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男女間の倫理  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  男女間の倫理
 池田 二十世紀後半にいたって、欧米先進諸国では、男女間の倫理についての、これまでの考え方が通じなくなりつつあるように思われます。日本においても離婚率が高くなっており、また、出版物や映画・テレビなどに露骨な性描写があふれています。
 このような現象の表面だけを見ますと、日本と欧米諸国とは同じように見えますが、私は、その背景にあるものに大きな違いがあると思います。すなわち、欧米諸国の場合は、キリスト教の倫理的教義が、これまで民衆の自由を厳しく律し、ある意味では束縛してきました。今日の性表現の自由化は、そうしたキリスト教倫理の支配に対する反抗から出ており、その底流には、人間的自由への戦いといった、目的意識があるのではないかということです。
2  これに対して、日本の場合、性風俗に関する謹厳主義を民衆に強いてきたのは、宗教ではなく、国家権力でした。日本が鎖国を解いて、近代国家として仲間入りする以前は、性風俗に関しては、民衆はきわめて自由であったようです。ところが、近代国家としての体面を繕うため、明治時代以後、政府は、この点についても、民衆に強い束縛を課すようになったのです。
 皮肉なことに、今日、民主化・自由化を叫んで、性表現の自由化を主張している人々の論拠の一つもまた、欧米諸国では自由なのに、日本が規制的なのは近代国家として恥ずかしい、ということです。かつて権力が欧米を模倣して制限したように、今度は民衆が欧米を模倣して、自由化を要求しているのです。
 もちろん、一部の人々は、権力の不合理な束縛に対する反抗を目指していることも確かです。しかし、多くの場合、それは自分を飾るためでしかありません。
3  ところで、私の考えでは、男女間の倫理といったものは、あくまで個人の精神世界に属するものであって、外側から、権力などによって干渉すべき事柄ではないと思います。それはキリスト教会についても同様であって、精神面で教えることはしても、制裁をともなうやり方で強制すべき筋合いはないと思うのです。
 私は、なぜ教会がこの問題をそれほど重視し、そのために、かえって人々をキリスト教から離れさせるほどまでに関わったのか、疑問に思っております。キリスト教にとって、性倫理の重要性は、いかなるものなのでしょうか。また、性倫理の自由化は、キリスト教にとって危険な事柄なのでしょうか。
4  ウィルソン キリスト教の全倫理体系の中で、性倫理は、常に最も重要な論点でした。教会が性に関して説くようになったとき、それはすでにキリスト教倫理体系の要であったといっても、過言ではないでしょう。教会は「正直であれ」、「真実を語れ」、「家族や隣人に誠実たれ」といった勧告とともに、集団内での近親相姦や殺人に対する全般的な禁止令をたびたび公布しましたが、性欲の自制は、聖パウロの時代よりこのかた、最も重要な関心事だったのです。
 さきにも触れましたように、私の信じるところ、性に関する態度は、キリスト教圏内のより広範な種類の倫理的行為への規範となり、特にピューリタニズムの影響を通じてさらに広範囲の、諸々の道徳的規範が内面化されるうえでの基礎を与え、その時代においては、こうした内密で私的な問題が、個人の良心を量る試金石とされました。個人は、自分の想念に十分な注意を払い、たとえ想像上でも姦淫を犯さぬよう命じられたのです。
5  こうして、性の自制は、その後の西洋人の人格形成に重要な役割を果たした、個人的良心の原型をなすにいたりました。西洋ではたとえば、日本でおそらく伝統的に見られた集団的な規制や準拠に依存するということは比較的少なく、個人は各自の性欲を統御するという姿勢を基盤にした、内面化された道徳的拘束に従って行動したのです。
 このような強度の社会化の過程は、苛酷な抑圧へと走るのを避けて、適当な禁欲や自制を保つという、微妙なバランスのうえに立って初めて行われたものです。そして社会的レベルでは、これとはまた別の、公的な道徳観と私的な道徳観との間のバランスを保たなければならなかったのです。
6  アングロ・サクソン社会は、特にビクトリア朝時代には、かなりの程度、偽善に依存していました。社会的美徳のオンパレードが行われましたが、その陰では密かに、自らが公的に是認し掲げた厳しい道徳律に背いていた人々も、当然いたわけです。そうした偽善を非難するのはたやすいことでしょう。しかし、社会の取り決めの中では、偽善が、人生の大切な潤滑油となることもあるのです。要求が非常に苛酷になると、偽善が重要になってきます。これは、人々が服従のために私的な面で過度に落胆しないようにしながら、公的には服従を奨励するための、一つの方策なのです。
7  池田 よく分かります。ヨーロッパのように、道徳律が内面化されている場合には、偽善が一種の潤滑油になるのでしょうが、日本のように、集団的統制が主力となっている社会では、社会的規律そのものに立て分けが行われます。これを、日本人は「ホンネ」と「タテマエ」といっています。「タテマエ」とは、公式上の原理・原則です。「ホンネ」とは、実際の運用です。
 たしかに人間が不完全な存在である以上、完璧な道徳的行為をすべての人に要求することは無理です。しかし、自分自身のエゴから、他者を苦しめたり傷つけたりすることのないよう、自らを律することは、各人の努力目標として不可欠であると思います。
8  ウィルソン どんな社会でも、道徳的規範は、一部の人々の順守範囲を超えた水準で定められています。さもなければ、そうした規範が公的に命じられ、執拗に繰り返し唱えられる必要はないわけです。規範が順守範囲を超えていることによって、その規範は、順守の水準を徐々に高める働きをすることがあります。人間は、ある程度まで偽りの中で生きていますが、少なくとも時折は、その偽りに恥じない行動をしなければなりません。そして、これが、社会生活全般の道徳性を高める手だてとなるのです。
 人間はおたがいに、あたかも各人が常に実際に社会の道徳的規範を支えているかのように振る舞うべきであるというのは、私には一つの大きな虚偽のように思われます(十九世紀のイギリスの特徴であった虚偽と偽善は、おそらく、私生活からはっきりと区別される社会生活が徐々に発達するために必要とされたのでしょう。社会生活は常時保たれうる水準を超えて道徳的に高められ、そのため、この時代は見せかけの、そして時にはこれ見よがしの社会的美徳が宣揚され、それが私生活での微罪と結びついたのです。二十世紀に入って、人々の非個人的役割や技術的手順が制度化されるにしたがい、公的な分野での道徳的退廃が着実に進んでいます)。
9  虚偽がどのような働きをするかは、その偽りが破れたときに、明らかになるでしょう。こうして、正規の道徳観を保つことが困難になるような、押し付けの親密さのうえに成り立っている集団にあっては、人よりも高度の道徳的基調を保とうとする者は、嘲笑されたり排斥されたりしかねません。このような事態は、軍隊で時たま起こります。軍隊では堅苦しい訓練がなされ、自己規制よりも集団規制に依存しているため、そこでは誰もが、すでに全員がある意味で“反権威”の気分を持っており、したがって標準的な良識に反発しているのではないかと想像しやすいわけです。
 こうした状況の中では、正規の道徳律からの密かな逸脱が、やがては集団内の公然の事実として許されるようになり、こうして、最小限の共通感情ともいうべきものがそこでの道徳的風潮を支配することになります。その場合、偽善は除かれますが、同時に規準も失われてしまいます。皆が高水準の道徳を順守するという、きちんとした想定がなくなれば、人生はごみ捨て場にもなりかねません。
 遠回しな言い方になりましたが、私のいわんとしているのは、キリスト教倫理の伝統的規範の中で、他の道徳的規範が内面化されるための模範という、性に託された重要な立場を考えるとき、伝統的な性規範は、これに関わる男女間だけの問題と考えることはできない、ということです。キリスト教は、性倫理をキリスト教社会それ自体の行動上の機軸とし、異常な性関係から生じうる害悪の可能性を、社会構造全体に影響を及ぼしかねないものとして捉えたのです。それに対し、他の社会では、性の問題は社会的関心の領域外に取り残され、別の社会的な仕組みが働いて、適切な水準での社会統制が維持されてきたといえましょう。
10  ローマ教会を除くキリスト教の他の教会では、性を大きく柔軟に捉えてきました。なかには、性関係は夫婦間にのみ許されると説きながら、未婚の男女間にも持続性のある結合を認め、さらには、同性愛関係でさえも健全たりうると認めている教会もあります。
 今日、キリスト教の教義については教会内ですら論議が盛んですが、大衆のキリスト教倫理観は、いまなお教会が西洋社会と最も強く融合している接点となっています。熱心な一般信徒だけでなく、いわゆる“道徳的多数派”を形成している多くの脱落したキリスト教徒でさえ、キリスト教倫理、とりわけ性倫理に対しては、おそらくはっきりと支持しています。たまたま寛大な聖職者が規準を緩和すべきだなどと唱えると、信仰心なぞないくせに、伝統的なキリスト教倫理には大いに固執している大衆から、往々にして憤慨を買うことになるわけです。
11  池田 キリスト教の場合、男女間の倫理に関する戒めを非常に重要な規範とした理由を明らかにしていただきましたが、仏教の場合、前にも述べましたが、小乗仏教はそれと相通ずるものがあります。つまり、小乗仏教は具体的な戒律を細かく定め、それを守るべきことを教えたのです。さきほども述べたように、その中の不邪淫戒という男女間の倫理を教えた戒律から、特に出家した僧や尼は、異性との交わりを厳しく禁じられました。
 しかし、大乗仏教においては、仏教の示す法の探求と、そのための修行が重視され、男女間の倫理といった問題は枝葉末節とされます。歴史的に見ますと、大乗仏教においても僧尼の異性交渉は禁忌とされてきましたが、それは、大乗仏教の僧尼も、出家入道に当たっては小乗教の戒律を受けなければならなかったからです。後に戒律も大乗教の戒律になり、さらに日本の江戸時代には、寺院と信徒との関係が世襲的に固定化され、さらに明治時代以後は妻帯が一般化し、住職も世襲化していきました。
12  それはともあれ、大乗仏教の本領は仏教の教える真理を悟ることにあり、男女間の倫理といった問題は、それほど重大ではないと考えられたのです。その結果、男女間の倫理といった人間同士の問題については、儒教倫理を根本として処理されるようになったわけです。
 日本では、中国から儒教と仏教を取り入れ、また古来の民俗神信仰も温存されましたので、これらの間で自然に分業化が行われてきました。ごく大ざっぱにいうと、儒教が担当したのは、君臣・親子・兄弟・夫婦・友人といった人間同士の間の倫理であり、農作業、その他生産に関わる分野での、豊作や無事を祈る祭りは民俗神信仰が分担し、仏教は死後の幸せを祈ったり、死者の冥福を祈ることに主眼を置くようになってきたのです。
13  もちろん、仏教をこのような死後のためだけのものとするのは、偏見の所産です。仏教は、生死を超えた生命の本質を探求したものであり、生命の本質からの人格的向上の道を示したものです。倫理的次元での人間としての生き方や行動は、この本質の変革から必然的にもたらされるものであって、仏教の本領をそうした枝葉末節に置かないというだけであり、決して放縦を許すわけではないのです。
 男女間の倫理といった道徳の問題は、風俗・習慣総体と絡んでおり、民族性や文化的伝統によってさまざまに異なります。別の民族から見れば非道徳的と思われることでも、その民族にとっては道徳的であることもあります。それについて一つの型にはまった倫理観を押し付け、しかも、それを宗教の本質に関わる信条とすることは、旧来の文化的伝統を破壊する結果になるか、そうでなければ押し付け的な倫理への反発がそのままその宗教への拒否となって、宗教が人々にもたらすはずの本来的な救済力を、この問題のために失ってしまうことになるでしょう。
 仏教は、仏教の本質的な信仰をより広く人々に伝えるために、こうした倫理は、仏教にとっては枝葉末節であるとの立場を貫いてきたといってよいと思います。

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