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宗教と道徳  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教と道徳
 池田 これまでの論議をまとめた問題になりますが、宗教は、直接に倫理規範をその教義の中に含んで定めている場合もあれば、教義内容自体には含んでいないけれども、その教義から間接的に種々の倫理が派生してくるという場合もあります。いずれにしても、この、宗教が現実社会の中で現す影響というのは、そうした道徳規範の形を取るといえますし、それが、その宗教の強さの基盤になります。
 しかし逆に、こうした現実社会とのつながりが、その宗教への信仰心を維持するうえでマイナスになる場合もあります。たとえば、ある道徳規範が現実の社会生活に合致しないものになってしまった時、その倫理規範からの離脱や反発が、そのまま宗教自体への反感につながっていく場合がそれです。
 その点、仏教は、その教義が直接に関わるのは個人の内面世界であり、具体的な規範については、その社会状況との関わりの中で、状況に応じて異なってくるわけです。
 事実、同じ仏教徒といっても、インドや東南アジアの人々の道徳観と中国、日本などの人々の道徳観とは、かなり違いがあるようです。このことは、逆にいうと、日本の仏教で伝統的に立てられている倫理を、たとえば欧米諸国の人々に、そのまま適用してはならないことを意味します。
 その意味で、私は、仏教の根本的教義を正しく伝えることを心掛けるべきであり、具体的な規範は、仏教を受容した人々によって、その社会の中で自然に編み出されることを期待するのが正しいと考えています。こうした、宗教と倫理の関係について、教授のお考えをうかがいたいと思います。
2  ウィルソン これはキリスト教徒に時折あることですが、彼らが、キリスト教の道徳面よりも、信仰や礼拝の細目、あるいは教会への献身などのほうを根本的な問題と見て大事にしようとして苦心しているのを見ると、私はしばしば当惑してしまいます。
 宗教が宗教であって、呪術から区別されるためには、宗教は、普遍的に適用されうる諸規定とか、個人の振る舞いや社会の秩序に関する諸規則とかを含んでいなければなりません。言い換えれば、宗教は、倫理的綱領を備えていなければならないのです。
 あなたは、宗教が社会にもたらす影響は倫理の形を取らざるをえないと言われましたが、私もまったく同感です。宗教が“信ずべき対象”に関わるものであるなら、それはまた“生きるための規律”にも関与しなければなりません。宗教は、その構成員の信仰が日常生活の中に表現を見出すときにこそ、社会的現実となります。最高の宗教的目標にいたる道は、ある一定の人生を送る中にあります。たしかに宗教は、未来に成就されるべき状態としての“救済”の理念を説くかもしれませんが、しかし、実際に宗教が常に与えているものは、より包括的な意味では、現在ただいまがどう救われるかなのです。
3  社会学者の見方からすれば、救済とは、現在の幸福感以外の何ものでもなく、それはたとえその幸福が、(キリスト教でそうしているように)個人の“未来の境遇”に対する“現在の保証”という形を取っていても同じことです。未来への予測が立つ状態が日常生活に満ちわたることによって、現在の保証が強められるのです。
 もし宗教が、人々に対してたがいに慎み深く振る舞い、攻撃性を最小限に抑え、豊かな感受性や、たがいに分かち合う共感や、人間同士の思いやりを培うよう説くとすれば、それは少なくとも、現世的経験の中で体現されうる唯一の形で、救済をもたらすことになります。
 あなたは、宗教が特定の社会生活に関わりをもつことは、その宗教の信仰心の維持にとってマイナスになりうること、特に、その宗教の倫理面の強調点が社会の現実生活に合致しないものとなった場合に、そうなることを示唆されました。ところが、私はかつてもっと多くの、これと正反対の結果に出合って驚いたことを告白しなければなりません。
 それは、道徳面の禁止令や規定が宗教による是認によって強く保証されてきた場合、宗教への信仰心そのものが衰退するにつれて、道徳そのものもしばしば堕落するという状況です。こうした状況に見られる危険性は、道徳的禁止令が特定の宗教に結びついているため、その宗教への信仰心そのものが薄らぎ、社会が世俗化した時に、その道徳的禁止令も力を失うということです。
 こう述べたからといって、私は決して、世俗的社会が必ず低道徳性の社会だというのではありません(まして、世俗的な人々が宗教への帰依者よりも必然的に非道徳的だというつもりもありません)。しかし、西洋では、道徳的コンセンサスの喪失はたしかにキリスト教の衰退とともに起こっており、また世俗化の過程も、世俗的倫理が効果的に説かれ、維持されるというような形では起こりませんでした。
4  道徳的禁止令があまりに厳重になると、それを課す宗教への信仰心が薄れることがあるということは、私にはよく分かります。もっとも、私の見るところ、人々は信仰を持っている場合でも、自分の道徳的義務を回避することがしばしばあり、(それが阿弥陀仏信仰であれ、聖母マリアやキリストへの信仰であれ)自分たちの信仰の中で慣例化された慈悲の差し伸べとか身代わりの苦難とかに頼って、自己の怠慢の結果がもたらすものを軽減させようとしている事例が、いくつかあるのです。
 たとえば、ローマ・カトリック教会では、人工的産児制限は、一切、道徳的に禁止するという形を保ってきていますが、周知のように、先進国社会では、女性カトリック信徒のかなりの数、いやたぶんその大多数が、教会が不道徳的として禁じている方法で、実際に避妊を行っています。
 またこれも周知のことですが、チリなどの国では、多くの人々が離婚や再婚は不道徳であることを認めているにもかかわらず、場合によっては聖職者の黙認もあって、人々は、この宗教的法令の目をくぐっています。この人々は、教会からの祝福を受けて自由に再婚できるように、教会から婚姻の失効宣言書を取り付けているのです。また、最近知られた例として、イタリアでは、ローマ・カトリック教会が妊娠中絶の罪は深いと説いている中で、多くの敬虔なカトリック信徒をもちろん含む、イタリア有権者の大多数が、実際に国民投票で、妊娠中絶を認める法令を支持しています。
5  このように、道徳上の義務が放棄され、道徳的な事柄についての宗教的勧告が拒否される理由として、多くの人々が、もはやそうした道徳的禁止令は自分たちの要求に合致しないと思っていることが、多分に考えられます。宗教はもはや、その道徳的立場に対する人々の支持を失ったのかもしれません。
 しかし、私が先に概略を述べた次の三つの別な進展については、無視することができません。すなわち、第一には、たとえ(その道徳を黙って無視するにせよ、騒然と異議を唱えるにせよ)宗教上是認された道徳を守ろうとしなくなった場合でも、なおかつ宗教だけは持ち続ける人々もいるということ。第二には、諸宗教は、近代世界との関わり合いによって、しばしばかつての道徳的立場に修正を加えてきたということ。そして、第三には、宗教の衰退それ自体が、道徳的コンセンサスの喪失を招いたのかもしれないということです。
 どの宗教の場合も、その効力ある道徳の真意は“責任の倫理”と呼ばれるものから発しています。個人にあっては、特定の規則に従うからこそ道徳的に振る舞えるのでしょうが、しかし、規則そのものは状況によって条件づけられ、異なる文化的背景の中ではもはや適用できなくなるものです。
 これはすでに私たちが、ユダヤ教やイスラム教の道徳体系の起源に関連して、これまで論じてきた通りです。イスラム教やユダヤ教が、その発祥の地から遠く離れた諸文化に移植されるにつれ、熱心なイスラム教徒にとっても、篤信家のユダヤ教徒にとっても、ジレンマは深刻化しました。キリスト教徒にも、ある程度まで同じ問題が生じましたが、キリスト教は前二者よりもはるかに普遍的で適応力のある倫理の発生源を含んでおり、そこでは、個人は、一般的な規則を特定の事例や場面にどう応用するかを判断してよいとされています。
6  この点では、道徳的な事柄におけるキリスト教の働きは、あなたが述べられた仏教の場合と異質のものではありません。キリスト教の説得力ある訓令は、律法について「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(注1)と述べていますが、これは律法をせせこましく、機械的に履行することよりも、その律法の精神を内面化することのほうが重要だということです。しかし、これは、だからといってキリスト教の教えにある、個人の振る舞いに関する無数の規定を無視してよいというのでもなければ、教会が時折、諸政府を強く動かして――アイルランドのカトリック教域で避妊具の使用を禁止したように――キリスト教道徳を施行させたやり方を否定するものでもありません。
 もちろん、キリスト教そのものも、新たな状況に対応せざるをえない場合は周期的に内的変化の過程を経てきており、そうした変化の過程は、時に個人の意識の変化を必要としました。この変化は、あなたから見れば、ある面では精神革命に類似しているとさえ思われるかもしれません。
7  ピューリタン(清教主義者)、パイアティスト(敬虔主義者)、エヴァンジェリカルズ(福音主義運動家(注2))などに見られた道徳意識の高まりは、社会的抑圧の機関に頼る代わりに、まさにそうした、個人自身が責任感を深めるよう導くことに主眼を置いた、倫理の再強化の好例を提示しています。もちろん、キリスト教信仰にあっては、道徳的判断がもっぱら個人だけに任されるということは、絶えてありませんでした。たとえきわめて概括的な言葉で仄めかされた命題に関するものであっても、そこには常に客観的な規準がありました。改革運動や復興運動は、そうした規準に関して個人がより良心的になることを目指して行われたのです。
 これに比べて、仏教には事実上、より大きな個人的な分別の余地が残されているのでしょう。だからこそ仏教は、さまざまな異質の文化的状況に、より容易に順応してきたわけです。
 キリスト教は、時には狭小・偏屈なやり方で、常に細目にわたる道徳的要求を異質文化に課そうとし、あらゆる社会をキリスト教化すること――つまり、それによって道徳化すること――を、その役割と考えてきました。それにはキリスト教倫理の思想的土台とその組織構造も評価しなければなりませんが、ともかくキリスト教は、他のいかなる宗教よりも強力な、方向性ある文化的変革への媒体となってきたのです。
8  (注1)『新約聖書』「コリント人への第二の手紙」(三・6)。
 (注2)エヴァンジェリカルズ(福音主義運動家)
 各種のプロテスタント教派・会衆にわたって存在し、体験的信仰を最重要視して布教に熱意を傾けるキリスト教徒。自己の罪深さへの認識とキリストの福音による贖罪が必要であることを強調する。十九世紀のイギリスとアメリカで隆盛し、プロテスタント諸国では現在も大きい勢力をもっている。

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