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欲望のコントロールと宗教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  欲望のコントロールと宗教
 池田 欲望は人間のさまざまな苦しみを生み出す原因となり、悪の根源になることが多いわけですが、しかし、時には人間の喜びや楽しみを生み出し、善の源泉となることもあります。その本質からいうと、欲望は人間生命を物質的・精神的に支え、さらに拡大・創造へと向かわしめる生命本然の力・エネルギーなのです。したがって、欲望は、それを消滅させ抑圧すべきものではなく、自他の価値創造のために生かすべきものであると私は考えます。
 さて、西欧においては、たとえばキリスト教では、本能的欲望は動物的なものとして罪悪視されてきたように思います。また近代西洋哲学においても、本能的欲望は理性に対立するものとして捉えられ、劣った地位に置かれるべきものとされてきたようです。
2  東洋の仏教でも、上座部仏教ではあらゆる欲望の消滅を目指しました。しかし、欲望とは、人間生命を支えるエネルギーそのものに他なりませんから、欲望をまったく消滅することは、生命それ自体の消滅にいたらざるをえないことになります。そこで、大衆部仏教、また、その流れから発展したと思われる大乗仏教では、欲望を消滅させるのではなく、他の人々の救済や、社会の変革を目指して慈悲の実践を貫いていくとき、あらゆる欲望のエネルギーは昇華され、コントロールされると説き示したのです。
 たしかに、本能的な欲望や権力欲・支配欲等をそのまま噴出させれば、自他の生命を破滅にまで追い込んでしまうでしょう。しかし、この本能的なエネルギーも、人間らしい、賢明にして力強い生命の「我」によって抑制し、昇華させれば、自他の生命のために創造的に生かすことが可能です。
 大衆部仏教、大乗仏教では、大宇宙の根源にある生命、すなわち“大我”へ、個人の生命の我すなわち“小我”を融合させることによって、人間の我に付きまとう自己中心性を打ち破りつつ、欲望を創造へと生かすことを目指すわけです。このような、大乗仏教における欲望のコントロールの仕方について、教授はどのようにお考えでしょうか。
3  ウィルソン 上座部仏教の教義は、西洋人にとっては、難解な逆説という感があります。つまり、欲望を除去することは、明らかに生命を――少なくともわれわれが知っている形の生命を――消滅させることであり、それこそが涅槃への到達になるというのですから――。
 すべての欲望を滅するなどということは、現代の西洋のほとんどの人にとっては、想像もできない目標です。キリスト教は、一方では、伝統的にその最も重要な関心事の一つとして、肉体的情欲や自己充足への願望を抑制しようとしてきましたが、また他方では、欲望を消滅させるのではなく、そのエネルギーを特定の目標達成へと導く、何らかの動機が人間には必要であることも認めています。
 真のキリスト教徒にとっての基本的目標は、啓発された長期的な自己の利益を設定することであるともいえましょう。キリスト教徒は、何よりもまず、自分自身の魂に心を配らなければなりません。そしてその次の目標が、社会の利益に資する行為ということになります。これがときとして、個人の救済という主要な目標の追求に付随して生じるものであることは明らかですが、社会の秩序のために、教会はこれをしばしば強調してきました。
4  ときには、この社会の安寧という二次的な目標が、支配的な流れとなったこともありました。そして、非主流的なキリスト教徒が、社会的利益はあくまで付随的なものであるという正統的見解を主張しようとしたときなどには、権力が介入して、この個人主義尊重の正統的見解に反対し、社会的利益となる異説のほうを支持したこともありました(ニュー・イングランドにおける正統派カルヴァン主義者アン・ハッチンソン(注1)に対する処置が、そのよい例です)。いずれにせよ、実際には、自己の救済という長期的かつ啓発的な私的利益と、キリスト教徒としての“善行”への献身は、主なキリスト教各会派から、キリスト教の二大目標とされています。
 他の諸宗教と同じく、キリスト教も、いまなお(あるいは今日にいたるまでずっと)その伝統の中に禁欲的要素をもっており、官能的快楽主義を厳しく抑制しています。しかし、キリスト教の禁欲主義者は、上座部仏教的な意味で無欲になるなどということはありえませんし、欲望の消滅を目指すことさえしません。むしろ、キリスト教の禁欲主義者は、神との結合、精神の安らぎの達成、あるいはより高い意識に到達することを目標として、そこへ自己の情念を振り向けたのでした。人間の願望を昇華し、涵養し、啓蒙する点では、大衆部仏教あるいは大乗仏教とキリスト教には、おそらく共通するものがあると思います。
5  池田 人間の欲望・情念を、神との結合や精神的安寧の獲得、より高い意識の開悟等へ振り向けようとした点でキリスト教との共通性もあるとのご指摘は、興味深いものがあります。
 大乗仏教として、比較的古くから、しかも仏教が栄えたアジアの広い地域で信仰されてきたものの一つに、阿弥陀仏信仰があります。阿弥陀仏とは、この私たちの住んでいる世界から西方へ十万億の国土をすぎた彼方にある、極楽浄土という世界の仏とされています。
 もちろん、釈迦牟尼の説いた経典に述べられている想像上の仏ですが、この阿弥陀仏は、自分の名前を称える人々を自分の浄土へ迎えることを誓っており、この世界の苦しみから逃れたいと願う多くの民衆にとって、この誓い、すなわち約束は、たいへん心強いものと考えられました。このため、広い地域にわたって、多くの人々の信仰を勝ち取ったのです。
 この信仰は、現在の人生での現実的な幸せ、つまり物質的・社会的欲望の充足よりも、死後に得られるであろう精神的安寧を求める気持ちを、人々に抱かせました。元来、この阿弥陀仏の信仰は、死後の神の国・天国を願い求めるキリスト教、特にカトリックと、共通した面をもっていると私は見ています。
 しかし、この阿弥陀仏の信仰は、この現実の人生での幸せを求める心ばかりでなく、人間としての向上を目指そうとする意欲をも奪い、いわゆる厭世思想を人々の心の中に植えつけたのです。その結果は、人々の欲望を純化するのでなく、一種の諦めと無気力に陥れることとなったのです。
6  ウィルソン 人間の願望を浄化する方法はさまざまでしょうが、いずれにしても、現にある社会状況と何らかの関わりをもたないかぎり、有効なものとはなりません。人々が、都市社会に住み、その役割が非個人化し、科学技術や官僚体制が人々の広範囲な社会的行為を支配するような社会状況の中で生活するようになると、生涯を小さな共同体の中で暮らしていたような、農耕中心の社会で人間を啓発し、支配していたものが、効力を失うのは明らかです。
 ユダヤ・キリスト教的道徳観は、最初は遊牧民族の間で、次いで定住的な農耕・牧畜民族の間で、そして最終的には外国統治下の植民地という背景の中で培われたものです。このため、現代生活の諸状況には、そうたやすく適応できないのかもしれません。
 諸々の規則が、特定的かつ具体的で、しかも個人的・家族的絆が支配的な状況に合わせて定められている場合、社会状況が急激に変化した際には、それを全面的に適用することはとうてい無理になります。キリスト教は、人々が親しく顔を合わせて暮らす共同体向けの、厳格な道徳律を規定したのであり、その規則の多くは、家族や、血縁集団や、村落の中での親密な関係性にまつわるものでした。
 この種の規則は、大衆社会には、そうたやすく当てはまるものではありません。たとえば、もし害悪を加えるものが巨大な官僚機構や政府の省庁であり、その行為に苦情が出ても、「私を責めないでくれ。私は、自分の仕事をしているだけなのだから」としか言えないような、歯車の歯的役割の人間である場合、「もう一方の頬を差し出し」たり「七度を七十倍するまで」許したりすることなど、どうしてできるでしょうか。
 近代的諸条件の中での欲望の統御は、それが復讐の欲望であれ、地位や物質的利益を求めてのものであれ、社会状況の変化につれて説得力や妥当性を失うような、きわめて特定的で具体的な道徳例を参考にしても、そう簡単に効果は上がらないでしょう。
7  池田 たいへん興味深いご指摘です。人間の日常生活に関わる規定を、ある社会から別の社会にそのまま当てはめることには無理があるとのご意見は、まさにその通りであると思います。
 仏教でも、上座部仏教においては細かい戒律規範を定めています。その最も骨格となるのは
 ①生き物を殺すなかれ
 ②他人の物を盗むなかれ
 ③自分の妻または夫以外と交わるなかれ
 ④ウソをついてはならない
 ⑤酒を飲んではならない、
 の五戒ですが、これは世俗の男性のための戒律で、女性のためには十戒(注2)、出家の男性のためには二百五十戒(注3)、出家の女性には五百戒(注4)という複雑な戒律が定められていました。
8  もちろん、この上座部仏教においても、それなりに、これらの戒律の生ずる根本となった一つの形而上学的体系があったわけですが、そうした体系とは無関係の戒も少なくないようです。それらは、あるものは、当時のインド社会の道徳がそのまま取り入れられたものであったり、あるものは、僧団の集団生活を営むうえでの必要性から定められたのもあったと考えられます。
 いずれにせよ、上座部仏教では、煩雑な戒律を定めてそれに従うことが求められたものの、なぜそれが大事なのかの説明もなければ、どうすればそうした戒律を実行できる一人一人になれるかという一歩深い次元からの、人間の変革もなされてはいないのです。
9  それに対して、大衆部仏教、さらにそこから発展していったとされる大乗仏教においては、細かい戒律を定めて外側から規制するのでなく、なぜそうした戒が必要なのかという道理を、基本的に形而上学的体系のうえから明らかにするとともに、自らを正しく知り、自らを正しくリードできる英知と生命の本源的な力を、いかにすれば湧出できるかを教えていきます。そこにおいても戒律と呼ばれるものはありますが、大乗仏教での戒律は具体的な生き方に関わる戒律ではなく、仏法信仰の実践のあり方に関わる戒律です。
 具体的な生き方の問題に関しては、風俗・習慣が気象条件や民族的伝統によって異なるため固定化することをせず、それぞれに適した生き方・行動を取ればよいとされています。大乗仏教では、その信仰実践を正しく貫けば、それぞれの社会での具体的な生き方や行動については、最も賢明な判断と対応ができる英知が、自ずから涵養されると考えているのです。
10  ウィルソン 宗教によって規定された道徳律が効力を発揮するためには、きわめて多様な状況の下でも適用できるように、抽象的な一般論で表現されていなければなりません。今日では、模範的なキリスト教徒も、かつてほど、聖典に盛られた細かい訓戒に注意を払わない傾向にありますが、これは(さきに挙げた例のように)現状に適合しなくなっているからか、もしくは(『新約聖書』の訓戒「一切誓ってはならない」のように)取るに足らないものと考えられているからです。
 むしろ彼らが求めているものは、伝統的な道徳観念から抽き出せる、できるだけ普遍的な規範です。それならば、現代の状況にも適用できるからです。しかし、キリスト教には、仏教のような一貫した形而上学的体系はなく、体系的な道徳規範が構築されているため、キリスト教神学者は、長期にわたって努力しなければなりませんでした。いまや、神学の専門家たちの道徳に関する発言には、西洋社会ではほとんど注意が払われなくなっているにもかかわらず、これら神学者の論議は、いまだに続いているのです。
 大衆部仏教もキリスト教も、ともに、規制されなければすぐに無秩序と混乱を呈しかねない、人間の情念の制御を目標に掲げています。これは、劣った本能的衝動についてだけでなく、社会的地位の獲得といった、比較的高尚でありながら自己中心的な目標についても、あてはまるようです。
11  社会学者エミール・デュルケーム(注5)がずいぶん以前に述べたように、社会的地位の変化への追求ですら社会的規範に混乱を招き、社会の秩序ある運営を妨げる恐れがあります。デュルケームは、そうした追求の努力を無限の欲望の一例とみなしたのです。本質的に文明的な価値観をもつ多くの人にとって、文明の未来を支えるものとは、(ほとんどの人が達成不可能と思うような)上座部仏教的な、すべての欲望を鎮めることを目指すことではなく、あなたが示唆されているような、欲望に方向性を与える試みです。
 “社会統制”という用語は、もともと社会学者が広めたものですが、今日では、その社会学者の間でもまったく流行らない言葉になっています。それにしても、統制とは抑圧ではなく、いかなる場合でも、まず人間の意識の形成がなされなくてはなりません。社会的拘束から解放された自由な人間というヘーゲル(注6)の概念も、すべての欲望を断ち切った人間という概念と同じく、有害です。
 人間が満足すべき人生を送るためには、永続的な、予測できる社会秩序を必要とします。私の信じるところでは、そのような状況は、人間の道徳化、受け入れた諸価値の内面化、そして伝統が教えるものを注意深く、ただし無批判的でなく、検討した結果として築かれてこそ、よりよいものが生まれるのであり、ぞんざいな機械的・電子工学的な装置で削り取ってできるものではないと思います。とはいえ、これはますます技術化されていくこの世界では起こりそうなことですが、社会統制が達成される過程として、人間の道徳化が放棄されたならば、われわれはまさにそうした操作の技術の犠牲にならないと、はたして誰がいえるでしょうか。
12  (注1)アン・ハッチンソン(夫人)(一五九一年―一六四三年)
 宗教指導者。イギリスに生まれたが夫とともに植民地時代のボストンへ移住。信仰中心のピューリタン共同体社会において信仰活動を行い、指導的立場に立つ。個人の信仰を重視したその主張は聖職者をも巻きこんだ宗教論争を呼び、社会的紛争となって、彼女は裁判に敗れて共同体を追放された。当時のボストンの共同体における政治指導者は、信仰上、彼女と対立的立場にあった。
 (注2)十戒
 五戒の他に、不塗飾香鬘戒(香を塗ったり髪飾りを付けたりしない)、不歌舞観聴戒(歌・舞などを見聞しない)、不坐高広大床戒(高く広い大床に座らない)、不非時食戒(正午をすぎて食事をしない)、不蓄金銀宝戒(金銀等の宝を蓄えない)。
 (注3)二百五十戒
 出家の行儀をさまざまに制禁した煩雑な具足戒など、すべて修行上の過失がないことを目的としたもので、四波羅夷(殺生・偸盗・邪淫・妄語)の他、十三僧残(波羅夷罪に次ぐ十三の重罪、僧衆にこの罪を懺悔して残りわずかの僧としての生命を全うするので僧残という)、二不定(破戒が他人に明らかでない二つの罪)、三十捨堕(三悪道に堕ちる因をつくる三十の罪)、九十単提(単に衆人に対して懺悔すべき九十の罪)、四提舎尼(破戒を悟った時に比丘に向かって懺悔すべき四つの軽罪)、百衆学(きわめて犯しやすい百の軽罪)、七滅諍(口論・論争を滅するための七つの法)をいう。四分律行事抄巻中一等に説かれている。
 (注4)五百戒
 戒数については諸説あるが四分律に説かれる三百四十八戒が一般的とされる(即ち五百とは厳密に五百あるのではなく、多数の意を表している)。八波羅夷(極重の罪、これを犯せば懺悔の法はなく、比丘尼としての生命を失い教団外に放逐される)、十七僧残(これを犯せばほとんど死に瀕する)、三十捨堕(これを犯せば三悪道に堕す)、百七十八単提(普通の罪で単に懺悔すれば滅罪できる)、八提舎尼(軽罪で、これを犯したことを知った時に懺悔すれば滅罪できる)、百衆学(きわめて犯しやすい軽罪、自らの心の中で懺悔すれば滅罪できる)、七滅諍(口論・論争を滅するための七つの法)。
 (注5)エミール・デュルケーム(一八五八年―一九一七年)
 フランスの社会学者。社会的な諸事実を把握、分析する固有の方法論の確立を目指し、社会学を初めて独立の科学へと発展させた。著書に『社会分業論』『社会学的方法の規準』『宗教生活の原初形態』など。
 (注6)ヘーゲル(G・フリードリヒ)(一七七〇年―一八三一年)
 哲学者。近世ドイツ観念哲学(理想主義)を完結させた。独自の弁証法にその特徴があり、論理学・自然哲学・精神哲学により近代思想に影響を与えた。ヘーゲル学派を形成し、著書に『精神現象学』『論理学』『哲学序説』『エンチクロペディー』等。

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