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死の恐怖とどう戦うか  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  死の恐怖とどう戦うか
 池田 どのような死に方をするにしても、すべての人間は、死と対面し、その恐怖を乗り越えなければなりません。まさに死は、有限なる人間にとって逃れることのできない、永遠のテーマです。だからこそ、哲人や偉人の生死が語られ、多くの優れた人々の高邁なる死の記録が残されています。ある者は人類愛のために生涯を捧げ、強靭な意志で死と激闘した足跡を残しています。また仕事、思想、使命に生き、そして安らかに死を享受した高尚な生涯を見ることもできます。
 ところで、名もなき庶民の死にゆく姿を留めた本が出版されています。米国の精神科医、キューブラー・ロス女史(注1)が死にゆく人々との対話を記録したこの本は、日本でも大きなセンセーションを巻き起こしました。それは、特別な人ではなく、いわば平均的な庶民に関するものです。この本が大きな反響を呼んだのは、それが、そうした人々の死を見つめ、彼らが平安に威厳をもって死に向かうように援助した医師の、真摯な戦いの記録であったからでしょう。
 その中で、女史は“死への五段階説”というのを示しています。つまり、不治の病であることを知った瞬間から、人間は否認・怒り・取り引き・抑うつ・受容の五段階を経て、死に臨むというのです。むろん、細部での個人差はありますが、それでも、どのような人も、この五段階説に示されるような経過をたどることに変わりはないといわれています。
2  ところで問題は、この段階を苦悩のうちにたどるか、それとも主体的に死と対面し、それを安心立命の状態で受け入れるかということです。私は、その場合、苦悩の死ではなく、人間らしい良き死をもたらす源泉は、その人自身のもつ死生観であり、また、それに基づいた人間としての生き方それ自体であると考えています。人生を自らの信念に基づいて十分に生きた結果としての死である場合は、その人は、充実感に満たされて、死を受け入れることができると思うのです。
 そして、人々が良き生と良き死を得るための死生観を確立するうえでこそ、宗教が必要であり、まさに宗教はそうした要求に応えうるものでなければならない、と考えるのです。キューブラー・ロス女史も、内面的に信仰を深め確立している人は、安らかに五段階を通り、平和と威厳に満ちて死を受容していることを指摘しています。
3  ウィルソン 死という事実は、ほとんどすべての宗教が、その信者たちのために解釈しようとしている問題です。アメリカに特にみられる一、二の異常なキリスト教宗派は極端な見地をとっており、正真正銘の信者は死ぬことがないと断言しています。そのため、これらの宗派では、死は遺族にとって不面目なことであるとみなされているのです。
 もっと一般的にも、現代では、死という言葉を口にするのはぶしつけなことと考えられており、死者を語るときには「逝った」、「亡くなった」、「永眠した」、「あの世にいる」などの婉曲な表現をします。現代人はそれほど死を恐れているのです。
 昔から死は一つの冷厳な現実であり、死に直面している者には安心と勇気を、残された人々には挫けずに生きゆく力と慰めを与えることが、宗教に要請されてきました。明らかに、死に対して人間を強くするには、自己訓練の姿勢、まじめな精神と目的観、自らの生命に対する責任感等を培わせることが必要です。こうした資質を涵養することは、それ自体が、一生涯かかる仕事なのです。
 たとえ信仰を持たなくても、誠実で良心的な人々の中には、非常に高潔な人生を送り、その高尚な精神を最後まで保ち続け、従容として平静な覚悟のもとに死を迎える人たちもいると思います。十九世紀のキリスト教徒たちの間で好んで語られた話は、教会反対者や不可知論者(注2)が一生涯キリスト教に公然と反抗し続けながら、死に臨んで消滅か永遠の断罪かの冷厳な現実に直面し、その結果、恐怖におののいて死んでいったり、あるいは土壇場でキリスト教に改宗した、という物語でした。おそらくこうした話のほとんどは、宗教の宣伝用に語られたにすぎませんが、悔い改めない罪人やキリストを否定したまま死んだ人々は地獄の刑罰を受けるというキリスト教信仰のためには、これは、それなりに劇的効果があったのでしょう。
4  しかし、それはそれとして、キリスト教であれ何であれ、宗教的信仰が、死に直面した多くの人々に大きな助けとなり、慰めとなってきたことは疑うことができません。キリスト教の場合は、死後に地獄で永劫の苦しみを受けるという恐怖と、天国で永遠の幸福を得るという希望を説いているために、宗教は死を迎えつつある者にとって有用であるという主張をしてきたわけですが、しかし、あらゆる大宗教において、死は清算のときであるとされ、そのとき人間は自らの心に忠実でなければならないと説かれています。
 臨終における劇的な改宗の物語は、死に恐れおののく者に対するキリスト教特有の一時的な緩和剤であるわけですが、そのキリスト教においても、一般的には確信と信仰を一生涯、着実に保ち続けることのほうが(イエスのさまざまな譬え話にもかかわらず)最後の土壇場での改宗よりも大きな価値をもつと考えられているに違いありません。さきの十九世紀のキリスト教徒の物語も、死者や死にかけている人に祝福を与えるためよりは、むしろ聴衆に信仰生活を勧めるために話されたのです。
 もっと厳密な心理学的観点から見ても、着実な信仰を持続し、幾年にもわたって宗教的訓練を受けた人は、極限状態で突然劇的に回心する人よりも、ずっと落ち着いて平静に死に直面することができるでしょう。
5  池田 死に対して人間を強くする要因として、卓越した自己訓練、まじめな目的観、自身の生命への責任感等を養うことにあるという教授のご意見に、私も同感です。
 仏教では、日々の修行を通して自己を訓練し、苦しみと対決し、それを克服し、また死と対面する強靭なる力を養うべきことを教えています。仏教は死を最大の問題として取り上げ、“良き死”と、その前提としての“良き生”のために、個人の生命の内奥から仏性を開示し、顕在化することを修行の目的にしています。
 仏道修行の目的は、結局、個人の生命の内奥に脈打つ仏性という大生命――宇宙それ自体としての生命――に帰り、そこから慈愛と英知に輝く尊厳なる力を湧き出だすことにあります。信仰者は、生と死の究極的基盤に流れる永劫なる大生命に帰り、そこから再び現象界に戻ってくるのです。すなわち、日常的生の中に死があり、その死が生を充実させ、生を推進していくのです。
 と同時に、仏教では、慈悲の行為による他者の幸せへの貢献を通してこそ、自らの完成もありうると教えています。
 そのような信仰者にとって、死は生の敗北ではなく、死もまた自己実現の巨大な契機であり、生命飛翔のための重要な要因となるのです。
6  ウィルソン おっしゃる通り、充実した信仰生活は充実した死を可能にします。私はさらに敷衍して、こう言うことができると思います。それは――もちろん私は、だからといって宗教的信仰が臨終の者に対して(また、同様に遺族に対しても)しばしば与える利益を過小評価する気は毛頭ありませんが――たとえ特定の宗教的信仰によってもたらされたものであろうとなかろうと、高潔さとまじめな目的観を抱いて一生を送るならば、暮らし向きにおいて長い間の困窮を経てきた人であっても、威厳と満足をもって死ぬことができるのではないかということです。
7  (注1)キューブラー・ロス(エリザベス)女史(一九二六年―)
 スイス生まれ。チューリヒ大学に学び、一九五七年学位(医学博士)を取得。元シカゴ大学精神医学部教授。死の問題の世界的権威。世界各地に講演旅行をして、死に対するいわれなき偏見と恐怖を取り除こうと努力している。著書に『死ぬ瞬間』『続・死ぬ瞬間』『死ぬ瞬間の対話』(いずれも川口正吉訳、読売新聞社)等がある。
 (注2)不可知論者
 認識は経験的事実のみに限られ、事物の本質や実在の真の姿は認識できないとする哲学者。英国のスペンサーがその代表。

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