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日蓮大聖人・池田大作

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教義的規制の拡大傾向  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  ウィルソン 社会学者の間で「制度化」(注1)として知られる過程は、すべての宗教運動に固有のもののようです。初期の活力、簡素さ、カリスマ的魅力などは、時とともに日常性と複雑性に道を譲り、官僚的機構の台頭を許し、諸々の規則が設けられることになります。
 成功を収めているどの宗教運動も、遅かれ早かれ、しかも通常は早い時期に、統合的な組織機構となるものです。そこに一定の典型的な進展、つまり、宗教で出世をする専従聖職者の階層化、昇進に関する規則、機能の分化(部門化)、作業の重複の排除や訓練の慣例化、教理問答書や表現形式や決まった手順などの作成等々が生じます。
 こうして、一つの運動は、ますます組織化された手順や対応に依存するようになります。新しい状況やジレンマは、直截率直な本来の信仰表現に解説を加えたり詳細化を施す必要を呼び起こし、その結果、あなたが述べられたような過程が、着実に進行することになります。
 精神主義的な気風が、法律に則った規則の体系へと転化していくのが、すべての大宗教に共通する変化のパターンです。このため、本来は宗教集団を意味した言葉が、私たちの一般用語の中に――たいていは軽蔑的な用語として――入ってきています。たとえば、律法尊重主義を「パリサイ主義的」、学識を重んじることを「タルムード的」、詭弁を弄することを「イエズス会的」、純粋性に細心の注意を払うことを「ブラーマン的」、道徳に口やかましいことは「ピューリタン的」といった具合で、これらは、それぞれの特徴的な傾向性を簡明に表現しています。
3  あなたが示唆されたように、規則を詳細に作り上げることは、宗教にとって重荷になります。規則は、往々にして、イスラム教のウラマー(法学・神学者)のように、もっぱら規則の解釈を専門とする階級、あるいはユダヤ教のラビ(律法博士)のように、純粋性を精密に保つことを専門とする、特殊な階級によって維持されます。
 宗教的義務の強要は、特定の宗教が特定の地域で支配的になった場合に、共通して見られます。もちろん、こうした強要が最も活発になされるのは排他的な宗教の場合ですが、その他にも、時として、世論が喚起された場合に見られます。
 少なくとも、最近にいたるまでは、カトリックの村においても、ヒンズー教の村においても、信仰上神聖な特定の象徴的事物を無視する村人がいたとしたら、その人は大胆不敵な人物とされたことでしょう。神聖な牛を十分敬うこと、あるいは教会の戸口で跪くことなどは、日常生活の習俗の一端であり、したがって、その土地の人々に課せられたことでした。もちろん、人々は、義務が強制されるような事態を避けたり逃げたりするのが得意ですが、伝統的宗教による慣習の浸透が、宗教による社会的強制の一形態であることは認めなくてはなりません。
4  池田 現代人の心の中には、往々にして、中世への懐古趣味のようなものがあります。人々がたがいに強い精神的絆で結ばれており、毎年、あるいは毎日が、古くからの習慣で織りなされている中世の生活に、心の安らぎを求めます。しかし、そこには、反面、そうしたしきたりに背く者に対しては、厳しい制裁があったことを忘れてはならないでしょう。
 もちろん、ほとんどの当時の人々は、そのようなしきたりに背くことなど考えもしませんでしたし、それ以外の人生があろうとさえ考えなかったでしょうから、そのために苦痛を感ずることも、ほとんどなかったことでしょう。しかし、もしもお祭りの時だけの中世復古――しかもたんなるマネごと――でなく、生活のすべてが中世に逆戻りしたとしたら、それに耐えられる現代人はどれほどいるでしょう。
 そうした中世の生活の基底をなしていたのが、宗教の優位でした。この事情は、おそらくヨーロッパの場合も日本の場合も、それほど違いはないと思います。季節ごとの行事や毎日の習慣は、そのほとんどが宗教的義務であり、聖職者が、それらの行事の主宰者として、人々の乏しい収入からかなりの部分を吸い上げていました。
 人々が、聖職者のために、多くの苦しみを強いられ、一方の聖職者は、人々の生活に定着した形式的義務のおかげで特権を甘受し、そのために本来の崇高な使命観を忘却するというようなこともあったでしょう。私は、このような事態は、一般民衆にとって不幸であるばかりでなく、聖職者――ひいては宗教そのもの――にとって悲しむべきことであると考えます。
5  ウィルソン どこでも宗教が人々に効果的に影響を与えているところでは、その宗教は必ず日常生活の慣習に溶け込み、そのため、いまあなたが述べられたように、聖職者が非常に大きな社会的影響力をもつことがよくありました。時には、宗教によって規定された禁止事項、特に禁酒、食事の規定、営業時間の規制といった事柄が、個々の社会に課せられました。合理主義者が、そんな規定は廃止すべきだと主張するのは、たやすいことでしょう。しかし、人人が予測することのできる秩序の枠組みや、一つのまとまった慣習をもたらすことの価値というものも、認めなくてはなりません。
 社会の習俗はさまざまな起源をもっています。なかでも宗教は、おそらくその主たる源泉であり、宗教の課す慣習が高度の倫理に合致するかぎり、共同体の過去の歴史の種々雑多なエピソード(挿話)や、隣接社会からの借り物から作り出した規則がやたらに積み重ねられたものよりも、宗教は、社会の習俗の優れた源泉でありましょう。
6  こうした要件があるにもかかわらず、宗教指導者は、まわりの状況が好都合であると、往々にして社会の中に、社会的・道徳的規則を定めようという誘惑に抗し切れませんでした。これらの宗教指導者は、本当の篤信家に対してはもとより、無信仰者や信仰心の薄い者に対しても、少なくとも外面上の行動を強制して、彼らを従わせることが信仰の励みになると考えました。彼ら指導者たちのある者は、そうすることが、内面的な、目に見えない恩寵を育むことを促すものと推測したのでした。
 このような強制が可能なのは、その宗教が社会の支配を達成し、完全な発達を遂げ、社会に定着した場合のみです。そのような場合、宗教指導者たちが、より関心を払うのは、しつこく真理を述べ立てることよりも、安定した習慣を維持することのほうでしょう。そうした事態が生じるのは、本質的なビジョンが翳ってしまい、各人の自発的な信仰心よりも、彼らの全体への順応のほうが主たる関心事となったときです。社会に定着し、十分に確立された宗教における指導者は、その運動自体がまだ日常性から挑戦的に決別していた初期の段階に必要とされたのとは、また別の特質を必要とするわけです。
7  やがて、既存のものになった宗教には、広範な社会の大衆も慣れてきて、その宗教の代表者たちに対しても、せいぜい淡い尊敬心や微かな憤懣しか示さなくなります。また、彼らの姿に刺激されて、再び献身したり帰依の生涯を送るといったことは、たとえあるとしても稀になるに違いありません。じつのところ、長期安定化した宗教の階層的組織の人たちは、往々にしてそうした効果をも願わず、また、純粋な信仰の基本をあまりに活発に主張する人々に対しては、概して疑いの目を向けるものです。
 宗教は、制度化されるにつれて、少数の専従者階層に支配される傾向があり、彼らは、宗教上の業務分担が生み出す特定の地位を占めるようになります。そして、そうした地位のおかげで、これらの支配層は往々にして広い精神的ビジョンを犠牲にし、信仰上の秩序の細目に関わることで忙殺されるようになります。
 いまや彼らは職業的宗教家であり、挑戦よりも安全を、精神の活力よりも型にはまった仕事のほうを好むのです。あらゆる宗教制度と宗教組織にとっての一つの永遠の課題は、一方では階層制組織の下層部にいる人々が上位の人たちに異議申し立てをするのを、また他方では慣例化した作業の中に彼らが沈み込むのを防ぎながら、いかにして彼らに高度な精神性を吹き込むかなのです。
8  池田 宗教セクトは、その開祖が打ち立てた宗教的信条を弘めることを主眼にするわけですが、同時に、独自の倫理観や、時には政治的イデオロギー、経済理念と結びつくことがあります。これは、そのメンバーの宗教的信条への熱情から、生活の全分野をこれによって律しようという欲求が強まるため、セクトのメンバーが一つの理想社会を築こうとする場合に必然の経過として行われる、といった説明がなされうるでしょう。
 たしかに、たんに宗教的信条だけでなく、あらゆる他の領域に関しても独自の信念や理想をもつことは、内部的結束を強化するという効果を生じます。ある場合には、宗教的信条だけでは引きつけられない人々を、そうした他領域の信条によって吸収できるという場面もあります。現代の日本の宗教セクトの多くは、本来の宗教的信条以外の理念や事業による社会的・文化的諸活動において、より広範な支持層を獲得しようと努力しています。
9  しかし、このことがもっている危険性に気を配っていくことが大切です。それらをたんに手段として使っている場合は、やがて厳しい非難の的になる恐れがありましょうし、教義の必然的帰結として行っている場合も、こうした本筋以外のものの比重が増すにつれて、本来の宗教的信条への情熱が薄れて、弱体化する危険性があるからです。
 そこに独自の倫理観や政治的イデオロギーなどが結びついている場合、そのイデオロギーに賛同できない人々は、本来の宗教的信条には共鳴していても、このために、はじき出される恐れがあります。しかも、たんに宗教的信条だけでなく、こうしたさまざまな点についても共鳴し合っている人々の社会は、ちょうどたくさんの糸でたがいに結合し合っている組織体のように、内部結束は強まりますが、逆に、そのどれか一つにでも違和感を覚えている人は、すべてについて排斥されざるをえなくなるという傾向性をもっています。
10  本来は、なんらかの、一つのつながりを利用することによって吸収していこうとしたものが、反対に、そのすべてに一致しない人をはじき出すことにもなりかねません。これと似た心理の動きを、中世ヨーロッパの異端審問に見ることができますし、そうした瑣末に囚われて人間が争う愚かさを、イギリスの文豪スウィフト(注2)は『ガリバー旅行記(注3)』の中で、ゆで卵の割り方を巡って戦争をする小人国のエピソードで戯画化しました。
 このことから、宗教にとって何よりも大切なことは、その本来の宗教的信条の純粋性を大事にすることであり、かりにさまざまな領域にまで活動の広がりや考え方の応用がなされるにしても、これらについては多様性を認め、寛容を根本とすべきであると私は考えます。その本来の宗教的信条が、真に多くの人々の欲求に応えうる普遍性をもっているならば、必ず多くの人々の賛同・共鳴と参画を得ていくでしょう。
11  (注1)「制度化」
 社会の慣行が反復化・秩序化し規範的に定まっていく過程。本来例外的なものであった行動や関係が慣例化し、日常生活の秩序の一部となる時「制度化する」という。
 (注2)スウィフト(ジョナサン)(一六六七年―一七四五年)アイルランド生まれ。文人・諷刺作家。
 (注3)
 『ガリバー旅行記』Gulliver’sTravels’1726.

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