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社会改革の基盤としての宗教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  社会改革の基盤としての宗教
 池田 宗教的基盤に立つ社会改革については、これを望ましいこととして期待する声と、宗教のドグマが言論・信教の自由を妨げ風俗をさえも規制することを挙げて、反対する声とがあります。
 そこで、宗教的基盤に立つ社会改革を目指す当事者として、明らかにしなければならないのは、その宗教のドグマが干渉するのは市民生活のどこまでであるか、ということでしょう。これについては、宗教によってまたそれぞれ違いがあるわけですが、仏教についていえば、仏法は生命の法である故に、教義に反する行為といえども、政治権力によって処断する必要はなく、自然に罪の報いを受けるという行き方をとります。
 この原理に立つかぎり、仏教を基盤とする社会改革は、それがなされても、人々の自由への抑圧は起こりえないと考えていますが、教授はどのようにお考えになりますか。
2  ウィルソン 宗教革命とは、往々にして「伝統による革命」と呼ばれてきたものであり、すでに廃れてしまった宗教的規範へ回帰するよう、人々に求めるものです。今日のイランでの宗教を機縁とする革命は、おそらくこの範疇に入るものです。しかし、実際には、過去が復元されることはありません。過去を取り戻そうという企て自体が、横行する過去についての虚偽の表現によって、必ず妥協に陥ってしまうからです。
 いずれにせよ、外的な環境は、復元が可能になるほど、そう簡単に改まるものではありません。宗教による革命ないし復古が生み出すものは、いかに伝統に頼ろうとも、結局は、必ずなにか新しいものとなるのです。
 ユダヤ教やイスラム教の伝統の中では、いかなる復古的改革の計画も、日常生活の振る舞いに関する明細な規則を全体系的に復活させることになります。そこでの宗教的伝統は、それ以外の解釈を認めないからです。ヒンズー教の場合は、その拠りどころとする特定の伝統や聖典に応じて、もっと多様な見通しが得られます。キリスト教においてはファンダメンタリスト(根本主義者)による復興運動が、信条や教義や道徳規範を字義通りに再制度化しようとする傾向がありますが、これは間違いなく公権力による窮屈な規制を必要としますし、したがって、そのような計画は、現代西洋の多くの人々にとっては人間の自由への侵害とみなされることでしょう。
3  キリスト教の運動は、神がいつか未来に創設するとされる統治形態としての神権政治の思想を、時折、呼び起こしますが、そうした期待は、その実現の暁に神から与えられる道徳的教えの強制によって社会生活が規定されることを、暗に意味しています。このような革命はまだ純理論的な域を出ませんが、一部のキリスト教徒は、じっと待てば、やがて神が人間の営む諸事に介在する時がくるものと信じています。
 他方、キリスト教による社会革命の思想は、時により実際的に表現されることもあり、そのごく最近の例が、アメリカにおける「モラル・マジョリティー」の運動です。しかし、このような団体が選挙での勝利政党を支持した場合でも、彼らの思想は、政治には何ら実質的な影響を与えていないようです。
4  仏教は共通の道徳律を押しつけることを厭い、位階制の組織もありませんから、仏教による革命は、質の異なったものとなるでしょう。その革命への取り組み方は、一部の自称キリスト教改革者のやり方に似たものになるかもしれません。つまり、革命の目標は、信者を、より強度の倫理的責任に献身させることによって達成されることになるでしょう。しかし、そうした計画は、はたして成功するでしょうか。人々は、業(カルマ)や因果の法則について学んだからといって、はたして道徳的な振る舞いをするようになるでしょうか。
 この場合のプレミアム(奨励金)は小さなものです(もっとも、いくら小さいとはいえ、他の社会集団、たとえばマルクス主義者などが、「あの程度の説得の仕方であっても、あれはやはり、公然たる露骨な弾圧行動には出ないまでも、狡猾な政権がやり始めた陰険な形の強制だ」と言い出しかねないかもしれませんが)。しかし、このプレミアムは、広範囲にわたって、よく調整された精神的反応を引き出すのに、十分なものでしょうか。これは、未解決の問題であるように思われます。
 現代人に加えられている圧力は大きく、そのため彼らは“非”道徳的に振る舞い、自分が役割上認められていることのみを行うようにして、現代の都市生活がもたらす匿名性の陰に隠れざるをえないのです。このような影響力を打ち砕くことのできる宗教は、はたしてあるでしょうか。
5  現代社会は、統制に関して深刻な危機に直面しています。これは、東洋よりも西洋において顕著です。現代社会の技術的秩序は、外的な統制力に全面的に頼ることができるという想像を人々に抱かせます。あたかも人間は、自らの生活の「自動操縦装置」にすぎないかのようです。しかし、そうした統制は、非人格的で、侵蝕的で強圧的であり、たぶん残酷なものとなり、人間は結局、それに対して反逆するようになるでしょう。西洋諸国では、すでに警察の行動、警察のファイル(資料)、電話盗聴、データ・レトリーバル(情報回収)装置、タコグラフ、(注1)ビデオ・カメラなどに対する抗議の声が高まっています。
 これに代わるべきものは、個々人が自己統制を行うような、そして、人間味のある確固たる社会慣習の体系が、非人格的で法的・技術的な規制の直接の働きを和らげて吸収してくれるような、道徳化された社会です。技術的な策略や抑圧に依存することがますます多くなる中で、人間がなお自立した道徳的秩序の恩恵を取り戻すことは、いまからでも決して遅くはないでしょう。
 その見通しは心もとないようにも見えますが、人間のそうした再道徳化こそが、現代の社会秩序全体の過度な合理化を緩和させる、最後の機会となるでしょう。そして、この種の革命の源泉は、宗教以外には、どこにもないように思われます。
6  (注1)タコグラフ
 運行距離計。自記装置をもつ回転速度計。

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