Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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死と意識  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  ところで、ムーディが抽出し、他の研究者もほぼ同意している共通要素は十項目を超えますが、その中で、死後の生命の存続を証明する鍵になると思われる特徴的体験は“肉体離脱体験”といえましょう。
 心霊研究協会評議員のロザリンド・ヘイウッド(注7)も、いくつかの肉体離脱体験を報告しています。それによると、ある医師の場合は、死を目前にして、意識が二つに分離し始めました。彼は自分で、それをかりにA意識とB意識と名付けていますが、自我はA意識に所属し、肉体はB意識に所属しています。病気の進行にともなって、B意識はしだいに統合性が失われていくのですが、A意識のほうは、完全に肉体の外側にあるように思われ、その肉体を見ることができたというのです。
 ムーディや、キューブラー・ロス女史も、人間は死の瞬間に、自分の肉体から抜け出て、その肉体を外側から見ることができ、また種々の出来事を識別することもできると報告しております。
3  また、日本のある文学者は、古代の日本人は、現在の科学者や医師たちが注目しているこうした体験を誰でも味わうことができ、ごく当たり前に“死後の世界に行ってきた”と話し合っていたのではないかといっています。そして、そのような原体験が仏教の導入とともに高められ、日本人の死後観の基礎を形成してきたと推測しています。
 現在の科学者たちがニア・デス体験の科学的処理から抽出した死のモデルが、日本民族に根付いてきた仏教の死後観と重なる部分が少なくないことは、きわめて興味深い現象といえましょう。
4  ウィルソン 一般に人々が死後の世界に関して、大宗教の何世紀にもわたる伝統的見解よりも、実際に死の一歩手前まで行った人々の体験に関する経験主義的な調査が示すことのほうに、はるかに興味をそそられるのは、そのほうが今日の科学時代に生きるわれわれの思考傾向に合致しているからです。われわれは経験的な証拠によって納得することを期待しており、信仰による飛躍は避けようとしています。
 今日では、世界の諸宗教も、死後の世界についてのそれぞれの考え方を、人々に信じさせることはできなくなってしまいました。キリスト教徒の間でも、天国と地獄についての信念が、着実に失われつつあることは周知のとおりです。また、その中でも、天国を信ずる人よりも地獄を信ずる人のほうが少なくなっているのは、現代の快楽主義的精神を反映しているわけですが、それにしても西洋人の多くが、少なくともかなりの人々が、天国も地獄も信じなくなっています。
5  キリスト教の教えの中でこの二つに代わる終末論(注8)は、(天国・地獄説とうまく両立しないものですが)ユダヤ教に起源をもつもので、将来地上における神の摂理が終わったときに死者の肉体が復活(注9)するという説で、この終末論は、キリスト教世界の公式教義の一部でありながら、今日これを積極的に認め、ひろめようとしているのは、少数のキリスト教団にすぎません。
 信仰者でさえその教理を文字通りに信ずることが難しいとすれば、私のような信者でない者がそうした概念を納得するなどということはありえないのです。キリスト教徒自身そうした死後の世界がどのようになっているのか、詳しいことはまるで分からずにいます。ひとたび疑問が生じると、かぞえきれないほどの死者が復活のときに生命を蘇らせるという思想などは、途方もない問題を含んでいるといわなければならないでしょう。
6  それだけの数の人間が、ある特定の年齢で――おそらくは彼らが死亡したときの年齢で――再び現れてくるというのでしょうか。出現した後、彼らはさらに年をとることになるのでしょうか。また彼らは子供を産むのでしょうか。あるいは、ユダヤ・キリスト教の伝統で原罪とされている性行為は、もうなくなるのでしょうか。また、もし生殖が行われ、しかも“二度と死なない”のであれば、間違いなく人口過剰が問題になるでしょう。要するに、地上での復活というキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の理論体系は、理解しがたいものです。
 一方、魂の永続という、あの世に関するキリスト教の教義体系(これは復活論よりも一般的に強調されているキリスト教の終末論です)は、死後、霊魂が止まる世界はどこなのかという点で、さまざまな問題を提起しています。もちろん、ほとんどのキリスト教徒は、ダンテが想像した体系(注10)を念入りに作り上げた空想にすぎないと思っていますが、さりとてそれに代わる構想も容易に提示できるわけではありません。
7  イスラム教信仰では、天上の楽園は、ほとんどの信徒が復活と死者の裁きの後にしか到達できないものとされており、この死者への裁きが、中東の諸宗教における終末論の強力な要素となっています。コーランに描かれているように、そのような楽園は、砂漠の厳しい条件の中で生涯を過ごした人々が空想した、至福の場所にすぎないのです。すなわち、心正しい人は、清らかな水に潤され蜂蜜とぶどう酒が豊富な場所に住み、宝石で身を飾り美しい侍女たちにかしずかれ、贅沢を極めた遊惰の日々を送るとされています。
 この期待は、ある面ではその愉悦を求める心において、初期キリスト教の教父たちが、地上では禁欲生活を送りながらも、その一方で、その美徳に対する正当な報酬として描いていた理想と変わりのないものです。キリスト教徒と同様に、イスラム教徒にあっても、不正義の人は地獄で苦しむとされていますが、この思想もユダヤ教を起源とするものです。
8  私たちには、はたしてどれだけのイスラム教徒が、彼らの信仰の説く死後の世界を実際に信じているのかについての、信頼できる情報がありません。死後の審判とか、その後、信仰者と悪人がそれぞれ住む場所とかについてのコーランの記述を大幅に変更したのは、ハディース(注11)と、さまざまなイスラム作家たちの責任です。あらゆる主要な伝承に共通することですが、イスラム教の一般大衆の信条にも、民間信仰や迷信、根強い異教信仰などの付着物が影響を与えています。しかし、キリスト教・ユダヤ教信徒の中の知識階級と同様、イスラム諸国でも、知識階級の人々は、往々にして懐疑的であると考えてよいでしょう。
 西洋にも未熟な形ながらも転生の概念が存在してきたことが、民衆の間である程度信じられていたという証拠も種々ありますが、東洋の(といっても本来はインドのというべきでしょうが)転生概念は、その詳細な説明においては、たしかに西洋思想とはまったく相容れないものがあります(西洋でも、来世を期待して「またこの世に生まれたら」と話しているのを耳にするのは珍しくありません。しかし、だからといって、それをあまり重視するのは誤りでしょう)。
9  ヒンズー教では、その多様性にもかかわらず、生命状態の階層的尺度と関連づけて輪廻観を(注12)立てることにおいては、各派とも一致しています。この世での行為に対する死後の褒賞(あるいは刑罰)という意味でのカルマ(業)思想に相当する概念は、西洋でも知られていないわけではありません。しかし、カルマの論理が意味するものを、カースト制度との関連や、人間でも動物でも昆虫でも、すべての生命が本源にもつ普遍性との関連のうえから理解することは、西洋人にとって容易なことではありません。
 しかも、そこにこの終末観の非常に相対的な性格が導入されると、さらに理解が困難になります。すなわち、世界と個人の魂と絶対者(神)が一体化して宇宙の運行から解放される(解脱)という考え方(注13)は、西洋人が容易に把握できない形而上的レベルの思考なのです。西洋でもときどきは再生の事例が語られ、それを信ずる旨を表明する少数の西洋人もいますが、しかし、それを補完するものとしての、この世は幻であって、真実の目標は自我とブラフマン(注14)との合一を覚知して無限の輪廻生死を免れることにあるという、より高度な信条に立つ人は、まず滅多にありません。
 西洋的思考の合理的・経験主義的な伝統の中で育った者にとっては、こうしたヒンズー教の終末観さえ理解しがたいのですから、無常、無我と説き、再生(ないしは死)の繰り返しに耐えて永続する個人的自我は存在しないと主張する仏教の場合(注15)は、さらに理解しがたいものになります。西洋社会に起こった個別化の進行の激しさは、ピューリタニズム(清教徒主義)によってさらに強い拍車がかけられ、その後、個人主義思想を発達させましたが、そのことからも、この仏教の考え方が、そうした西洋的意識の依って立っている基本的な考え方とは鋭い対照をなしていることが理解されるでしょう。
10  キリスト教徒にとっては(ユダヤ教徒やイスラム教徒も同じですが)、地上での一度の人生が死後のあり方を決定するのであり、しかもこの人生はかけがえのない、一度限りの経験と考えられていますから、個人の独自性への自覚はきわめて強くなります。ヒンズー教の場合も仏教の場合も、止まるところを知らないかのように見える輪廻のうえで、カルマの法則が自律的な働きを示すわけですが、これに対してキリスト教徒の場合、死後の経験は神の審判によって決められます。西洋の個人主義は、神もしくは神の一面との特別な、ほとんど個人的な関係を想定するところから、一層の力を抽き出しているのです。
 もちろん、これらの西洋思想は、仏教に見られるような、人間の永続的自我の観念への否定とは、大きくかけ離れたものです。この相違がさらに大きくなるのが、大乗仏教における生命の概念についての形而上的な範疇によってであり、これになると、ヨーロッパの言語に置き換えることさえ難しくなります。
11  池田 ヒンズー教や仏教では、業(カルマ)による輪廻転生の思想を説きます。西洋でも古代ギリシャのプラトン(注16)やピタゴラス派(注17)に輪廻思想があったようですが、体系的で徹底した哲学体系へと形成された輪廻説は、インドの宗教に独自のものといえましょう。
 輪廻の思想が業の説と結びついて体系化されたのは、古ウパニシャッド(注18)のころであったとされています。『チャーンドーグヤ・ウパニシャッド(注19)』や、『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド(注20)』に示される五火二道説がそれです。
 二道とは、神道と祖道と呼ばれ、ブラフマンの世界に入って二度と地上に帰ってこないのを神道、火葬の後、月等を経て再び地上に転生するのを祖道といいます。いずれの道に入るかは、現世においてなす行為、すなわち業によって決定されるというのです。ブラフマンを直視し、自らのアートマン(注21)をそれに合一させた者は再び転生することはないとされます。再生する場合も、善業の者は人間界に生まれるが、不善業を行った者は動物に生まれ変わる者もあると説かれています。
 このような輪廻転生説は、仏教にも採用され、独自の展開を見せていくことになります。仏教はウパニシャッド以来の業による輪廻転生説を採用しながらも、生命は因縁の和合によって形成されると捉え、いわゆる無我説を主張しております。
 無我であるとすると、輪廻する主体は何かということが問題になります。無我を主張する仏教に対して、輪廻の主体がないのなら、輪廻転生は成立しないのではないかという疑問が、他の宗教や哲学から提示されました。しかし、仏教の無我説とは、不生不滅の固定的実体としての我を否定したもので、絶えず変化しゆく現象的な存在が生命であり、それが輪廻しゆく主体であるというのです。
12  仏教の歴史は、この輪廻の主体を深く追求した過程であったといってもよいでしょう。原始仏教では、それを意識(六識)としました。しかし、大乗仏教が起こり、そこに形成された唯識哲学では、六識の奥に末那識という自我意識と、さらにこれら七識を生み出す根源の当体として、第八識、阿頼耶識を立て、これを輪廻の主体としました。この阿頼耶識は一切種子識ともいわれ、心身を作り出す潜在エネルギーや業の潜在エネルギーを貯えており、このエネルギーが顕在化することによって種々の果報が現れるということになります。
 このように、阿頼耶識は、種々の種子を蔵しつつ、生命として連続するとし、この連続のあり方を、唯識仏教では“阿頼耶識縁起”として説き示しました。
 要約していえば、第八識と七識以下とがたがいに関連し合いつつ、全生命が、まるで荒れ狂う河のように流動し続けているというのです。しかも、死によっても、阿頼耶識の流れは断絶することはありません。その場合、七識以下は潜在力として阿頼耶識に組み込まれ、阿頼耶識は自ら蔵している業力によってまた転生するというのです。
 さて、法華経を根本とした大乗教では、この阿頼耶識のさらに根源に、宇宙生命そのものともいうべき浄らかな第九の根本識があるとし、それを顕在化させることによって、阿頼耶識の中に含まれた悪の業種子も、善の働きをするように転換することができると教えます。この最も根源の識を阿摩羅識といい、それを顕現した境地が成仏であるとしています。
13  ところで、現在、この輪廻説にも科学的探究法が適用されようとしています。一つの方法は、催眠術の利用によるもので、年齢逆行の催眠をかけるものです。過去の記憶を催眠術によって呼び起こし、順次にたどっていって、ついに誕生以前にまで溯ってきます。すると前世の状況を想起するというもので、そこで被実験者の口で語られたことを歴史的事実と照合することも行われています。
 第二の方法は、アメリカのヴァージニア大学のスティーブンソン(注22)博士の研究で、前世のことを記憶する子供たちを探し出して、その子供の記憶と現実の事実を照合していくものです。博士はすでに二千件を超す事例を集めており、そのうち典型的な二十例が日本でも発表され、注目を浴びています。これは輪廻説にとって有利な証拠であるとも考えることができましょう。
14  ウィルソン おそらくそう思われます。しかしなお、西洋的思考法の立場からは理解し難い、いくつかの点があります。たとえば上座部仏教において救いを意味する空なる涅槃(ニルヴァーナ)という考え方も難解ですが、さらに、万象を構成する超越的で抽象的な実在という概念にこの涅槃を含める大乗仏教の考え方は、西洋の観念論の伝統の中にも明らかにそれに似た概念があるとはいえ、前者に劣らず理解し難いものです。
 キリスト教では、生を、死への準備であり、さらにその先にある神の審判(注23)、その神の審判の先にある永遠の天国か永劫の地獄へ向けての準備であるとしました。これとは対照的に、大乗仏教は、今世以後の生に肯定的に働く原理と考えられている究極的実在を、この世で――すなわち万物転変の周期的過程の中で――把握することが可能であると強調しています。
 無生の現象にも生命の潜在性があるとみなされるのですから、そこでは死とは相対的なものと考えられていることになります。この世に生きているうちに解脱を意識できるようになるという理想が、(無常の)輪廻を超越する道としての涅槃の概念に取って代わり、解脱を得る可能性は万人に開かれているわけですから、大乗仏教は、死後の世界よりもむしろ現世において自由の境地を得ることを主眼としていることになります。この大乗仏教の“現世”志向は、いくつかの点で、十七世紀のピューリタンが現世支配を目指したことに比することができましょう。
15  大宗教の終末論の中で、論理的もしくは形而上的な難しさをともなわないものはありません。キリスト教では、事実上、終末論は一つではなく二つあり(注24)、この二つが多少まずい形で結びついているのです。ヒンズー教の終末論には非常に多様性があり、神話が付着し、相容れない思想も入っているうえ、非常に特殊で現在では不評をかっている社会構造とも結びついています。
 ユダヤ教における死後の生命観は『旧約聖書』の伝承中にはごく稀にしか見当たりませんが、ユダヤ教もまた民間信仰から多くの付着物を取り入れています。もっとも、今日では、ごく少数を除いては、ほとんどのユダヤ人がそれらをほぼ全面的に無視していますが――。イスラム教の伝統ではたがいに矛盾する出典や伝承を用いており、それらは自由意志の役割や決定論に関しては、必ずしも一致していません。
 そして、あらゆる宗教において、実際の場面では、上座部仏教における天界や地獄の概念、キリスト教で人間が天使になるといったような、通俗的な考え方が含まれていることがよくあり、これらは、それぞれの宗教に特有の終末論の精巧な説明とは裏腹なのです。
 死を、したがってまた人生の意味を、理解し受け入れようとするとき、たとえそこに首尾一貫した理論体系があったとしても、人間はそれだけでは満足しそうにありません。人間は、本来、複雑で相反する二つの性質をもっています。一方では、姑息な手段やいかがわしい解決策に対して心情的に支持しながら、他方では、知的満足の得られる体系や形而上的理論を求めるのは、その何よりの証明といえましょう。
 こうして、多くの人々は、その体系の中に矛盾を感じながら、また宗教指導者たちからの非難を受けながら、これらの諸体系を同時に受け入れてきたのです。しかしながら、死後の生命というテーマそれ自体が、西洋の科学的思考における型にはまった経験的な証拠主義や、洗練されてはいてもしばしば無味乾燥な摂理には、おそらく容易に馴染まないものなのでしょう。
16  (注1)レイモンド・A・ムーディ(一九四四年―)
 アメリカの精神科医。ヴァージニア大学医学部卒。
 (注2)『かいまみた死後の世界』
 レイモンド・ムーディ著、中山善之訳、評論社、一九七七年刊。(Raymond Moody,LifeAfterLife,Covington,Ga:Mockingbird Books.)
 (注3)K(ケネス)・リング
 アメリカの心理学者。コネチカット大学教授。一九七九年、国際臨死体験研究会を設立。著書『いまわのきわに見る死の世界』(中村定訳、講談社、一九八一年刊)等。
 (注4)K(カーリス)オーシス(一九一七年―)アメリカの心理学者。超心理学、超感覚的知覚の研究家。著書『人間が死ぬとき』。
 (注5)E(アーレンダー)ハラルドソン(一九三一年―)
 アイスランド生まれの心理学者。一九七二年よりアメリカ心霊研究協会で働き、アイスランド大学心理学科助教授を務める。
 (注6)M(モーリス)・ローリングズ(一九二二年―)医学博士。内科及び心臓科の臨床専門家。アメリカ・テネシー州。著書に『死が来る前に』(Before Death Comes)。
 (注7)ロザリンド・ヘイウッド
 心霊研究協会評議会委員。著書に『第六感』『無限の巣箱』。
 (注8)終末論
 キリスト教の終末論では、死、最後の審判、天国、地獄が論じられる。
 (注9)復活
 死者が死後、再び生命を回復することで、ユダヤ教、キリスト教等では、最後の審判における全人類の復活を指す。キリスト教ではまた特にイエス・キリストの復活を指し、十字架上に死んだキリストの三日後の復活を根本教義としている。
 (注10)『神曲』に描かれた地獄・煉獄・天国のこと。
 (注11)ハディース
 マホメットの言行についての伝承。最初、口伝伝承されたのが、後に伝承集に集録された。イスラム教では、神の使徒・預言者としてのマホメットが直接「神の言葉」として残したコーランを信仰の基本とし、ハディースをそのコーラン解釈の最も重要な拠りどころにしている。西洋においては、十九世紀中ごろから、ハディースの信憑性について疑問視する向きがある。
 (注12)輪廻
 転生も同義。ヒンズー教の基本的教義はカルマ(業=行為)に基づく輪廻と、それからの解脱。すなわち、カルマは個人存在の主体たるアートマン(我)に付着して輪廻する。たとえ善業の果報で神々の世界に生まれても、業が尽きれば他の生に向けて「再死」する。この再死の道を絶ち切ることが解脱で、それはアートマンが最高実在ブラフマン(梵ぼん)と合一すること(梵我一如)によって達せられる、とされている。
 (注13)ヒンズー教では解脱にいたる方法に三種あるとしている。第一は、カーストの義務を遵守し、神々の祭祀を忠実に行うこと(ヴェーダ聖典の主張するところ)。第二は、(注12)のように、ブラフマンとアートマンの本質的同一性を知ることによってブラフマンに帰入すること(ウパニシャッドの主張)。第三は、神への絶対的帰依・服従により、神の恩恵を受けて神と合一(ヨーガ)すること(『バガヴァッド・ギーター』に示される)である。
 (注14)ブラフマン
 梵、最高梵。ヒンズー教(またインド正統バラモン思想)における宇宙の最高原理・実在。アートマン(我)との合一による「梵我一如」はインド哲学を貫く根本思想。
 (注15)無我説のこと。仏教ではインド哲学の“実我”の考え方を打ち破り、存在を因縁によって変化するものと考え、我の存在の有無を断定しない。すなわち、仏教では、ヒンズー教の説く我という自体・自性があるとする思想、また我に執着することを否定し、存在をありのままに捉えることによって、主体としての我の自由を確立しようとする。
 (注16)プラトン(前四二七年―前三四七年)
 ギリシャの哲学者。ソクラテスの弟子。霊肉二元論をとり、霊魂の不滅を主張。霊魂の眼で捉えられる個物の原型としてのイデア(普遍者)が真の実在であると説き、このイデア論に基づいて認識・道徳・国家・宇宙の諸問題を論じて現実世界を理想の世界に近づけようとした。著作として『国家』『饗宴』など約三十編の対話篇がある。
 (注17)ピタゴラス派
 ピタゴラス(前六世紀から前五世紀にかけてのギリシャの哲学者・数学者)の学説を信奉する学徒。特に幾何学・天文学・音楽理論にすぐれた業績を残した。また研究生活を通して、霊魂の救いのためその浄化を説いた。
 (注18)古ウパニシャッド
 古代ウパニシャッド。ウパニシャッドは古代インドの一群の哲学書で、サンスクリット語で書かれ、師弟がたがいに対座して(upa・ni・sad「近くに座す」)伝授する「秘密の教義」を意味し、普通『奥義書』と訳されている。現在二百余種が伝えられるが、そのうち主要なもの十数種を古(代)ウパニシャッドと総称し、後期(新)ウパニシャッドと立て分けている。成立年代は紀元前八世紀から紀元前四世紀とされている。
 (注19)『チャーンドーグヤ・ウパニシャッド』
 歌詠祭官の奥義で八篇から成り、『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』と並んで古代散文ウパニシャッド中の双璧とされている。
 (注20)『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』
 『広森林書奥義』。内容と量において古代散文ウパニシャッド中最大のもの。
 (注21)アートマン
 「我」と訳される。もとは呼吸を意味する語。呼吸の機能が生命の根源と考えられ、個人の精神原理、統一の中心と見られたことによる。インド哲学、ことにウパニシャッド、ヴェーダーンタにおける概念。
 (注22)スティーブンソン(イアン・P)(一九一八年―)アメリカの心理学者。ヴァージニア大学医学部精神科主任教授。一九六八年、超心理学研究室を設立。著書『前世を記憶する二十人の子供』(今村光一訳、叢文社)、『虫の知らせの科学』等。
 (注23)審判
 最後の審判。世の終末の日にイエスが再臨し、死者の復活があり、全人類が裁かれて善人は永遠の祝福を受け、悪人は永遠の刑罰に定められるというキリスト教の思想。
 (注24)キリスト教における二つの終末論とは、①キリストの受肉・十字架上の死・復活等(終末論の始まり)、②世界破局・最後の審判と神の意志の徹底の時。キリスト教徒は、すでに始まった終末(キリストの出来事)と、未来に待望される決定的終末との中間期に置かれており、したがってこの両者との絶えざる緊張関係に立たざるをえないといわれる。

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