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医の倫理  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン 医学においても、それに付随する予備的・補助的な学問においても、専門化が急速に進んだことによって、治療法の性質にも、それに対応して顕著な変化がもたらされました。
 医師といえば、かつては、自分が当然よく知っている人間として患者を扱った一種の万能人間でしたが、今日では、多くの場合、範囲の限られた技術者であり、むしろ人間を扱うのではなく、せいぜい「興味深い」症例を扱うにすぎなくなっています。この“症例”とは、専門家が扱う身体または精神の一部分を指すものであって、一人の人間全体を指すものではありません。
 現代テクノロジーの発達によって、医師は、ますます病院で働くようになってきています。大きな病院では、医師は、診療のために必要とする資材が得られるからです。開業医が自宅や患者の家で仕事をしている姿は、ますます珍しい光景になりつつあります。
3  池田 その通りですね。いま教授が述べられたことは、現代医学の診断のあり方を見ても明らかです。高度に発達した検査技術によって、医師は客観的な診断が可能になりました。たとえ患者を直接診なくても、検査結果を分析し、判断がつくようにさえなっています。
 しかし、このような診断のあり方が、ともすれば患者を人間としてではなく、たんなる物、症例として見るような傾向性を、医師に植え付けていくことになっているのです。患者のほうも、医師との人格的触れ合いがないため、医師への人間的信頼感を失うことになりがちです。
 これに対し、東洋医学においては、同じような病気でも個人によって症状は全部違った経過をたどっていくし、また、日々、患者の症状は変わっていく、ということが前提にされます。したがって、その症状の変化に応じて治療のあり方も変えていかなくては、具体的なその患者の病気を治すことはできないとされます。東洋医学ではこれを随証治療といいますが、このことが、東洋医学の患者に対する基本的態度となっているのです。
 これは、東洋医学だけでなく、古来の西洋の医学でも同様であったと思います。人間の心身両面の治療が行われるには、やはり、こうした医師と患者の信頼感に立った、古来の診察法や治療法を見直していくことが必要だと思います。
4  ウィルソン かつてある時期に、西洋で専門的職業(プロフェッション)という名称で呼ばれるようになった職業(特に際立った職業としては医学、法律、軍事、教職、それにたぶん聖職)の主な特徴は、次のようなものでした。すなわち、その職業に従事する者が、本来比較的稀で、しかも正しく公認された一定の専門技術を取得していること。一定規準の業務の履行を保証するうえでの倫理観をもっていること。自らの専門的役割の遂行において自主性を享有していること。自らが業務を行う場所や施設を管理していること。同業者の訓練、検定、加入、除名について取り締まる権限をもっていること。なかんずく、彼らが依頼人と信頼関係を保つこと。
 事実、彼らは依頼人から信頼されていましたが、それはたんに彼らが専門技術をもっているからというだけでなく、ずっと広い意味の信頼を得るにふさわしい人格者だったからです。人道的な配慮は彼らの振る舞いの一部をなすものとして当然期待されていたのであり、事実上、彼らの専門資格の一部をなしていました。専門家であることそれ自体が、信頼の対象となったのではありません。専門家ではあるが全き人間として、たんにその技能だけでなく全人格を駆使して人のために尽くすという期待のもとに、信頼されていたのです。
5  イギリスには、非常に伝統的な専門職の人々の組織があります。彼らの多くがある程度の人間的な温かさと、各々独自の流儀をいまだに保っていられるのは、たぶんそのせいでしょう。そうした温かさや独自性は、より急速な社会変革の進行を経てきた国々や、またはアメリカのように伝統があまり尊重されず、その根も比較的浅い諸国では、概して過去の遺物と化しています。
 しかし、いまやイギリスでも、集団による開業が発達し、医師はますます病院に集中し、ますます高度の技術をもつ専門医による仕事の細分化が進んでおり、これらすべてが相まって、あなたがはっきりと指摘しておられる方向へと、医師を押しやっているのです。たとえ強力な宗教的信仰をもってしても、技術上の要請によるこうした分業や権限分化の影響を消し去ることは無理でしょう。しかし、一般開業医が存在し続けるかぎり、そうした専門家には社会化の機関のための余地が必要です。そこでは、専門家は自分の専門職の特殊な能力を超えて、(依頼者に対して)人間味ある理解が得られるでしょう。
6  池田 イギリスでは、医師をはじめとする専門的職業人に伝統的な人間的温かみが保たれている、というのは、私にもよく分かるような気がします。日本でも、第二次世界大戦以前には、開業医と患者の間には、まだ現在と比較し、温かい人間的交流があったように思います。
 戦前には、医療についての報酬額は決まっていませんでした。そこで、医師は、金持ちからは治療費を多く取るが、貧しい人からは取らないという人が多かったようです。また、開業医のなかには、患者の家に往診に行って碁を打ったり、結婚の仲介をしたという医師もありました。医師は患者の一家についてはすべて知っていて、常日ごろから病気予防のアドバイスをしたり、人生相談にのったりしたものです。
 また、大学でも、医学部の教授は医師を志す学生に対し、たんに医学的知識のみならず、医学の使命や医学哲学、患者を治療できる喜びや人生観等までも教えたといいます。
7  ところが、現代の医学教育では、医学的知識のみが独走しています。開業医も変質してきました。私は、日本の現代の医師が倫理性を失っていく経緯に、二通りあると考えています。
 一つは、患者の人格を忘れて、病人を症例としてしか扱わなくなってしまうことです。現代医学が高度な科学技術に立脚し、人間生命を対象化し、客体として扱えば扱うほど、医師の心にある温かい心情が冷めていくように思われます。
 第二の経緯として、これは特に日本に特徴的なことかもしれませんが、医師が医療行為をたんなる生活の手段と割り切ってしまうようになる場合です。保険制度をうまく活用し、大いに財をなし、豊かな生活を送ることが人生の目的となってしまうということです。
 しかし、医学は、医道を失っては、もはや人間の医学とはいえません。医学は科学技術に支えられるとともに、倫理に深く根ざしていなくてはなりません。
8  では、医師の倫理性を養うためにはどうすればよいのか――。私はまず、医学教育そのものを、もう少し幅広い、全人教育に改革することが必要ではないかと思います。人間の生命とは何か、病苦とはいかなるものであり、人間はいかに病苦や死苦に対すべきかに深く思索をこらし、自らの尊い使命を自覚していくような医師の育成が根本となってこそ、開業医のあり方も生きてくると思うのです。
9  ウィルソン 過去においては、イギリスでは、かなりの程度、人格教育の伝統に依存しており、これによって専門的職業人の卵に、人間文化の背景となる知識とそれへの共感を与えていました(この伝統をきちんと守っていたのが、いまでは政治的な理由で廃止されてしまったグラマー・スクール(注1)でした)。
 今日では、教育もますます専門化しています。そして、ますます高度化する技術教育への際限ない要請のために、カリキュラム(教育課程)から真っ先に締め出されたのが、さほど専門化していない人文系の諸学科なのです。
10  池田 日本の医学教育でも、医学の進歩による新しい科目、たとえば麻酔学・脳神経外科学・神経内科学等のカリキュラムを入れるために、まず犠牲になっているのが人文系の諸学科です。それのみならず、医学哲学や医の倫理、また医学概論をカリキュラムとして組み入れている大学は、ごく少数の大学を除いて、ほとんどありません。
 たしかに、医師にとって医学知識は必須であり、医療技術を磨くことも、生涯怠ることはできません。しかし、医の倫理、医学史を中心とする人類史、その歴史の場に登場した思想・宗教等を知らずしては、人生の深い理解は不可能であり、悩める患者の心の友となり、病と闘う協力者になることは望みえないでしょう。
 私はあえて言いたいのですが、患者に慈愛の献身を尽くすことを生涯の喜びとすることができないような人は、医師になる資格をすでに失っているのではないでしょうか。
 人間としての心に立つならば、医師として経験を積み重ねるほど、生命の神秘さへの思いはますます深まり、生命への畏敬の念に駆られ、この偉大な神秘の前に深く頭を垂れざるをえないでしょう。この生命への畏敬の念から溢れ出る万物への慈愛――その心こそ、宗教心といえるのではないかと思うのです。宗教の本質はこのようなところにあり、医学の究極のあり方とも一致するものであると私は考えます。
11  ウィルソン 自由な価値観の広範な注入、人類の過去に関する知識、文化の多様性への意識――これらなくして、いったい何が医師に(いやそれどころか弁護士、教師、さらには聖職者にさえ)幅広い思いやりを与えて、その職業的役割を増大させ、活気づけることができるでしょうか。
 西洋では、宗教が、かつてそうした人間的触れ合いの、内容の一部をなしていたはずです。しかし、今日では、専門的職業の人が自らの役割を解釈するうえで、宗教的な物の見方に左右される可能性は、ますます少なくなっています。
 かつてカトリック諸国では特にナーシング・シスターズ(看護修道女)の役目を通して、医学は宗教と密接な関係を保っていたのですが、今日では、そうした諸国においてさえ、カトリック系の病院と国立病院の間にほとんど差異のないことが認められています(この点については、教会系医学とそうでない一般の医学の興味深い混淆が見られるベルギーから、適切な研究が寄せられております)。カトリック系の医師ですら、その職業の技術的規範に固執しており、彼らの患者に対する態度や医学倫理における懸案に対する態度は、カトリック以外の医師とほとんど変わりがありません。
12  医業にもっと強烈な宗教的献身が結び付いているような場合には、あなたの見解を裏付ける事実が、たしかにあります。
 たとえば、その創設以来、医学と身体の健康に強い関心を示してきたキリスト教の一教派であるセブンスデー・アドベンチスト(安息日再臨派(注2))の信仰の中で育った医師は、その面倒見のよいことで、今日のアメリカではよく知られています。他の多くの医師たちがより大きな利潤とより快適な生活様式を追求しているのとは対照的に、再臨派の医師は、医療の需要は大きくても利潤は少なく、現代生活の便宜や楽しみがほとんどない辺地での診療を、しばしば引き受けています。この種の献身は、他のキリスト教諸派においても見られ、そうした医師たちは伝道地に入っていき、往々にして自分にとって不便であるばかりでなく、医療の実施さえ困難であるような条件の中で働いています。
13  (注1)グラマー・スクール
 イギリスの公立中等学校。十六世紀に創立され、ラテン語とギリシャ語を主教科としたが、その後、大学進学準備の機関として古典語、現代語、自然科学などを中心とする一般的教育を行った。
 (注2)セブンスデー・アドベンチスト(安息日再臨派)
 エレン・ホワイト夫人を指導者とするアメリカのセクト。この教団では、当初広く信じられた、キリストが一八四四年に地上に再臨するとの予言が実現しなかったのに対し、それはある重要な出来事がその時天国で起こっていたためであり、十戒の第四戒命(安息日を日曜日でなく週の第七日目の土曜とすること)が厳守された暁に、キリストの地上への再臨が果たされるとの見解をとっている。ホワイト夫人は幻想にとりつかれて予言力を授かったとし、また改良食餌治療の強力な唱道者となり、再臨派信徒に医療的伝道活動を奨励している。活発な福音伝道により、全世界に約五百万人の信徒がいる。

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