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植物人間について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン 医学技術が発達するにつれて、カレン・アン・クィンランの場合のような悲劇的事例が増えることを、予期しなければならないと思います。逆説的ですが、人間が生命をその極限において維持する方法を知れば知るほど、死の淵にある生命を維持する方法をどこまで開発し、利用するかという問題は、ますます大きくなると思います。
 クィンラン事件は、まことに強く心を打つ事例です。なぜなら、カレン・アンは、酸素補給装置を外してからも、十年近く生き続けてきたからです。これは、「植物人間も懸命に死と戦い、生きようとしている」とされる、あなたのお考えに力点を与えるものです。
 この問題に関しては、私自身、考えが大きく二分している思いでおります。一方では、個人の生存を引き延ばす見込みのある進歩は、すべて歓迎されることです。しかし、他方、精巧な技術によらなければ生命が維持されないという場合、その技術自体が臨終における個人の“人間の尊厳”を著しく侵害していると考えられることがあり、そうした場合には、親族にとって苦悩と煩悶のもとになるということです。
 もちろん、病気の治療に関しては、滅多に口にはされないものの、宗教的な観念との、倫理上のジレンマが古来根強く存在してきました。
 すなわち、一方で、治療は古くからの宗教的技術であり、特にキリスト教では、始祖(イエス)の信仰上の初期の名声が築かれるうえでも、その後の弘教にあたっても、おそらく決定的な役割を果たしました。病人を治癒させ、ハンセン病の人を浄め、悪魔を追放し、死人をも蘇らせることは、初期キリスト教の根本的な特色であっただけでなく、キリスト教徒が行うように命ぜられた奇跡でもあったのです。他の宗教の場合も、人々は健康を祈ることを学び、精神的・肉体的な幸福増進への助けを自己の宗教に求めてきました。
3  しかし、他方では、人間は臨終の時を定められている、つまりゴッドやアラーがその計り知れない知恵によって、そうした事柄を定めているのだという考え方が一般にあり、たしかにユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統を継ぐ諸宗教においては、人間は、神の摂理とされる事柄に不当に干渉することを望んでよいのかという疑念が、時々表明されています。しかし、世俗化の進行と医療効果の増大とが相まって、そのような疑念は沈静されてきました。人生は悲嘆に満ちており、神は人間を試すために苦難を与えるのだという、運命論的要素を含んだ古来の宗教的主張は、現世での充足が最大の関心事であるような社会に変わるにつれて、後退してきたのです。そして、医学上達成できる成果が、完治とまではいかないにせよ患者が少なくとも肉体的・精神的機能の大部分を回復できるところまでの治癒を見込めるようになると、倫理的な問題が騒がれることはずっと少なくなりました。
 しかし、今日、再び起こってきている問題は、別の角度からのものです。医学が(必ずしも人間味ある技術としてではないにしても)専門科学として大きく発達してきたため、いまや人類は、非個人的にしか人間と関わりをもたないまったく科学的・技術的な装置に、一個の人間の人格をどの程度まで依存させるのが適切なのかという、潜在的な葛藤に直面しているのです。
4  もちろん、知識の進歩によって(これは治療上の技術から直接得られるよりも、応用科学や遺伝子工学の技術からもたらされることが多いのでしょうが)植物化した人間を機能回復させることができるかもしれないということも、常に考慮に入れておかなければなりません。しかし、かなり長い間植物状態にあった人間が、はたして正常な人格と充実した人生を取り戻せるものでしょうか。その可能性が常にあると想定するのであれば、生命維持のために利用できる最良の装置を使用することに干渉する権利は、私たちにはありませんし、幸運にも植物人間にならずにいられる私たちは、そうした治療の経済的負担を捻出する方法を考えなければならないでしょう。
 しかし、経済的負担に加えて、別の負担も、社会にはかかります。その負担とは、“生命に対して”かけられる費用のことです。小さな共同体から巨大な国家にいたるすべての社会制度は、大多数の人々がその人生の大部分にわたって社会的役割を果たし、義務を遂行し、権利を行使するという規範的前提に立って機能しています。病人は、この期待に沿えないわけですが、(犯罪者の場合とまったく同様に)そうした制度の機能の中に組み込まれなければなりません。
5  しかし、制度というものは、その依って立つ主義がいかに人間味あるものであっても、病人の治療(犯罪者の社会復帰の場合も)に要する社会的・人的負担を、常に最小限に止めようとするものです。病人と犯罪者を同一に論じるのは、不快なことのように感じられるかもしれませんが、社会的組織という観点からいえば、彼らは、いずれも――ただし一時的にではありますが――通常の社会的役割の遂行を免除しなければならない、重要な集団なのです(かりに、この免除によって、彼らが自分の役割を遂行していた場合にもたらされる財政への貢献よりも、かかる費用のほうが多額であったとしても、この免除は、あえてなさなければならないのです)。
6  池田 日本では、一九七〇年前後から植物人間のケースが激増し始め、社会問題になってきました。激増の主要な原因は、頭部外傷や脳卒中などの脳血管障害の増加と、脳外科手術の高度の発達によるものです。
 回復の希望のない患者を何年間も植物状態で生かし続けることは、あまりに負担が大きいことも事実です。問題なのは、この状態が何カ月、何年続いた場合に、回復不可能と断定できるのかということです。
 日本でも、時々、植物人間の回復例が報告されていますが、そのなかには一年、二年に及ぶ植物状態から回復したという例もあります。さらに、奇跡的といえるかもしれませんが、五年前に交通事故に遭い、開頭手術を受けたまま植物状態になっていた人が、薬物療法で回復した例もありました。
 したがって、回復不能の判断基準を確定することとともに、大事なことは、経済的・精神的・身体的負担を強いられている家族たちに、社会全体が援助を惜しまないような方向に進むことだと思われます。
7  ウィルソン おっしゃる通りです。ただし、ここで問題なのは、そのためにかかる経済的負担よりも、むしろ、この努力のために共同体社会に要求される、施設に要する社会的負担のほうでしょう。
 病人の看護の専門化が進むと、通常の病気の場合もこれを省略することはできませんし、また一定の水準以下に減らすこともできなくなります。しかしながら、そのように発達した技術的手段に頼るならば、複雑な器具によらなければ生きられず、しかも正常な生命状態に戻る見込みがほとんどないような、重病人の数が著しく増えることになります。すると、そうした患者の生命維持のために献身する人々もますます多くなって、この人々に払わなければならない社会的負担を、人間の寿命に関わる費用として背負い込むことになるということは、少なくとも認めてよいでしょう。
 もちろんこれらの専門職の人々は、自分たちの役割にともなう人道的な要素に、十分人間としての満足感を得ることでしょう。しかし、また同時に、医学がしだいに技術化するにつれて、特にその役割の単調さや非個人性に閉口し、また結局は望みがないのに数カ月間、万一を頼んで生かされている多くの患者の状態に、閉口してしまうかもしれません。また、こうした専門職的な役目の人々が増えることは別としても、このような重症患者の肉親や友人たちの生活も、当然、大きく侵害されることになります。彼らの精神的負担やその味わう不安の代価も、計り知れないものがありましょう。
8  彼らがもし、クィンラン家を苦しめたに違いないのと同じジレンマに引き裂かれるとすれば、カレン・アンは、(比重をどちらに置くべきかの判断は控えますが)親族の大きな精神的代価と、彼らの生活向上の能力と機会の犠牲のうえに、生かされ続けたのだといってもよいのではないでしょうか。私が以上の論点を挙げたのは、あなたが提起された問題から、さらに社会的な派生的問題として、いま述べたような諸問題も出てくることを示したかったからに他なりません。
 より純粋に医学的な側面に限っていえば、多くの人は(もちろん私もその一人ですが)、特定の症例では、患者が回復する可能性にも限界があるということを、まったくといってよいほど知らないのではないかと思います。今日の医療が、ある面で、完全に患者本位とはいえない基準のもとに運用されているということについては、すでに論じてきた通りです。すなわち、医師は、職業上、比較的狭い範囲の症例にしか興味を示さず、もちろん最終的には患者に対してなすべき手だてはすべて尽くしはしても、患者のなかには、ほとんどモルモット同然の扱いをされる人も出てくることが考えられます。つまり、患者は生命(もしくは、植物同然の状態であって生命とみなされているもの)を維持するための、特殊技術のモルモットにされるわけで、医師や技術者は、その患者を回復させる何か新しい方法はないだろうかと、考えを廻らせているわけです。
9  私のこうした危惧は、帰するところ、生存中であれ死に際してであれ、個人の尊厳が守られるかどうかということへの、拭い去れない疑念でもあり、懸念でもあるのです。私がこれまで仄めかし気味に述べてきたことから、あなたは私が何を懸念しているのかを、お分かりになるに違いないと思うのです。
 しかし、この問題のもう一つの側面は、これが、臓器移植の問題にも影響するということです。提供される臓器が、生存し続けるチャンスを現実に損なうことなく摘出できるようにするには、どの時点で提供者の死亡宣告をするのが適切かという問題については、いまだに論議が尽きないようです。
 イギリスの医師たちは、死にかかっている人間を実際に「実験」したことがあります。つまり、彼らのいう、臓器摘出の時点である「脳死」の後も、生命維持の器械を作動し続けて、心臓が実際に機能し続けるかどうか、また、生き返る可能性が少しでもあるかどうかを調べたのです。そして、彼らは、(私の理解するところでは)脳死以後には生存の可能性がまったくないことに満足しています。しかし、あなたがおっしゃるように、植物人間は「懸命に死と戦い、生きようとしている」のかもしれないのであり、その植物人間への関心と、臓器移植とは、ほんとうに矛盾しないのかどうかという疑問はどうしても残ります。
10  池田 死の判定基準として、心臓死を採用するか、脳死を採用するかという問題は、臓器移植の問題とも密接に関連しています。
 欧米では脳死説のほうが有力になっているようです。日本では一部、脳死説を主張する医師もいるようですが、一般的には従来通り、心臓死を採用しております。日本の医師たちが脳死説に疑念を示す理由の一つは、現在の脳波測定では、脳の深部、つまり脳幹まで捕捉することは困難であるということにあるようです。
 私も、脳幹の生を認め、その生を万が一にも切断しないためには、もう少し医学技術の発達を見守りながら、死の判定基準を考えるべきではないかと思っております。
 ただ、ある日本の専門医は、もし真の脳死が脳波によって測定できるようになった場合、はたして心臓死と脳死との時間的ギャップは残るであろうか、という疑問を提示しています。つまり、脳死は直ちに心臓死に移行していって、その間の時間的ギャップはあまりないのではないかというのです。
11  (注1)カレン裁判
 一九七五年、植物人間になったカレン・アン・クィンランさん(当時二十一歳)の死を巡って、クィンラン家と医師の間で行われた裁判。「尊厳死」(安楽死)を主張した両親の訴えは、翌年、ニュージャージー州最高裁で“死ぬ権利”が認められ延命装置が外されたが、その後もカレンさんは生き続け、一九八五年六月死亡した。
 (注2)植物人間
 思考・運動・知覚等の大脳機能が失われながら、呼吸・循環・消化及び排泄等の機能が保たれ、加療によってのみ生き続ける状態となった人。
 (注3)胎児性水俣病
 母親が水俣病に侵されてから生まれる嬰児の先天性疾患。水俣病は熊本県水俣湾周辺で発生した有機水銀中毒症。

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