Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

オカルティズムについて  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  日本の場合は、生命を支配しているのは因果の法であると考えられていますから、何も悪いことをしていない人が被害を蒙ることはありません。ごく稀に、オカルト的な異形の霊が、たとえば若者に恋をし、その世界に引きずり込もうとしたといった昔話もありますが、全体的には、悪事を犯していないかぎり、何も恐れる心配はないのです。
 このように、オカルト現象としていわれていることも、結局は、宗教観の裏返しになった深層心理の反映であり、だからこそ、こうした違いが出てくるといえると思いますが、教授はどうお考えになりますか。また、オカルト現象に心を惹かれる現代社会の状況について、どのように思っておられるでしょうか。
3  ウィルソン ゾロアスター教(注1)に最も強烈に表れ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にも認められる強い二元論の伝統が、悪を恐ろしい、怪奇な形に描くことの原因となっていることは疑いありません。ヒンズー教にも悪意をもつ神々が含まれていますが、中東や西洋の諸宗教における善と悪の力の対立概念には、もっとずっと鋭いものがあります。
 人々の心が、救済の観念、特に死後の至福の生命の保証ということに囚われていた間は、悪の力はほとんど全面的に、厭うべき力を振るうものと考えられていました。また、“悪魔”とその軍勢を、強信なキリスト教徒にとってすら何となく魅了されるものにしたことでは、教会自体も、その責任の一端を負わなければなりません。教会は、悪魔に取り憑かれているというかどで、あるいは悪魔に与しているというかどで人々を咎めてきましたし、ヨーロッパの俗説でお馴染みのテーマにも、魔術の力を得る代償として、自分の魂を悪魔に売り渡す人間を扱ったものがあります。そのような選択が存在するという概念自体は、一方で人々を不快にさせるとともに、他方では、ときとして人々を魅了していたのです。
4  悪をあらゆるオカルトから顕現したものであるとしたり、それらのオカルトを悪魔と関連づけたことは、非キリスト教徒がもつ超自然的なものへのあらゆる関心を消滅させようとした、教会の戦略の一部分をなすものでした。異教信仰とは、もともと無数の形態の地方的な宗教的慣習、神話、薬草療法、民間伝承、魔術、その他の地方的な呪術などを便宜上、一緒くたにした集合名詞にすぎなかったのですが、教会はそれを悪魔崇拝という概念に同化したのです。
 悪魔と性交渉をもつといわれた魔女が、悪魔への仲介人として表現されたため、魔術は、中世後期のヨーロッパにおいて烈しく非難されました。これについての教会の宣伝は、きわめて効果的であったため、魔女たちは決まってそうした親密な関係にあることを白状させられたのでした。重々しい教会の宣言力は、魔術を広い意味での悪霊学にも同化させました。あるゆる種類の治療術、降神術、占い等々が、悪魔として擬人化された悪と、同一視されるようになったのです。
5  このように、超自然的な現象が二元的に分離されたことの一つの結果として、オカルトに首を突っ込んだ人たちの多くが、自分自身を、教えと実践が融和した古来の宗教の唱道者と信ずるようになりました。もちろん、オカルトは、実際には理論的・知的な正当化の根拠に欠け、(疑いもなく非常に多種多様な)たんにとりとめのない、局地的な、無系統な、雑多な慣習の形をとったものだったのです。かつて教会が、これらすべての現象を悪魔の企みとして強烈に烙印を押したため、近代にいたると、オカルトに惹かれた人たちは“失われた”と目された宗教を探求することが、しばしばあったのです。
 時折、こうした古来の宗教が、たとえばイギリスの場合のように、豊饒神崇拝やドルイド教(注2)と同一視されたり、また、ドイツの場合のように、アーリア民族の神話と同一視されることもありました。教会は、悪魔が教会の儀式をまねたり、さらには聖書を暗誦することすらあることを仄めかすことによって、(教会と)類似した悪の組織があるという思想を奨励しました。たぶんこれに誘発されて、オカルト学者の中には、自分の運動をより効果的に組織化する者も出たのです。
6  特に前世紀において、ヨーロッパ人が他の諸宗教についてさらに多くを知るようになり、しかも、それらを教会が“悪魔の”宗教として激しく非難したため、これら諸宗教の伝統は、時にオカルティズム(秘術学)の範疇に含まれてしまうことがありました。
 また、キリスト教以外の諸宗教がもつさまざまな神秘主義的な伝統は、不可解な宇宙の秘密を発見するために探求されることもありました。さらに、カバラ、(注3)スーフィー教(注4)の神秘論、チベットの宗教、タントラ教(注5)の呪術、その他の秘術の寄せ集めといった諸々の源泉から、折衷的なオカルティズムの拡大された概論が引き出されてきました。さまざまな協会やカルト(注6)が生まれ、なかには世界的に会員をもつものさえ出てきたため、それらは主流を外れたところで、宗教史の流れに影響を与えたのでした。たとえば、セイロン(現スリランカ)での仏教再興に影響を与えた神智協会な(注7)どは、その一例です。
 神智学そのものは、神秘主義を備えた、比較的洗練されたものですが、この神智学から、さほど知的でない、いわゆる秘法の習得に、より重点を置いている、数多くのカルトの運動が生まれました。
7  そうした技法のうち、比較的低級なものが千里眼、(注8)悪魔払い、死者の霊を呼び起こすこと、魔女の集会を行うことなどです(魔女の集まりで行われるものに、時として性の手ほどきや教会儀式への嘲り――たぶん教会の過ちの結果による――が含まれます)。高度な水準のものになると、時間的に何世紀も遡ることや、秘境もしくは太陽へと瞬間的に飛行すること、姿が消えて目に見えなくなること、現実的もしくは神秘主義的な性行為のために望む相手を得られること、といった可能性を約束します。現代の漫画雑誌や空想科学映画でたやすく見ることができるように、このようなとりとめもない空想が、多くの人々を魅きつけているわけです。
 オカルティズムを助長するもう一つの要素は、現代人の社会的経験における逆説の一つから生じているといえましょう。社会は、生活を統御する習俗や慣習が織り交ざった組織に、各人が進んで貢献することによって作られる構成体です。普通、そうした習慣の集合体は、まったく客観的なものとして、つまり外在的な客観世界と同じように人為的なものとして提示されますし、また私たちはそのように実感しています。
8  しかし、教養のある人々は誰しも、そうした習慣の組織体は、社会のすべての(もしくはほとんどすべての)成員による不断の寄与があって、初めて維持されるものであることに気付いています。彼らは、社会とは、社会的規範に従う多くの個人の行動から成るものであること、そして、私たち自身が、この入念に作り上げられた道徳や様式の外装を維持することに携わっているのだということを、知っているわけです(もちろん、社会は、規則正しさや秩序を保障する、そうした構造をもたなければ存立しえないでしょう。しかし、それは、ここでの私の論点ではありません)。
 ところが、普通、人間は、外在的で客観的なもののように見えるものも、じつは個人の寄与と順応に依存しているのだということを、あまりよく理解しておりません。そのため、どこかに別な秩序があるのではないか、つまり、習慣や慣行に縛られない、そこにいけば日常生活のさまざまな禁止事項から解放される世界が、どこかにあるのではないだろうか、と感じるものなのです。
 悪魔教(注9)やいくつかのオカルティズムの分派や魔女の集会などは、正規の社会から少なくとも時折解放されたいと願う人々や、明らかに合法的な環境にあっても、通例では社会的に禁止されているような経験や関係をもち、そこに興奮を求めるような人々に、まさに訴えるものがあるのだろうと私は思います。
9  池田 ただいま教授が述べられたことは、すべてよく理解できます。教授は、主としてキリスト教会の立場から見たオカルトと、教会の外部で繰り広げられた神秘主義的な活動に対する教会からの抑圧に焦点を当てて述べられました。
 ところで、現在、オカルトという言葉は、種々の意義を含んで使用されているようです。オカルティズムといえば、最も狭義には呪術を指しますが、その周辺に、テレパシー能力、未来予知、危険を予感する能力、また病気の治癒力等が配されております。心霊的な能力を含み、降神術や神智学と結びつく場合もあります。
 しかし、最も広義には、たとえばコリン・ウィルソン(注10)のいう“X機能”“宇宙感覚”等も含まれるようです。“X機能”は、オカルト機能そのものではありませんが、オカルト体験の鍵になる力であるといいます。
 ウィルソンは、著書『オカルト(注11)』の中で、X機能について、実在を把握する力であり、人間精神の二つの部分――意識的部分と無意識的部分――を合併させるものであると述べています。この機能は、本来、人間に具わっていたものであるが、近代合理主義のもとで忘れ去られ、無意識の奥に隠れてしまっており、この能力を開発することが未来の人類進化の鍵である、とまで述べています。合理主義の限界を超克しうる力という意味でしょう。X機能が“実在を把握する力”であるとすれば、オカルティズムは、神秘主義に連続するところまで拡大されることになります。神秘主義という概念も、広いのや狭いのや、種々の意義を含んでいますが、もし、最も広義に解釈して、神人合一の体験であると考えれば、X機能は神秘体験に結びつき、ある場合には神秘体験を引き起こす鍵になるものとも考えられます。
 教授が示されたように、キリスト教会によって悪魔の陰謀として非難されたものの中には、呪術から神秘主義までを包含するすべての領域が含まれていたように思います。
10  フリードリッヒ・ハイラー(注12)は、個人的宗教の主要類型として、イスラム教やキリスト教が予言者の宗教であるのに対して、インドの諸宗教には神秘主義的色彩が濃厚であることを指摘しています。
 インドに誕生した仏教も、程度の差はあるにしても、神秘主義の影響から無縁とはいえないようです。特に大乗仏教に入ると、明らかに神秘主義の色彩を濃くしてくるようです。なかには、後期密教の一部の流派のように、たんなる呪術に堕落してしまったものもありますが、きわめて高度の神秘主義にいたった系統も少なくありません。このような仏教の流れを見るとき、仏教の神秘主義に対する立場が明瞭になるように思います。つまり、釈尊はたんなる合理主義者でもなく、だからといって神秘主義に埋没する人でもなかったということです。私たちは、このことを、次の二つの釈尊の態度に見ることができます。
 第一に、釈尊も他の修行者と同様に、一時期、ヨーガを修行しました。ヨーガが、神人合一の過程として、インドの神秘主義を代表するものであることはいうまでもありません。釈尊は、当時のヨーガの達人であるとされたアーラーダ・カーラーマや、ウドラカ・ラーマプトラのもとで修行し、高い境地を得たにもかかわらず、それを放棄したのです。釈尊の目的は、ヨーガそのものではなく、清浄にして透徹した解脱の智慧を得ることでありました。釈尊は、一度はヨーガを捨てながら、再び独自の禅定を立てて、仏の境地に達したのです。このような釈尊の修した独自の禅定を、後に中国の天台大師は“止観”と表現しました。
 第二に、これも禅定体験と関連するのですが、ヨーガの行法でも、釈尊の修法でも、禅定の一定の過程で六神通に代表される種々の超能力が得られます。超能力や心霊能力は、呪術とともに、当時のインドでは高度な発達を遂げていたものです。特に『アタルヴァ・ヴェーダ(注13)』の内容は、治病法、長寿法、増益法、和合法、バラモン法等、現代にいたるまでの呪術の宝庫ともいえるようです。
11  禅定や苦行には、超能力・呪力等が必然的にともなってきます。しかし、釈尊は、これらの能力を得ることを目的として、ヨーガ、禅定、苦行等を行うことを戒めています。だからといって、神通力等の超能力をまったく認めなかったり、悪魔の力として批判したりはしませんでした。あくまで、この力を悪用するのではなく、仏教の智慧によって生かす方途を指し示したといってよいでしょう。ここに、仏教が、普遍的宗教性を保ちながら、土俗的・民族的な信仰・思想をも包括し、主体的・実践的な教えとして展開しえた根拠があるように思います。
 以上のような釈尊の精神は大乗仏教に引き継がれ、特に法華経に盛り込まれてきました。法華経は、あらゆる思想・哲学・主義を包括しつつ、宇宙究極の法理のもとに統合し、昇華しゆく方途を説き明かした経典です。
 この法華経が、伝教大師によって日本に広められた時も、日本の古来の宗教である神道や民族信仰がそこに摂取・包括された過程が看取されます。
 たとえば、神道には主として二種類の神が説かれます。一つは“人間”の次元に含まれる祖先神・氏神であり、他は“自然”の世界に属する統御神でありますが、二者ともに仏教の中に取り入れられ、仏教守護の善神として位置づけられました。たとえば、天照大神や八幡大菩薩等がそれです。
 こうして、日本の民族信仰も仏教の中に取り入れられ、昇華されていったのです。
12  (注1)ゾロアスター教
 紀元前六世紀ペルシャの預言者ゾロアスターが創始。拝火教。ペルシャ帝政において古代帝国以来中世ササン朝までしばしば国教となったが、イスラム教の興隆とともに急速に衰微、現在はパルシー教としてインドに数万の信者が残るのみとなっている。教義的には「全知の主」アフラ・マズダを太陽神的な光の善神とし、闇にいる悪神アングロ・マイニュと戦い、勝利を期するという二元論に立つ。教典を『アヴェスタ』、僧職をマギという。
 (注2)ドルイド教
 ドルイドは古代のケルト民族を教化した聖職者階級。キリスト教に改宗する以前のガリア、イギリスで行われた宗教。ケルト人は一神教で霊魂の不滅を信じ、特にオークとヤドリ木を神聖視した。
 (注3)カバラ
 ユダヤ教の神秘的な聖典解釈法。中世後期やルネサンス期のキリスト教神学者に影響を与えた。
 (注4)スーフィー教
 西暦八―九世紀に形成された神秘主義的なイスラム教の流派または系統(宗派として確立してはいない)。シーア派が盛んなペルシャで栄え、さらにインドにも広まって寂滅涅槃を説く者さえ現れたという。
 (注5)タントラ教
 タントラ(ヒンズー教・仏教の秘儀的傾向をもつ経典)に従って宗教的実践をするインドの秘儀的宗教。前出(第一部「普遍性と特殊性」の項参照)。
 (注6)カルト
 伝統的組織の宗派や教団に対し、組織性の薄い特殊な少数者の集団をいう。
 (注7)神智協会
 ヒンズー教、仏教の聖典やキリスト教の教義に基づく汎神論的輪廻説を唱える教団。黙想・直観により神智を得るとする神秘思想をもち、神智学(セオソフィー)を立てている。一八七五年にペトロブナ・ブラヴァツキー夫人とコーネル・オルコットによってニューヨーク市で創設。ブラヴァツキー夫人は宇宙の神秘を悟った“導師”(マスター)によってもたらされる秘術(オカルト)の啓示なるものを広めた。
 (注8)
 千里眼遠方の出来事や未来のこと、人の心を見通す能力、またその持ち主。
 (注9)悪魔教
 悪魔崇拝。神への対立者である魔王(サタン)を神として拝むカルト。十八世紀以後いくつかの流派で行われたが、あまり世に知られずに排斥され、社会的意義もほとんどもたなかった。
 (注10)コリン・ウィルソン(一九三一年―)
 イギリスの批評家・小説家。一九五〇年代のいわゆる「怒れる若者たち」を代弁する作家。著書『アウトサイダー』『暗黒のまつり』『宗教と反抗人』他。
 (注11)
 『オカルト』The Occult,1971.日本語版は中村保男訳、新潮社刊。
 (注12)フリードリッヒ・ハイラー(一八九二年―一九六七年)
 ドイツの宗教学者。宗教現象学の分野で活躍。ErscheinungsformenundWesenderReligion,1961.。
 (注13)『アタルヴァ・ヴェーダ』
 古代インドのバラモン教で根本聖典とされた四ヴェーダの一つ。当時の祭式全般を統監したブラフマン祭官の職掌に属したもの。他の三つは『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』。

1
2