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現代科学文明と欲望  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  この精神的な次元の欲望とは、もう少し詳しく挙げれば、たとえば、知識や真理や美に向かう欲求であり、また、人間的愛・慈悲のエネルギーも含まれるでしょう。さらに私は、最も人間らしい独特の欲望として、人間自身の生命の基盤であり、母胎でもある大自然・大宇宙に融合しようとする欲求が挙げられると思うのです。このような欲望を宗教的欲望と呼ぶことはできないでしょうか。
 私は、現代科学文明によって抑圧され阻害されている、こうした精神的次元の欲望や宗教的な欲望を、人間生命の内奥から豊潤なエネルギーとして発現させることが、宗教の担う役割でもあると思うのです。
 科学文明の中での宗教は、人間のこうした高次元の欲望の力を発動させることによって、物質的豊かさをもたらす科学と相まって、精神的な豊かさを人類に与えるのでなければならないと考えておりますが、教授のお考えはいかがでしょうか。
3  ウィルソン 科学技術体系が提供しうるすべてのものと、人間生命の基本的価値の間に生じた亀裂は、現代世界にあって、ますます顕著になっています。われわれは、科学者自身よりもむしろ、生半可な知識しかもたないマス・メディア制作者たちによって、科学の進歩は無限に続き、新たな技術と発見によって人間の欲求はすべて満たされるものと信じさせられてきました。
 もちろん、自然科学の発達によって勝ち取られた素晴らしいものをけなそうとする人はいないでしょうし、新しい科学技術が日常生活にもたらした数々の便利さを捨て去ろうとする人もいないでしょう。しかし、あなたが明確にされたように、人間の生命には、内面的特質や才能に依存していて、科学技術ではまったく創造することも増殖することもできない一面があり、それこそ、ある意味では最も重要な一面であることを想起する必要があります。
 人間のもつ思いやりや愛情(それらに私は感受性も付け加えたいと思いますが)は、深く涵養された人間の美徳であり、それは科学ではとてもまねることのできないものであって、それでいながら技術の発達が無視しがちで、また往々にして――たぶん偶然にでしょうが――抑圧しがちなものなのです。技術的なものはどうしても非個人的なものにならざるをえません。しかし、皮肉ないい方をすれば、人生は個人レベルで生きなければならない場面もあるものです。
4  人々の物質面での状況がどうであれ、技術革新への熱意がどうであれ、また“現代的”たろうとする考えにどこまで関わりがあるにせよ、実際に誰にとっても最も報われた気持ちになる人生の場面とは、究極的には、すべて個人レベルの中に、家族のなごやかな憩いの中に、そして感受性豊かで、たがいに建設的な人間関係を分かち合う活動の中に、見出されるものです。この種の充足に対しては、科学や技術はせいぜい限られた、間接的な貢献しかできません。
 しかし、宗教はまぎれもなく、より大きな貢献をします。宗教は、その最も高いレベルにおいて、人間の価値観を形成してこれを普及し、人生経験のための解説を与えてくれます。人間が存在するという客観的事実は、それ自体では意味のあるものではありません。人生を制御できるためには、人生を解釈し、そこに評価を与えなければなりません。そして宗教は、経験される現実に対して最も広い意味の脈絡を与え、これを解釈して再構築するうえで、科学よりもはるかに十分な機能を果たすのです。
5  池田 同感です。現代人にとって最も深刻な問題は、現実に対して意味を与えたり評価していく基盤となるものがなくなっているということです。かつては、宗教の教える世界観や人生観がその役割を果たしていました。近代に入って宗教の影響力が衰えた後も、それに代わって、進歩への信仰や国家主義への信念といったものが、その役割を果たしました。
 しかし、国家主義が二十世紀前半の二度にわたる世界大戦の元凶となったことから、「国家の名において行われることはすべて正義である」との信念は崩壊してしまいました。進歩もまた、十九世紀までは希望に満ちたものでしたが、やみくもな科学技術の進歩は、逆に人類を破局に導きかねないことが明らかとなってきました。
 二十世紀後半の現代は、こうして、かつての信仰や信念に代わって、個人的な欲望の追求をすべての意味付けの根拠にしている人々が一方にいるかと思えば、他方には絶望と無力感に打ちひしがれている人々がいます。
 古くからの宗教的感情や共同体意識が比較的強く残っている国々や、また近代的社会でも農村地域などにおいては、この現象はそれほど極端ではありませんが、都市地域では顕著です。それだけに、何らかの精神的基盤となるものを得たいという欲求も、都市地域に住む人々に特に強いように思われます。
6  ウィルソン もちろん多くの人は、人生の意義や目的を感じ取る根拠として、直接、宗教的信条に頼っているわけではありません。なかには自己の価値観を形成する能力をもっていて、社会の宗教的・文化的伝統からもたらされる暗示を批判的に再評価できる人たちもいます。しかし、そのような再解釈自体が、過去からの引き継ぎという時間的広がりとともに、環境的広がりにおける脈絡の中で生まれるものです。
 現に私がいまこのように述べていることを再解釈するのにも、個人はすでに自分の社会の文化から引き出した人生の目的や特質、発端、その価値などについての、ある程度の暗示をもってしているに違いありません。また、その文化の中では、個人の偏向がどのようなものであれ、すでに宗教が重大な役割を果たしているのです。
 昨今では、精神的混乱や社会・市民の混乱が増大しており、その勢いは、いまはまだ文化的基盤を保っている人々の生活の平和と安寧までも、やがて脅かすほどであることが明白です。これは特に、アメリカのように動的で、きわめて混成的な社会に、顕著に見られます。そこでは、定着し、継続している一つの文化というものがなく、多くの個人がきわめて方向性のない生活を送っており、自分の価値観や目的観に確信がもてず、流行に身を任せています。さらに、買い物ひとつをとってみても、本質的な特性とか責任とかにはかかわりなく、移植文化の加工品をスーパーマーケットで買うという状況です。
 科学は、その国際的な性格からして、しだいに“無”文化的になりつつあり、いま述べたような状況にいる人のためには何もすることができません。むしろ科学は、ある面では、特に技術革新とそれにともなう急速な社会変革の進行を推し進めることによって、社会の規範や習慣を加速度的に混乱させる要因にさえなっているのです。
7  健全な人間関係は、文化的直観によって培われ、感受性の涵養と、情動の規制と秩序化を基盤に形成されるものですが、現代の状況では、こうしたパターンが確立され、維持されるのは容易なことではありません。いまや原始的で本能的な性の衝動、浅薄な快楽主義、新奇なものへの信仰等といったものばかりが、現代人の生活様式にふさわしいものとして奨励されているのです。
 現在、強力な娯楽産業や広告産業によって推進されているこうした文化的風潮に対して、人間がその潮流に抵抗するのを助ける防壁となるものは、ほとんどありません。しかし、いまなお宗教は、多くの人にとって、こうした文化的・社会的無規範状態の有害な影響を防ぐための、一つの支えとなっています。西洋世界、特に北アメリカにおいて、保守的な教会、過去の道徳的規律を公然と遵守する宗教への、人々の支持が高まっている現象がいくぶん見られるのは、たぶんこのような理由からでしょう。
8  池田 その背景には、かつては宗教によって、続いて国家によって、外から加えられていた道徳的規制がなくなったため、たしかに人間の大幅な自由が確立されたという意味では歓迎されたものの、その自由が物質的・現実的欲望の増長をもたらし、そのため大きい害悪が生じていることに人々が気付き始めたということがあると思います。
 そこで、宗教への回帰が見られるわけですが、その場合、再び人間を外側から種々の戒律的なもので縛る宗教に頼るべきかどうか、という問題が出てきます。私は、実際問題として、外側から規制しようとする行き方は、現代では無意味であると考えます。なぜなら、現代においては、人々の居住・移動の自由があり、外側からの規制を嫌う人々は、自由を求めて他へ移るでしょう。そうなれば、そうした規制は効力を失ってしまうからです。もし、徹底的に規制を加えようとするなら、居住・移動の自由を人々から奪わなければなりませんから、そのような体制は牢獄と変わらないものになってしまいます。そして、人々の大部分は、そのような体制には耐えられないでしょう。
 したがって、求められるであろう宗教とは、外側から道徳的規律等を人間に課すのでなく、人間の心の内側から知恵や自律心を涵養して、各人が自発的に自らの欲望や衝動を抑制できるよう導くものでなければならない、と私は考えます。そして、そうした内面的なものの確立にこそ、宗教の真実の本領があると思うのです。
 この内面的なものとは、たんに具体的な規範ではなく、自己の衝動を支配できる生命力です。それをもたらすのが、大宇宙と一体になること、あるいは宇宙万物の根源にある法をわが身に覚り顕すことです。仏教では、このような究極的真理との一体化を成し遂げることを成仏といっています。こうして、自己をその深い根源から確立したときに、どのような状況にあっても人間らしい対応・行動が取れるようになるのであって、外からの束縛や強制的命令によらずに、人間を真に道徳的に優れた存在にしていく道は、これ以外にないと私は考えています。
9  ウィルソン 宗教は、道徳的コンセンサス(意見の一致)と社会的安定について発言するだけに止まらず、人間に日常的経験や社会的安寧を超越した目標を明快に指し示す働きをもっています。西洋人がよく使う言葉でいえば、人間はしばしば“無限なるものとの調和”を求めます。つまり、自己の存在における一体性と究極的実在との融和を欲するのです。そのような欲求は、ある特定の人々だけが、それもおそらくは時折感じるだけでしょうが、その表現方法が文化の違いによって異なってくるのは理解できることです。
 あなたが述べておられるように、それは大宇宙に融合しようとする欲求なのです。あるキリスト教徒はそれをイエスとの真の結合と呼び、また別の人々はそれを心の内奥の安寧と表現するでしょう。この存在の本質的ないし究極的な諸相との一致に対する探求は、一つの深遠な、またたぶん、ある面では普遍的な、人間の傾向性であると私は信じています。
 何かに自己を完全に没頭させたいという欲望は、より取るに足らない面では、性欲を含む人間の生理的欲求の中に現れます。宗教においては、その欲望が昇華され、形而上学的な言葉でしか表現できないところまで高められます。この宗教的昇華は、結局はマックス・ウェーバーのいう“宗教的音痴”(注1)の人々の理解を超えたところのものですが、それが仏陀のような哲学的表現であるにせよ、アヴィラの聖テレサ(注2)のような神秘的表現であるにせよ、宗教を教える人たち、また実践する人たちからは、人間の精神的追求の極致とされているものです。広くいわれることですが、人生をきわめて豊かなものにする宗教の恩恵は、こうした精神的努力によってこそ、もたらされるのです。
10  しかし、そこにもなお、無視できない困難があります。あらゆる先進諸国において、多くの人々が、社会における道徳的コンセンサスという比較的小さな恩恵は当然として、個人の精神的豊かさの達成や、またたぶんいま述べたような精神的努力の極致とかを希求(ききゆう)しているわけですが、そうした人々でさえ、宗教的信仰の基礎をなす根本命題を知的に受け入れることは不可能であると思っていることです。
 また、それとは別に、宗教は長期的視野からみれば価値あるものだと思っていても、その長期的な恩恵のために目先の楽しみを捨てるだけの覚悟がなく、そのため宗教に帰依することができずにいる人々もいます。おそらくは、こうした二つの思惑が、人々の精神的・宗教的欲求を呼び起こそうとする宗教指導者たちの試みへの、主な障害となっているのではないでしょうか。
11  (注1)“宗教的音痴”
 音楽的感性に乏しいことを音痴というのを宗教に当てはめて、宗教的感情や実践に反応を示さない人々に対して付された語。
 (注2)アヴィラの聖テレサ(一五一五年―八二年)
 スペインのカルメル会修道院の修道女。自らの生涯を神秘的・恍惚的に叙述した著書は、キリスト教神秘主義の規範となっている。

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