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性教育  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  性教育
 池田 避妊は、人口調整のための手段として開発されたわけですが、現代では、それが乱用されて、性道徳の退廃をもたらす一因になっていることも指摘されています。
 今日、すでにいくつかの先進諸国では、学校教育にも避妊のために必要な知識が、かなり懇切に織り込まれていると聞いています。たしかに、そうした知識が欠けているために、社会的に未熟な男女が子供をつくってしまい、そのために苦しむ事例が少なくありませんし、これを未然に防ぐだけの知識を授けることは不可欠でしょう。しかし、いわゆる性教育は、避妊の知識の教授だけに終始してはなりません。性教育においては、人間としての道徳心を高め、恋愛、結婚、出産という性道徳のあり方が明示されることが必要だと思うのです。
 人間の性行為には、人間らしい愛情の交流が必要不可欠であり、それこそが根本であることを教えるべきでしょう。男女の愛、夫婦の愛とはいかなるものであるのか――それを教育に盛り込むことが肝要であると考えますが、この問題について、どのようにお考えでしょうか。
2  ウィルソン 多くの文化において、またいくつかの文化では何世紀にもわたって、男女両性は注意深く分離され、男女が交わる機会には、厳しい社会的規制が加えられていました。それでもなお、内密の結合や気軽な性交渉はありふれた出来事でした。時代や社会によっては、私生児の数のほうが、婚姻によって生まれた子供の数よりも多かったのではないかと思われます。
 それでも「嫡子の原則」、すなわち嫡出子のほうに優位な立場が与えられることは、普通、最も原始的な社会から最も先進的な社会にいたる、ほとんどの社会で要請されてきたことです。私生児は、法律上定められたものにせよ、たんに慣習的なものにせよ、道徳的規範を両親が破ったということのために、さまざまな社会的悪条件を蒙ってきたというのが、一般的な実情です。
 「嫡子の原則」が広く行きわたっているということは、私生児をつくることが社会秩序の正常な機能に破壊的な結果をもたらす可能性のあることが、無意識のうちにではあるにせよ、十分承知されていることを示しています。男女間の清純な交際にすら、しばしば厳しいタブーが課せられたこと、男女の両性に隔壁が設けられたこと、社交界に出る未婚の女性に年配の女性が付き添ったこと、異性(主として男性)にまつわる神話などは、すべて性の魅惑に対抗するのに、努力が必要であったことを物語っています。
3  文化によっては、高度に培われた道義心を核にした、ずっと巧妙なかたちの性の規制が発達しましたが、それが最も顕著に現れていたのが、おそらくピューリタニズムの影響を受けたキリスト教社会です。そこでは、各個人が自己のすべての言動を、直接、創造神に責任を負うと考えていましたので、内面的自己規制ということが、教会とその告白機関に代表される社会的規制に取って代わったのでした。
 そうした社会的変化が浸透する度合いは、社会階層によって差があり、また道義心の形成においても個人差がどうしてもあるため、そのような自己規制が完璧の域に近づくということはありませんでしたが、しかし、さほど共同体に根差していない社会にとっては、それは、旧来のタブーを一律に押しつけるよりも、効果的な方法でした。社会の規模が大きくなるにつれて、また、地域共同体による生活様式の制約が少なくなるにつれて、社会的な相互作用がそれだけ広範になり、そのため、個人が名前で知られることがなくなるという状況が生じました。つまり、個人が、多かれ少なかれ、匿名化したわけです。
 こうした状況下にあって、自己規制が必然的に強化されたのです。さもないと、いまや個人の行動が社会的吟味を受けなくなったため、社会集団としては、個人の行動に関する効果的な規制力を維持できなくなってしまうからです。
4  ところが、あらゆる規制法は、それが社会的な規制であれ、自らが課した規制であれ、その理論的根拠を、私生児をつくることが深刻な問題であること、そして社会が私生児をつくることを認めない度合いが大きいことに依存していました。それが、避妊技術によって性交渉にともなう妊娠の危険性が減少し始め、ほとんど無くなると、性的禁欲を求めた道徳規範は、その拘束力の大半を失ってしまったのです。いまや、人間が生物としての本性に歓びを深く感じる性交渉の魅力は、かつてそこに頻繁に生じた自然の結果(妊娠)から解き放たれたわけです。
 また、人間は、(厳重な一雌一雄婚の本能や性的独占を維持するための暴力といった)ある種の動物に見られる性的抑制の様式からは大きく進化したものの、その抑制のあり方は、強力な倫理的要求に依存するかたちをとるようになりました。これが依って立つ起源は生物学的なものではなく、まったく社会的なものであって、性的関係を「嫡出であること」(すなわち社会の承認)に結びつけることにあったのです。この結びつきを毀したのが避妊技術であったわけですが、そのため、人間の倫理秩序が危機に陥っただけでなく、因果関係の不均衡が生じて、その影響は旧来の秩序にまで及んだのでした。
5  人類はその本性の中に働く力を、最初は集団的な規制によって、そして、次には、本能の自制が社会の利益にとって必要だという考えを育て、自己規制によって抑制してきました。ところが、新たな避妊技術の登場によって、社会の利益という概念は――少なくとも性交渉の結果がもたらす危険に関するかぎり――この方程式の中から消え失せてしまったのです。
 このように、すでに人々が、不都合な結果が生じる危険性が著しく減少したことを知ってしまった以上、では快楽を最大限に求めようとする人間の傾向に歯止めをかけるものとして、いったい何があったというのでしょうか。
 合理主義者にとっては、たぶんここまでの論議で十分であろうかと思われます。しかし、この問題には、もう一つ別の側面があります。私は、自己規制、道義心の内面化、責任の倫理などに基づく道徳的行為が伸展したことは、個人に対しても社会に対しても、その性格に重大な影響を及ぼしたと思っています。また、力の対決に代わって社会的抑制が、さらに社会的抑制に代わって自己規制がしだいに支配的になったことは、私の考えでは、人間に具わる人間らしさと尊厳性が向上してきた過程であったと思います。
6  道徳的抑制の基礎には、社会的な影響への恐れがあったのかもしれませんが、それも結局は、各個人が自己の責任感と誠実性への内面的意識をもつようになったときに生ずる、人間の尊厳性とはどうあるべきかとの自覚によって取って代わられ、高められたのでした。もし、妊娠の危険がなくなったからといって、性交渉は、いまや経済学者が“自由財(注1)”と呼んでいる、空気や日光のようなものだという誤った根拠から、個人の自己修養におけるこれまでの長い向上の歩みを逆戻りさせるようなことがあれば、それこそ悲劇でしょう。
 個人が自己を他人に“差し出す”とき、つまり他人に自己の深い心の奥底の感情をさらけ出すとき、そこには常に犠牲がともないますが、その犠牲は、深い相互の愛情によってのみ償うことができるものです。ほとんどすべての人間社会において個人に求められる要求、つまりたんに礼儀上ではなく、秩序ある社会生活の必然性から個人は性行為を私的行為に止めるべきであるという要求には、一つの、隠されていて説明されていない前提があります。それは、人間が自己の最も深い感情を表明し行動化するとき、その人は個人として最も傷つきやすい状態にあるだけでなく、社会生活自体の構造そのものも、最も傷つきやすい状態にあるということです。
7  あらゆる宗教の中で、性行為を制限する態度を最も明確に表明してきたのが、キリスト教です。キリスト教が性的規制に関して厳しい要求をするのは、さまざまな前提と期待に基づいてのことですが、それらが一般信徒にとってはあまりにも高尚で窮屈であることは、その歴史全体を通じて証明されているところです。その結果、今日では、こうした規定自体がかなり無力なものになってしまっており、性行為についてのイエスやパウロの訓戒は、聖職者からもあからさまに軽視されています。
 教会は、人間にとって性行為が不可避であることを知っていましたから、その性倫理は、事実上、最初から妥協的なものでした。性行為を強力に抑圧しようとしたことの一つの結果として、性行為の当事者間に品位ある態度と関係を涵養することを、より困難にしてしまったことが考えられます。これは、西洋において、性に関する病理が非常に多く見られることからも、証明できることです。
8  池田 本能を抑制すれば、病理現象が生ずるのは必然であるといってよいでしょう。仏教の場合は、一般の人々に禁欲を説くことはしませんが、出家者には種々の戒律が設けられております。特に部派仏教では、煩瑣な禁欲規定が定められました。そのために、性欲の抑圧が、かえって異常な形での性エネルギーの噴出となって現れたこともあるようです。
 在家の場合には、五戒が原始(注2)仏教から定められ、大乗仏教にも受け継がれてきました。しかし、この戒はあくまで自己制御であって、外部から束縛するものではありません。つまり、戒とは人々が自律的に守るものです。
 そのために、大乗仏教では、まず自己の生命を浄化し、外部から強制されなくても、習慣的に守れるように修行します。これが、仏教の戒の基本的な意味です。
 さて五戒の中に不邪淫戒がありますが、この戒が性道徳に関連するものといえます。不邪淫とは、妻のある男性が他の女性と関係したり、夫をもつ女性が他の男性と関係することを禁ずる戒です。性欲は盲目的になりがちであるために、この戒を設けたのだと思われます。法華経では、内面的規制力の向上を説いており、煩悩即菩提という(注3)原理によって、性欲を精神的・人間的な愛情にまで高めることを教えております。
 本能的衝動として留まっている性欲は煩悩に他なりませんが、これを豊かな愛情へと昇華し、人間完成に向かうための力の源泉としていくことを、法華経は教えているのです。
9  ウィルソン 責任ある性倫理の基盤をなすものは、相手とその特性を尊重すること、たがいの依存感、根気強い心遣いと思いやりであり、さらに、性行為は人間としての尊厳を損なうものではないという認識などです。
 性生活は、その人のすべての道徳的態度と首尾一貫していなければなりません。それは、他者の品位を下げるのではなく、向上させることを求め、また他者と同じ基準に立って、自らの精神的・肉体的特質のより優れた、より感受性豊かな側面を見出すのを助けようと、一段と深く関わっていくものでなければなりません。いまや、それは、これに逆行しようとする強力な諸機関の勢いに直面しており、もっぱら官能的で場当たり的で快楽主義的な喜びを追求する娯楽産業の隆盛の中にあって、この仕事は、かつてないほど緊要かつ包括的な課題になっています。
 今日、キリスト教は、福音書(注4)の厳格な性道徳と、西洋社会を覆っている性に関する日常的な考え方との間の深い割け目によって、屈辱的な譲歩をさせられているといえましょう。貞節とか誠実とかいうことが、たとえ性行為における暗黙裡の規範として残存し、また、大多数の人が人生の性生活を営む期間のだいたいにおいて貞節であったとしても、それは現今の西洋社会では、まず称賛されることのない価値になってしまっています。
10  こうした状況の中で、宗教が、性教育において引き受けなければならない役割は、二つあります。
 一つは、現在の時代的背景の中でも、伝統的な役割を続けるということです。すなわち、若い人たちに対して、人間関係のあらゆる領域において、現代生活の安易さは彼らの敵なのだということ、現代の状況下で深く根強い誠実さを貫くことは困難であるにしても、それが唯一つ、真の満足感をもたらしうるのだということ、そして、人間関係の基盤は性交渉による愛情とともに感受性や同情心・尊敬心に置かれねばならないということ、等々を彼らに自覚させるよう、健全で実際的な助言を、広く与えていくことです。したがって、これは教育的な仕事であり、他者の心を打つような、繊細な思いやりをもって行わなければなりません。
 第二の役割は、ほとんど政治的なもので、濃やかな配慮よりも、積極的精神を必要とします。性行為は、マスコミによって品位を下げられてしまいました。今日、マスコミの声は、すべての宗教機関、教育機関の声を合わせたものより強力で、耳障りで執拗で、おびただしく広域にわたるものになっています。いまこそ、宗教や人間の尊厳・高潔さといったことに関心を抱く人々が、マス・メディアが制作するものの道徳的内容に関して、規制を要求すべき時なのです。
11  教師が、教壇に立つために資格の取得が必要であるように、放送関係者にも、同様の資格が要求されるべきではないでしょうか。また、マス・メディア関係者の言動は、何百万人もの人々に影響を与えるのですから、専門職に携わる人間が、もしほんの一点でも不品行の疑いがあるだけで、所属の倫理機関から査察や追及を受けねばならないように、彼らにも、同様の規制が加えられるべきではないでしょうか。さらに、自動車の運転者が免許を取得する必要があるように、しかも、事物の損傷や他人への傷害が“生じかねない”ような運転の仕方であった場合には、免許証に違反行為が記入されるように、マスコミに従事する人々にも、同種の制度が採用されるべきではないでしょうか。マスコミ関係者がもたらしうる害悪は、計り知れないほど、ずっと大きいと思われるからです。
 この分野は、人間の尊厳と人類の福利の大敵である勢力に対して、宗教指導者たちが、まだ十分に行動を起こしていない分野であると思いますが、あなたは、この考えにご賛同いただけるでしょうか。
12  池田 教授のご意見にまったく賛成です。
 性愛には、生の燃焼のきらびやかな炎とともに、愚(おろ)かさと脆さが同居しております。愛は、恋人の愛であれ夫婦の愛であれ、情動を制御する豊かな理性をともなわなければなりません。
 人間として信頼し合い、寛容と理解の心でたがいに啓発し、人生を創造していく中に、深い豊かな愛情が生じてきます。たがいに励まし合い、共に手を取り合って、一つ一つの人生の苦難を乗り越えることによって、相互の愛情が深まっていきます。試練の風雪を経て、愛情は生涯にわたって崩れぬ根を張り、見事な美を醸し出す枝を広げていくと思うのです。
13  (注1)“自由財”
 空気・水・太陽の光のように、実用的価値はあるが、大量にありすぎて経済活動の対象とならないもの。
 (注2)五戒
 一、不殺生戒(生き物を殺さないこと)、二、不偸盗戒(他人の物を盗まないこと)、三、不邪淫戒(自分の妻、または夫以外との淫を禁ずる)、四、不妄語戒(ウソをつくことを禁ずる)、五、不飲酒戒(酒を飲むことを禁ずる)。
 (注3)煩悩即菩提
 煩悩(迷い)がそのまま菩提(悟り)と一体不二であること。悟りを妨げる煩悩と悟りとが、それぞれ同一真如の表れであるから、両者は相即すると見る大乗の深い法門。
 (注4)福音書
 『新約聖書』中でキリストの生涯・教訓を記録した部分。すなわちマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書。

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