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宗教と社会的価値観  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン 宗教の有効性にもあれこれの形態があり、なにをもって有効とするかは、まだ決着のついていない問題です。われわれが「有効性」というとき、それはたぶん、第一に、人々の生活にどれだけの影響を与えているか、第二に、ある一定の明示された目的を達成する能力があるかどうか、第三に、それらの目的が、何か別の外的な規範を基準にして考えた場合、望ましいものであるか否か、を指していると思います。ここでは、あなたが述べられた付加的な項目――組織、社会への関わり方、組織構成員の資質――は、しばらく置いておくことにします。
 かつて宗教の教義そのものが、時には強力な、おそらくは決定的な影響を、社会の出来事に与えたことがありました。あなたは、十二世紀の日本で、阿弥陀仏信仰の影響によって多くの人々が自殺したことを例に挙げられましたが、私も、もう一つの事例を挙げてみましょう。四世紀北アフリカのキルクムケリオ派(注1)の信徒は、殉教によって神の恵みが得られるとの教えに非常に深い感銘を受け、その結果、なかには非キリスト教徒を招いて殺してもらう者さえ現れました。彼らはこれによって、「キリストのために死んだ者」に約束されているとされた、死後の特別の恩寵に浴することができると思ったのです。
 もちろんこれは劇的な例ですが、ここに見られる反応の極端さは、さほど劇的でもなく極限的状況でもない多くの事例にも見られ、宗教的信条が社会生活に数々の効果をもたらしてきたことを示しています。もちろん、それらの効果は必ずしも予測されなかったものかもしれません。人間は、時には指導者の忠告に背いて、ある種の観念に確信を抱き、その結果、本来思ってもいなかったようなところまで、その観念を追求するということがあるものです。
3  キリストの再臨が間近いことを主張するのは、キリスト教徒の周期的現象ですが、これが時には、人生や社会が間もなく変革されるという期待を呼び起こし、その変革を早めようとして、一部の信者が革命的行動に走ることもありました。宗教改革初期のヨーロッパや、ずっと降って、アフリカやメラネシアには、「黙示録」に(注2)しるされた事柄への抑えきれない期待から、人々がいかに怪奇で危険な行動を取ったかを示す事例がふんだんにあります。
 もっと世慣れた大衆の場合でも、時折、宗教的信条に動かされて、信仰は生命よりも大切だと思い込んでしまうことがあります。種々のキリスト教セクト――ペンテコステ派、クリスチャン・サイエンス派、エホバの証人派等――の信者は、ある種の医療法を拒否し、なかにはそうした医療を受けることよりも死を選んだという人たちもいます。これらはすべて、宗教的信条がもたらす効果を示す例であって、それが本来意図した結果を示すものではないのです。
4  池田 宗教的信念が本来意図しなかった結果といっても、人間社会にとって有益な場合と有害な場合があります。いま挙げられたような例は、有害な場合といえましょう。私が挙げた念仏の例も、間違いなく有害な場合です。
 有益な例としては、仏教について見ますと、釈迦牟尼が、まだ真実の覚りについて明かしていない方便の教えの段階で、それを聞いた非常に理解力の鋭い弟子のある者はそれだけで真実の覚りを理解してしまったという例が、仏典に示されています。つまり、これらの教えで、釈迦牟尼は、この現実の人生の無常であることを教えたにすぎなかったのですが、そうした弟子たちは“人生は無常だから、どのように生きようと自由である”というのでなく、“無常だからこそ、物質的欲望などに囚われずに精神的充実と向上を目指していこう”と考えたのです。それは、その段階では、まだ釈迦牟尼の意図しないところであったわけです。
 このように、よい結果が出た場合は問題がないのですが、悪い結果が出た場合は、意図しなかったとはいえ、教えを立てた人が人々から非難されてもやむをえないでしょう。というのは、このような教えを立てた場合、人間の心理の中でどのように屈折するか――もちろん、個々の相違があることは当然としても、多くの人間心理はどのようなものなのか――ということを、正しく見抜けなかったことになるからです。その意味で、さきに私が挙げた念仏の例に関して、それを立てた釈迦牟尼を、一言、弁護しておく必要があります。
5  釈迦牟尼は、この西方の仏について説きましたが、釈迦牟尼自身、これは方便として説いたのであって、この仏を信仰すべきではないと後世のために戒めているほどです。釈迦牟尼は、仏陀に憧れる心を教え、仏陀の慈愛の大きさを示すために、かりにこの西方の仏のことを説いたのであって、この仏そのものを信仰させようと意図したのではなかったわけです。それは、たとえば、文豪が一人の人物をその作品の中で描きますが、それによって普遍的な人間性の一面を表しているのと同じです。後世の人々が、西方の仏に憧れて自殺さえしたのは、ちょうどゲーテ(注3)の描いたウェルテル(注4)に憧れて、黄色いチョッキを着てピストル自殺を図った若者たちと同じようなことといえましょう。
6  ウィルソン 宗教が、人々を鼓吹して、特定のはっきりと明示された目的の達成へと駆り立てる力をもっていることは、歴史からも容易に立証することができましょう。プロテスタントの倫理が引き起こした変容は、特定の価値志向を広範な社会に普及させるうえで、宗教が有効であることを示しています。そうした例は他にもあります。十九世紀のイギリス勤労者階級の気風を大きく塗り替えたメソジスト派の影響、さまざまな時期に社会的アイデンティティー(自己同一性)と運命づけについての新しい意識を全住民に吹き込んだイスラム教の熱情等が、それです。
 宗教の有効性が実際にどれほどのものかということは、さらに難しい問題であり、これについては、組織とか組織構成員の資質などの付加的な要因が、非常に重要になります。ところが、かつて一部の著述家は、そこに社会的背景が寄与していることをあまりに強調したため、彼らは、宗教の教えそのものをごく付随的なものとみなしてしまいました。彼らによれば、宗教の教えは、特定の社会的条件下で生きている人々の、痛切な要求に応えようとしたものにすぎません。
 一つの教義が有効であるためには、特定の社会的環境に訴えて、そこに共鳴を引き起こさなければならないことは明らかですが、だからといって、それは、理念や信条そのものの重要性を曖昧にしてよいということではありません。その社会全体の気風や生活様式、価値観が変わるとき、そこには観念的な要素が働かなければなりません。そうした要素の最も典型的なものが宗教的信条であり、宗教に鼓吹された道徳なのです。
 もちろん、キリスト教のような完全主義の宗教は、その表向きに掲げた目標を、完全に達成することはありません。その道徳規律はあまりに厳しくて実行不可能であり、たとえ、ときには社会全体が宗教から強く影響されることはあっても、完全主義が、完全な目的の達成を妨げるのです。
7  池田 まさにおっしゃる通りです。具体的行動――つまり、宗教でいえば修行の実践――について完全主義を求めることは、人々を絶望に陥れるだけです。何事であれ、完全に成し遂げうる人間は、ごく少数者でしかありえません。しかも、それが長期間にわたる場合は、完全になしうる人は皆無になってしまうでしょう。
 したがって、目指すべき理想は完全であっても、そのために必要とされる実践は、少々の欠陥があったとしても許され、欠陥を絶え間なく補い乗り越えていく努力の持続によって、その完全な目的・理想が達成されるという教えでなくては、人々に希望と勇気をもたせることはできないでしょう。そこに、仏教でいえば仏陀の慈悲、キリスト教でいえば神の愛の広大さが、特に強調される所以があります。人間の修行には欠陥があっても、仏陀の慈悲や神の愛が、その欠陥を補ってくれるわけです。
 しかし、これも、その受けとめ方によっては、意図しない悪い結果を招く場合もあります。すなわち、仏陀の慈悲、神の愛は広大であるから、どのような欠陥があっても許されるとして、その欠陥を是正し、自らの完成・向上を目指そうとしないのみか、逆に、欠陥を拡大してしまう場合も少なくありません。人間は宗教の教義について、ずいぶん自分勝手な解釈をしてしまうことが多いのです。こうした自分勝手な解釈と、教義の本来の精神を踏まえ、その精神を時代的・社会的状況の中で生かすために再解釈することとは、一見似ているものの、本質的に異なるのであり、この両者は区別しなければなりません。
8  ウィルソン 私たちは、ここでは非常に広義の用語で発言をしております。そして、宗教の教義体系が解釈や再解釈を経るものであり、その意味が変遷し、転倒すらするものであることを私たちはともに認めております。そうした変化が、特定の社会的状況、つまり世俗思想の傾向、他宗教との競合、経済構造の変化、その他の多様な影響を誘因として生ずるものであることは疑いありません。どのような文書化や教義問答化や儀礼的反復等の体系が出来上がっても、教義の体系は、長い年月を経る間には、意味上の変化を遂げざるをえなくなります。
 過去において、宗教は、ときには知的討論の基調の決め手となり、種々の問題を提示し、人々はそれらを巡って真剣に討議してきました。もっとも、それらの問題も、後世になってみれば、些細で取るに足らない問題のように思われたものでした。中世キリスト教の学者たちの議論には、重要な哲学的問題とか範疇を設定しようとする試みと、疑問そのものがきわめて抽象的で、たんなる空想の産物であるため、推測による以外には取りつくことすらできないような疑問が混じっていました。
 いまではそれらの疑問は、異端についての定義の決め手となった多くの問題と同様に、放棄されています。今日では取るに足らないような問題について、たんに正統教義の変型にしかすぎない信条を持っていたことが理由で、人々が火刑に処されたこともときにありました。こうした問題のいくつかについて、近代の神学者が、ときとしてそうした昔の異端的立場をとることもあります。宗教は、一般に、普遍的で時代を超越した真理を提供することを求めますが、どの宗教も、それが信仰されている時代や文化そのものに大きな関連性をもっていることは明らかです。
9  人々にとっての、たんなる利益といえるものを超越する、種々の価値志向を人々に与えることこそ、宗教が常に携わってきた任務です。利益とは、経済的・物質的福利を最大限に拡大することに関するものであり、唯物的哲学の基本的な関心事です。その主たる例がマルクス主義なのです。
 宗教は人生やその目的を再評価させ、ありふれた体験を変質させてくれます。そうした過程において、ある種の超絶的な価値観が、狭義の経済的意味での利益に合致するからではなく、それ自体献身に値するものとしてひろめられていきます。宗教はより高い道を提唱し、それをいかにたどるべきかについて助言してくれます。
 宗教は目先の利益のみに関心を払うものではありませんし、たんにそのために役立つ、功利的なものでもありません。もしそうであったなら、それは呪術です。それぞれの高等宗教の倫理は、何らかの超経験的な源泉や体験に起源をもっていると主張しており、ある意味で常に専断的ですが、その倫理体系は、自己放棄や他者への奉仕を強調するなどの点で、大いに共通点をもっているわけです。
 こうした高邁な目的も、もちろん頽廃することがあります。宗教が一定の形式の狭い律法主義に堕すこともあります。たとえ高尚な用語が引き続き用いられていても、その象徴的な意味は消散し、インスピレーションが慣習へと堕してしまうこともありうるのです。ある面で、宗教は常に再生を必要としており、衰退しないためには、エネルギーを繰り返し注ぎ直すことが必要です。再生が必要であるのは、宗教の目的が終極のものであるからです。
 その目的が達成されることは、最後までありません。宗教の仕事は、人々を目的に到達させることではなく、むしろ彼らに、希望に満ちた旅を続けさせることなのです。体験を変質させるに際して、宗教はそこに意義を与え、感情を規制し、価値観を伝達します。このため、その用語は常に曖昧であり、象徴的でありながらも、同時に精神を喚起させるものであり、評価を与えるものなのです。
10  科学が、経験的事実に基づくレベルでより効果的に作動しようとして、情緒的なものや評価的なものを排除するのに対して、宗教は不可避的にすべてのレベルで同時に作用することを約束します。科学者は、経験的事実の立証と、それらが経験的基礎をもつ理論にいかに関連するかの立証を試みることで満足するでしょう。しかし、宗教者は、それに加えて、それらの事実をいかに評価すべきか、またそれらの事実への対応として、自己の情緒の源のうちどれを呼び出すのが適当であるかを、知らなくてはならないのです。
 人生は決定すべきことで満ちており、したがって、人間は経験的事実に基づく知識以上のものを必要とします。人間は解釈を要求しますが、解釈には、情緒的な対応と価値観が必然的にともないます。宗教の教えの深さが発見されるのは、まさにこれらのレベルにおいてなのです。そして、宗教が、他の知識体系よりも幅広い範囲の体験に関与するのは、まさにこのためなのです。
11  (注1)キルクムケリオ派
 原始キリスト教未来派。北アフリカで社会的・宗教的反乱を起こしてローマ当局に鎮圧されたドナトゥス派の一派。
 (注2)「黙示録」
 ヨハネ黙示録(TheApocalypse)。『新約聖書』の最後の一書。ローマ帝国に迫害されていた小アジア地方のキリスト教徒に慰藉・希望を与えることを目的として書かれ、キリストの再来と新しい神の国の到来、地上の王国の滅亡が近いことが予言されている。
 (注3)ゲーテ(ヨハン・ヴォルフガング)(一七四九年―一八三二年)
 ドイツの詩人・文学者・科学者・政治家。『ファウスト』『ウィルヘルム・マイステルの修業時代』『(同)遍歴時代』『詩と真実』他。
 (注4)ウェルテル
 ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(DieLeidendesjungenWerthers.1774)の主人公の名前。

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