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生物進化への考え方  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  生物進化への考え方
 池田 近代生物学の発達によって生物進化のあり方が明らかになり、特にダーウィン(注1)によって進化論が確立されました。その後、百年余りの間、ダーウィニズムは種々の批判を受けながらも生き続け、ネオ(新)ダーウィニズムとして、進化論の主流・正統派となっています。
 ところが現在では、彼の進化論を根底から揺さぶる動きが世界中で巻き起こってきました。多くの論点がありますが、私は、大別して二つのレベルに分けられると思います。一つは、生物進化そのものを認めるか否かという次元の問題です。第二に、生物進化を認めたうえで、種の進化の仕方として、突然変異と(注2)自然淘汰(注3)を主要因とするか否かという対立があります。
 第一の次元の問題として代表的なのは、進化論と創造説の対立です。生物進化があったという事実は、化石をはじめとする証拠により、もはや疑う余地はないように思われますが、キリスト教の“創世記”(注4)の立場から、進化論それ自体に反対する運動が、いまもなお、アメリカなどに残っています。彼らは、たとえば、カリフォルニア州で「人間は下等な生物から進化したという進化論のみが教えられて、『旧約聖書』の創世記に基づく天地創造説が教えられていないのは宗教の自由に反する」という訴えを起こしているということです。
 次の第二の次元の問題は、日本でも盛んに論争が行われており、学者の中には、突然変異が本当に進化の主要因なのかという疑問を投げかけている人もいます。
 ともあれ、キリスト教では天地創造の六日間に一切の万物を神が創ったという創造説を立てますから、私の分類でいう第一の次元の問題で、すでにダーウィンの進化論とは真正面から対立します。キリスト教やイスラム教等の創造神を立てる宗教は、この問題についてどのように対処しているのでしょうか。
2  ウィルソン 『旧約聖書』の天地創造の物語は、ユダヤ教・キリスト教の双方に共通のものです。さらにまたコーランにも、人間と宇宙が神の特別な行為によって創造されたと述べられています。たしかに十九世紀末にいたるまで、正統派キリスト教徒は、カトリックたるとプロテスタントたるとを問わず、この創造の物語を文字通り信じることを求められていました。人間は神の特別な創造物だと考えられていたのです。
 ところがダーウィン説が出て、種としての人間は、より下等な種であったのが長期にわたる進化の後、自然淘汰の過程によって出現したものであるということが示されました。ただし、この進化という概念は、チャールズ・ダーウィンが著作を発表する百年以上も前から、すでに着実に発達し続けていたものです。事実、彼の祖父エラズマス・ダーウィン(注5)も進化論者でした。
 キリスト教社会で教会の高位聖職者たちに衝撃を与えたのは自然淘汰説で、この理論は、人間が特別に創造されたのだという聖書の物語が虚構であることを、より強く暗示していたからです。彼らの中には、ダーウィン説を受け入れるには時間がかかる者もいましたが、この理論が知識層の全般的な同意を得るにつれ、まだ納得がいかずに聖書の文句を文字通りに解釈することを主張し続ける人々は、やがてキリスト教徒の中でも少数派にすぎなくなっていきました。根本主義者の大部分は、今日では諸分派の信徒となっていますが、すでに彼らの中にすら、地質学や考古学上の証拠と、聖書に出ている宇宙の起源や人間の特別な創造に関する物語を一致させようとして、巧妙な理論を展開した者もいます。
3  キリスト教徒の大部分は、そのことをあからさまにも暗黙裡にも認めてはおりませんが、じつは進化論は、人それぞれに霊魂があるということを根本教義とするキリスト教神学にとって、重大な意味を含んでいます。正統派キリスト教徒は、他の生物に霊魂があることを常に否定してきました。人間は生命体として無類のものであるとされているのです。しかし、進化論は、この霊魂をもった人間の特別の発達ということを認めません。したがって、進化論を受け入れたキリスト教徒は、キリスト教哲学とキリスト教的人類学の核心に触れる、決着のつかない知的問題を抱えることになるのです。
 中東の三宗教(注6)は、創造について具体的な言葉で物語り、それが歴史的時間の始めのある特定の時点で起こったと述べているため、いずれも経験科学上の発見や理論に困惑させられてきました。この物語を、その寓話的・詩的・象徴的な観点から強調することによって再評価しようという試みもなされましたが、聖職者も含め教養あるキリスト教徒の大部分は、科学的証拠の重圧に負けて、聖書の創造物語への信仰を徐々に放棄していったのです。今日、キリスト教とユダヤ教の一般信徒は、それ以外の点では信仰心をもっていても、進化と遺伝に関する現代科学の理論は受け入れるのが通例になっています。
4  イスラム教徒の場合は、キリスト教徒と比べて、実際には、さほど問題は深刻ではありません。教義については、もちろん何の疑いもありません。コーランは「かれ(=アラー)はひとりからなんじらをつくり、それから同類のその配偶者をつくりたまい(中略)かれはなんじらを母の胎内につくりたまい、三つ(=三重)の暗黒の中において、創造につぐ創造をなされた(注7)」と明言しているのです。
 しかし、もちろんイスラム教では、一貫性をもって構成された教義体系への知的同意ということは、キリスト教の場合ほど強調されていません。イスラム教は、純粋に知的な帰依よりも、法によって律せられる実践のほうを重要視する宗教です。したがって、現代科学によって露呈された、人間が特別に創造されたとする説の、明らかな矛盾を公式に認める必要もあまりないわけです。
 進化論が発達したのはキリスト教諸国の知識人の間であり、進化の証拠が提示されたのも、キリスト教社会においてでした。イスラム世界では、進化論は長い間実際に重要な意味をもつことはほとんどなく、イスラム教徒の知的生活に直接影響を及ぼすこともなかったため、そこでは進化論の諸概念に関する知識は徐々に得られたにすぎず、しかも、イスラム教が対決した西洋の科学・技術のはるかに広範な現代化の波から見れば、それらはほんのわずかな部分を占めたにすぎませんでした。このため、進化論それ自体は、この対決の際立った要素とはならず、イスラム教徒の思考や実践に特に直接的で劇的な意味をもつものではありませんでした。
5  イスラム律法の全体主義的な性格にもかかわらず、イスラム教徒は、現実の問題の対処においては驚くほど実際的です。律法を解釈し直す誘因が生じた場合には、その律法運用の基礎である根本原則――つまり律法が社会を決めるのであって、社会が律法を決めるのではないという原則――を字義的に容認していることからは想像もできないほど、容易に再解釈が行われてきました。
 主として知的な事柄については、さほどしっかりと問題が把握されずにきたことは明らかです(ただし、そうした事柄が実際的な意味をもつ可能性は、たしかに増大してきています)。イスラム教諸国は、彼らの間で関連のある多様な問題、たとえば産児制限等の問題においても、保守的倫理をあれほど強調している宗教から予想されるよりは、はるかに広い融通性を示しています。
6  池田 仏教的伝統の深い日本では、ダーウィニズムは、最初からほとんど抵抗なく受け入れられました。その最大の理由は、仏教がキリスト教やイスラム教等とは違って、神による天地創造を説かなかったからだと思われます。
 しかし、今後、仏教者に課せられた問題は、進化論と三世の生命観との関係性はどうなるのかを明確にすることです。つまり、一方には、地球上における生物全体の進化という現象があり、それと個々の生命体が三世にわたって流転を繰り返すということの関連は、示しうると思います。しかし、個々の生命体の内包する業の力が具体的に進化にどのように関わっていくのか、また突然変異や適応との関係はどのように捉えるべきかといった問題は、まだ手がつけられていない領域であり、仏教の立場からどのように捉えるかということは、今後の課題であると思われます。
7  (注1)ダーウィン(チャールズ)
 (一八〇九年―八二年)イギリスの生物学者。ビーグル号に乗って南半球を航行しながら動植物を観察し、生物の進化を確認。一八五九年に『種の起原』を公表した。進化論の確立者。
 (注2)突然変異
 親とは大きく異なる形質が子に現れること。突然変異説は一九〇一年にド・フリースが提唱、生物の進化は主に突然変異によって起こるという説。
 (注3)自然淘汰
 ダーウィンの進化論の中心思想。自然界において、ある特定の性質をもつ個体が生存していくうえで、優れた条件や立場に置かれ、子孫を残すこと。
 (注4)“創世記”
 『旧約聖書』の巻頭の書。天地創造の物語に始まる。
 (注5)エラズマス・ダーウィン(一七三一年―一八〇二年)
 生物学者、詩人、医師。生物の進化は、外界の変化に反応する生物自体の力によるとした。
 (注6)中東の三宗教
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つ。いずれも中東が発祥地である。
 (注7)日本ムスリム協会刊『日訳・注解聖クラーン』(三九:一:6)

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