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宗教と新しい世界秩序  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  ウィルソン 最近の数十年間に、新宗教運動や擬似宗教運動が氾濫しているさまは、たしかに、これまで歴史上に見られたどんな宗教運動をも上回るものがあります。こうした運動の急激な増大は、一部には、国際間のコミュニケーションが容易になり、迅速化したことによるものですが、また一部には、西洋のキリスト教文化に歴然と見られる文化的な混乱と消耗の加速度的な進行に対応して生じた、精神的・文化的不確定性の表れでもあります。
 こうした新しい運動の多くは、現代のきわめて合理化された世界での、日常生活の要求の中で成功を収めるための、もしくはそれらから逃避するための、新しい道を人々に提供しています。ところが、たとえ人生で成功するためのよりよい道を約束している新しい運動の場合も、通例、その約束にあたっては、神秘的と呼んでよいような、あるいは神秘的な思想に照らして正当化された、さまざまなテクニックを提唱しています。
 新しい宗教のうち、最も際立って“科学的”な運動にも、また、学習や信仰体験の過程を慣習化しようとしている運動にも、超経験的な信条や独断的で不合理な要素への、何らかの根本的献身が含まれています。もちろん、これらは、あらゆる宗教的献身に、潜在的に含まれているものだといえるかもしれません。
3  しかし、伝統的キリスト教文化に対してなされている蚕食が、新宗教運動から起こっているなどという考えは、私には毛頭ありません。これらの運動は、現代の病弊の原因ではなく、むしろそれに対する反応とみなされるべきなのです。
 アメリカ合衆国における「エレクトロニック・チャーチ(注1)」や「モラル・マジョリティー(注2)」の出現や、イギリスに発生して、いわゆるキリスト教的価値観の侵蝕への根強い不安を表明している、発作的なキャンペーンなどにもかかわらず、際立ってキリスト教的な文化が復活することは、非常に見込みが薄いように思われます。これらの運動は短命であり、系統立った方針に欠けています。その支持者にはまとまりがなく、その動員力は短期的で不定期的であるにすぎません。彼らの関心は、社会的不満の表明には真剣であっても、当座の立場を防衛するための抵抗のジェスチャーの域を出ず、結局は、次々と、技術革新や享楽的な価値観の流れによって圧倒されていくのです。
4  同様に、キリスト教徒は、現代のキリスト教徒による、比較的広範囲に広がっているもう一つの反動――カリスマ的刷新運動(注3)――からも、多くを期待することはできません。この運動は、神を讃えて「異言」を自(注4)発的に語ることを信者たちに奨励し、カトリックたるとプロテスタントたるとを問わず、各種会派の高位の聖職者たちから認可を得てきました。しかし、この運動の場合も、その構成員にまとまりがなく、組織化されてもおらず、教会内での参加も不確かで、おそらく一時的にしか参加していません。
 さらによくないことには「異言を語ること」、すなわち、聖霊が直接人々に力を吹きこみ、力ある霊的賜物を分与しうることを正当化する教義には、教会の位階性も聖職者による助言も必要ないという意味合いが、明らかに含まれています。もし聖霊が、直接、人々に力を吹き込むのだとすれば、教会の組織は、時代遅れになったキリスト教文化の、役に立たない遺物ということになってしまいます。
 つまり、カリスマ的刷新が暗に意味するものは、教会そのものと、その伝統的信仰の様式・秩序が、いまや崩壊させられかねないということなのです。このように、過去幾世紀にもわたってキリスト教文化を支えてきた既成組織を暗に攻撃するものが、キリスト教文化の前途にとってよい前兆とみなされうるなどとは、とても考えられないわけです。
5  私の考えでは、新しい世界秩序は、どうしても合理的で技術的な配置によって支配されることになるでしょう。そうした秩序は実質的な価値に欠け、手順的な、言い換えれば手段的な価値に従って作動するでしょう。今日現れつつある社会体系は、人間や社会を目的とする、とりわけ宗教的な理念に応じて機能するものではありません。
 今後も宗教の組織が存続することは間違いありませんし、その代表的ないくつかが社会的に注目を浴びることは、十分に考えられます。しかし、精神的価値があるいは宗教的関心による著しい影響が、優先的に受け入れられるような社会体系は、まず考えられません。新たに現れつつある合理的で技術的な社会秩序の強みは、民族や文化、宗教の違いを超越していること、そして、広範囲に及ぶ国際的・社会的・政治的活動のために確立される基準が客観性をもっていることにあります。
 しかし、こうした新しい秩序もまた、弱点を抱えています。この新たな秩序は、人間の感情の動きに対するはっきりした心理的な支えに欠けているため、人々に動機を与えるための力が限られているでしょうし、人々の社会的結合への意識を広める手段にも欠けていることでしょう。そしてまた、それは、社会秩序を維持するための、人々の自然発生的で自由意志的な取り組みを刺激するうえでも、きわめて限られた力しかもたないことでしょう。
6  (注1)「エレクトロニック・チャーチ」
 主としてアメリカで行われているテレビを通じてのさまざまな宗教的拝礼や説教を総称した言葉。
 (注2)「モラル・マジョリティー」
 アメリカのニュー・ライト運動の中心勢力として、超保守的な活動を推進する政治的宗教団体。“モラル・マジョリティー”(道徳的多数派)の名称は、アメリカで道徳的振る舞いを大目に見る新たな傾向に反対する、多数の、一般に慎ましい献身的キリスト教徒(主として福音主義教会の信徒)を代弁しようとしたスポークスマンが最初に使ったもの。
 (注3)カリスマ的刷新運動
 一九五八年にカリフォルニアのバン・ヌイのアメリカ聖公会の教会で創始されたこの恍惚(エクスタシー)的・狂信的な信仰運動は、プロテスタント・カトリック両教の(聖職者、修道士、修道女を含む)多くの人々の間に広まった。聖書が書かれた時代に起こった現象として語られているいわゆる“聖霊の賜物”が今日も存在し、体験できるとする運動。この賜物を受ける者は病気を治し、予言を語り、奇跡を現じると信じられ、なかでも最も多い事例として神を讃える言葉である“異言”を話すという。この教義は、一九〇〇年にペンテコステ運動の各派が主張したときは、主流派の各教会から非難されていたが、その後、各教会当局からもしだいに認められるようになった。
 (注4)「異言」
 宗教的な恍惚状態において語られる通常人にとって不可解な言語。『新約聖書』(第一コリント一三・一、同一四等)によれば、それは聖霊の一つの賜物(カリスマ)とされる。原始キリスト教団の成立に当たってエルサレムの集会に集まった多くの人々が「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの言葉で語り出した」(使徒行伝第二章)とあるのも異言の一種である。この恍惚的な信仰形態はキリスト教の歴史上周期的に現れているが、二十世紀初期のペンテコステ運動において特に注目を集め、その後、最近の三十年間ではカリスマ的刷新運動において顕著に見られる。(第一部「信仰と功徳」の項参照)

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