のよりどころは、たんなる道徳的な権威を超えたものであることが必要でしょう。ただし、その場合には、政治の領域に巻き込まれる可能性も含まれているのですが――。また、専門的な小委員会の助言や、適切な構成の行政機関による奉仕も必要でしょう。
 これらのすべてを備えたうえで、しかもなお、その機関が政治や科学の専門的方法を超えたレベルで運営されること、そして、なかんずくそれ自体の官僚的階級制に対してはその主人であり続け、決してその下僕にならないことが絶対に必要でしょう。この機関の職員は、あらゆる種類の圧力団体――企業やマス・メディア、政府、不満分子など――の働きかけにも抗しうる、最も高潔な人たちであることが必要です。したがって、この機関の構成員は、十分に検討された、公共精神豊かな人物だけになるでしょうが、私は、そこに宗教指導者が参画することを期待します。
7  私の提案する倫理評議会は、本来、科学・技術の規制や管理をも制度化すべき性格のものです。この評議会は、その関心を、科学研究の自由の権利を維持することと同時に、新しい技術の応用の社会的・倫理的影響を考察することに置くことになるでしょう。また、この倫理評議会が管理すべき対象としては、個々の科学者よりも、むしろ科学研究所や研究財団、各国政府、そして、おそらく何よりも企業ということになるでしょう。
 このような機関が存在すること自体が、一般大衆に対して科学への関心を高めさせることになり、また、そこでは宗教指導者等の人々が機会を得て、倫理的に特に関心をもつ事柄を、この機関に注目させることにもなるでしょう。そして、そこでは、宇宙開発をその顕著な例として、政府が支援しているいくつかの科学的事業を犠牲にしても、一般大衆の関心事が取り上げられるでしょう。何百万という人々が飢餓に瀕している世界にあって、はたして宇宙開発に注がれる類いの科学への出費が正当であるかどうかを、きちんとした構成の公共の討論の場で検討することは、適切なことでしょう。

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