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平等の意義  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  平等の意義
 池田 高等宗教といわれるものの多くは、万人の平等を説いています。当然のことながら、一部の種族の優位を説く宗教は、その教義のままでは普遍的宗教たりえずに終わっています。
 ところで、宗教が万人の平等を説くことは素晴らしいことですが、それには危険な側面もあるといわなければなりません。というのは、たとえば、すべての人がそのままで平等であると認めてしまうことは、現実にあるさまざまな違いや悪までも、是認もしくは黙認してしまうことになります。そして、現実に行動を起こして改良すべき階級差別や人種差別の諸問題について、積極的改善へのエネルギーを奪ってしまい、かえって支配者による操作の道具に使われるということさえ、起こりうるからです。
 インドにおいて仏教を創始した釈尊は、カースト制度を超えた、真の人間の平等を教えました。そこに、釈尊の人類平等の叫びが重みをもった所以があると思われます。
 宗教が唱える平等論が理念のみに終わったのでは、理念としての意義は失われてしまいます。教授は、こうした宗教の平等論と、現実の階級差別等の問題との関わり方について、どのようなご感想をおもちですか。
2  ウィルソン おっしゃる通り、人間は平等の権利と便宜、境遇等を享受すべきであるという理念は、高等宗教において定着しているところです。
 しかし、キリスト教会は、この世では平等は得られないという認識を常にもってきました。平等が可能であったのは(人類が罪を犯して楽園を追われた、いわゆる“堕落”以前の)太古の至福状態においてのみで、さもなければ、きたるべき未来の恩寵において、キリスト教徒が信じているこの世の終末後一千年間続く至福社会(注1)に、神が信仰心篤き者を復活させ、安住させる時に再び可能になると想像してきたのです。
 教会の教父たちは、人間は神の絶対的な自然法(注2)によれば平等であるが、堕落罪から復活までの期間に生起する諸状況の中では、この世界を支配するのはせいぜい相対的な自然法(注3)だけであり、そのもとでは不平等が社会を特徴づけると考えていました。つまり、人間は完全性を放棄し、楽園を明け渡したのだから、堕落した制度の中でいかにやっていくべきかを学ばねばならないとされたのです。
 この中間期の神の定めにおける教会の役割は、金持ちや権力者に対しては貧しい人々に憐れみ深くあるよう、また貧乏人に対しては忍耐強くあるよう、そして、キリストの再臨の後に神が信心篤き者を正当な身分に回復するまで、自己の運命に耐えるよう促し、苛酷な現実を和らげさせることにありました。
3  こうした見通しには、神学上の難点もあります。しかし、教会は、たとえこの世界では平等を樹立することはできないと感じていたにせよ、平等への理想を捨て去ることをしなかったことが知られます。教会の指導者たちはこうして、不平等に対して正当化と非難を同時に行うことができ、不平等は避けられないにせよ緩和されなければならない、と実際に述べてきました。ほんの二十年前には、カンタベリー大主教は、人種差別について「すべての人間は神の愛の中では平等だが、神の目から見れば平等ではない」と宣言できたものですが、今日では、教会は総じて人種差別を非難しています。
 奴隷売買については、ローマ教皇がこれに反対する公告を定期的に出したにもかかわらず、そして中世ヨーロッパでは消滅したにもかかわらず、アフリカと新世界アメリカを結んで展開され、盛んになりました。アメリカでは、南北戦争にいたるまで南部諸州で奴隷の所有が続きましたが、その間、この地方のキリスト教指導者たちはこれを熱烈に擁護したのです。
4  ローマ・カトリック教会は、中世時代の封建的階級制度には進んで順応しました。おしなべて各派の教会は、階級制に反対する旨の教えは説きませんでしたが、なかでもエピスコパル(監督派)の教会(注4)ではそうした階級制度を教会機構の基本とし、社会秩序を、あたかも神が制度化した自然の秩序の延長であるかのようにみなしました。教会は、概して支配的な権力者層を支持し、彼らの権力や富や地位に正当性を与えていました。当然、キリスト教内にはこれへの反対勢力もあり、そうした反対運動では、社会的平等へ向けてのより急進的な立場を主張させることが普通でした。
 近年にいたって、キリスト教徒の中には、平等の意識、なかんずく人種的平等の意識を強めてきた人々がいます。これは、アメリカ合衆国とか南アフリカとか、その他の人種混合社会だけでなく、イギリスにも見受けられます。イギリスは、その寛大な市民権の法律によって、一時は、旧帝国の植民地の人々に対して、イギリス本国での居住権を与えていました。
 問題は、すでに保証されている、法の前での公式的な平等といった基本的な事柄ではなく、むしろ、広く行き渡っている人種的差別感・憎悪感なのです。これに対しては、強圧的な立法措置よりも、宗教運動のほうが、(しばしばたがいに抱き合う)人種的敵対感を解消するうえで、大きな貢献ができるのではないでしょうか。もっとも、宗教も、教派内にさまざまな人種の信徒が混在している場合、異なる人種的グループが別々に礼拝を行うという傾向も、見られますが――。
5  池田 私どもの仏教運動は、アメリカ合衆国においても活発に行われていますが、そこでは、あらゆる人種の人々がたがいになんの差別意識もなく、一緒に礼拝や会合を行っています。もちろん、新しく入ってきた人は、こうした差別感のない会合などに驚くそうです。
 しかし、会員たちは、人間の平等の尊厳性と相互の尊重を説いているのが仏法であることを知っていますし、その仏法の精神を実践することを目指していますから、最初は信仰以前からの考え方が抜け切らず、差別感に囚われていても、なんの隔てもなく仲よく語り合い、活動している先輩会員たちの姿を見て、差別感を解消していくのです。そして、こうした差別感のない信頼の世界がどんなに素晴らしいかを実感するようになるのです。
 私は、この過程を助けているものに、一つには、私たちの運動のあり方があると思っています。普通、宗教活動というと、たとえば神と個々の人のつながりが中心になって、礼拝のために一堂に会してもたがいの語らいがなかったり、せいぜい語り合うとしても、気心の知れた同士での個人的語らいで終わってしまいます。
6  それに対し、私たちの運動では“座談会”といって、参加した人全員が自分の信仰体験を話したり、自分の考えや感想を話します。そして皆がそれを聞くのです。そのような話の中に、一人一人の生い立ちや家庭生活のことも出てきます。それによって、これまで別の世界の人間のようにたがいに理解も共感もなかった人々の間に人間的理解と信頼が生じ、時には、一人の人生経験の中に皆が喜びや悲しみを共感するようになるわけです。皮膚の色は違っていても、兄弟姉妹のような親近感で結ばれるようになるのです。
 敵対的な差別感情が生じる根源は、多くの場合、たがいの無理解にあります。たがいのことを知らないために、猜疑心が生じ、それが憎悪へと発展していく場合が多いようです。もちろん、よく知り合っても、好き嫌いの感情は残ります。知り合えば常に好きになるとはかぎりません。しかし、必要以上の猜疑心や憎悪はなくなります。
 ほとんどの場合、人間は他人を好きになること、他人から好かれることを求めているのです。そして、信頼し合えることを、何よりも欲しています。信頼感がもてなければ、不安と絶え間ない警戒心に囚われますし、実際問題、身の安全の保障のためにかなりのお金を費やさなければならないでしょう。
7  ウィルソン 人種問題という特定の問題は別として、もっと一般的にいっても、平等の理想を行動の規範に移し換えることは、簡単にはできないということがいえるでしょう。絶対的な平等というものは、ありえません。人間はさまざまに異なる才能をもって生まれてきますし、これらの才能がやがては差別的な褒賞をもたらし、貧富や身分の差を生じさせます。
 社会主義国家においてすら、才能のある人々――たとえば芸術家、音楽家、知的職業人など――は、かなりの特権を享受しています。西洋の民主主義国で、教育の原則として広く宣布されている機会の均等というものも、結局は個人の才能を発揮させる機会のことであり、やはり不平等を生み出す契機となっているのです。たとえ機会の均等を確立することが可能な場合でも、個々人の間にある文化的・遺伝学的資質の差異のために、たちまち新たな型の不平等が生じましょう。出生の順序とか親との死別、さらには病気とか出生以前からの影響といった、自分ではどうにもならない要素が個人の能力を左右しているわけで、機会均等の制度も、たんにそれらの要素が新たな不平等を生み出すのを許すだけとなります。
8  信教の自由や言論の自由など人権に関わる、いわゆる法の前の平等の原理は、たしかに合理的な基調として広まっており、これをもとにさまざまに異なる文化の多様性がそれぞれに表現の機会を見出しているわけですが、しかし、そうした表現それ自体が、すでに厳密な意味での平等では決してありえないのです。
 たしかに、個人を一つの単位として合理的に取り扱うことができる場合は、時には困難がともなうにしても、平等の原理が適用されうるでしょう。しかし、個人の実際の資質が問われる場合には、差別が付きまといます。宗教は、ある面では人間を平等の存在として扱いますが、同時に、人間の資質、その目的観の強さ、精神の寛大さ、心の素直さなどには、宗教はたぶん他のどんな社会制度よりも感度が高いため、これらの諸点では、人間を等質の単位として扱うことはできないでしょう。事実、西洋においては個人の独自性が強く主張され、そうした差異が、精神的に最も重要なものとされてきたのです。
9  池田 “個人を合理的に一つの単位として取り扱いうる場合は、平等の原理を適用することができるが、個人の実際の資質が問われる場合には差別が付きまとう”と言われたことは、私もまったくその通りであると思います。仏教が平等の実現を目指しているというのも、あくまで社会ないし権力が、個人を一つの単位として扱う場面でのことです。各個人が異なった資質・能力をもっており、そこに差別が生ずるのは当然であって、もしもこれを平等化・均等化しようとすれば、それは、各人が一個の人間としてもっている尊厳性、特に自由を抑圧し、奪い去ることになるでしょう。仏法は、何よりも人間としての尊厳性を大事にし、それを最大限に発揮させることを目指しているのです。
10  仏典の中に述べられている有名な話に、次のようなものがあります。「七人の子をもっている両親がいるとする。彼らにとって七人の子は平等に可愛いが、もし一人の子が病気をしているときには、この病気の子のために両親は特に慈愛を注ぐであろう」と。
 また、別の経典には仏法を雨に譬えて、「雨は同じように地上に降り注ぐが、その雨を得て、さまざまな植物はそれぞれに異なる葉を繁らせ、花を咲かせ、実を結ぶ。それと同じように、仏の説く法は一法であるが、人々はそれぞれの特質を発揮し、それぞれに異なる幸福の姿を現していくのである」とも説かれています。
 もちろん、仏法や仏の慈悲について説かれたことを、現実の社会や権力者にそのまま当てはめることは不可能でしょうが、少なくとも、そこには普遍的な真理が示されています。私は、社会体制や権力機構は、まず悩み苦しむ人々に、特に恩恵を及ぼすよう配慮されるべきであると考えます。そして、この人々がその苦悩を解決し、あるいは苦悩から解放されて、他の人々と同じように、逞しく人生に立ち向かっていけるようにしてあげることが肝要であると思います。
11  それとともに、あらゆる人が存分にその才能・資質を発揮できるよう、機会が平等に与えられるべきです。各人がどのような才能や資質をもっているかは各人の問題であって、社会体制や権力の関与できることでもありませんし、また関与すべきことでもありませんが、それを発揮できる条件を用意することは、社会体制や権力の姿勢・努力によって可能です。そこに、各人が異なった資質を発揮し、それぞれに違った仕事をしながら、同じように幸福と充実感を味わっていけるようになるはずです。完全な平等はありえないとしても、近づいていくことはできます。
 仏教は、各人が、仏教の信仰実践によって、自らの幸福と充実を実現していくことができるとともに、この仏教の精神を社会全体に反映していくことによって、人間の尊厳性を具現した社会を建設すべきことを教えているのです。
12  (注1)(一千年間の)至福社会至福千年説。
 キリスト教で(将来いつの日かあるとされる)キリストの再臨の日に、それまでに死んだ心正しい義人たちが復活して、地上に平和と繁栄の王国(「千年王国」)が築かれ、キリストが一千年間この王国に君臨する(その後に一般人の復活があって、最後に審判がある)という信仰。この説の根拠は「ヨハネ黙示録」(20・1―6)にある。古代教会において多くの教父が採用した説だが、四、五世紀ごろから影を潜め、キリスト教会の正統的教説とはなっていない。
 (注2)
 神の絶対的な自然法自然界の一切の事物を支配すると見られる理法。
 (注3)相対的な自然法
 人間の自然(本性)に基づく法。自然法則とは異なり、主として規範的な意味をもつ。この思想は古代ストア哲学・中世カトリック哲学・近世合理主義哲学において顕著な展開を見せた。
 (注4)エピスコパル(監督派)教会
 監督(主教・司教)をもつ教会の総称。英国国教会など。

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