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平和への貢献  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  たとえ言語を変更させ、風俗習慣を押しつけたとしても、もし被征服国民が高い文化をもっていた場合、征服者は、権力的には優位に立っていても、やがてはその被征服民の文明に吸収されてしまうことも、長い歴史を眺めた場合、よく見られる現象です。
 中国において、漢民族を征服した他民族が、自分たちの風俗習慣を強制しようとしながら、結局は中国の文明に同化していった事実を、私たちは知っています。インドにおいて、ガンジーが、武力によらないで徹底した抵抗を貫き、ついに独立を勝ち取った例も、周知のところです。
 もちろん、ヒトラーに見られるがごとき、殺戮に狂奔する権力者が出たときは、人類のすべての決意として、それと対決しなければならないのは当然ですが、私は各国の指導者は、権力、武力による支配が空しいこと、最も大切なことは文明の涵養であり、精神の深化こそ、外界の変化に影響されず、永続した財産となることを知るべきであると訴えたいのです。そして、これこそが平和への底流となるものであり、宗教は、この点について、何よりも貢献しなければならないと思っていますが、いかがでしょう。
3  ウィルソン すでに述べましたように、かつて宗教は、戦争の口実として、つまり国家がその戦争政策を正当化するのを助ける機関として、しばしば頼りにされてきました。世界的宗教の中では、キリスト教とイスラム教について、特にそれがいえます。
 しかし、現在では、イスラム圏内の少数の国をたぶん例外として、その他の国々では“聖戦”という考え方は、全般的に廃れたといって差し支えないでしょう。私たちは“聖戦”という用語が、たんにつじつまの合わないものであるだけでなく、まったく鼻持ちならない言葉であることに気付いています。
 昔に比べて、今日では、宗教が戦争の引き金になる可能性がはるかに少なくなっていることは、喜んでいいかもしれません。しかし、だからといって、必ずしも宗教が、平和確立を助ける、ことさら強力な力になりそうだということにはなりません。今日の国家は、自国が巻き込まれる紛争について、宗教による正当化を少しも必要としません。このため、宗教は、国際紛争を生じそうな問題についての論議には、以前ほど関わりがないように見えるのでしょう。また、このこと自体、宗教指導者が諸国の軍縮政策に影響力を発揮することを、難しくしているのかもしれません。
4  このことを別にしても、今日の政治家たちは、宗教指導者以外の助言者に力を借りるようになっています。そして、技術的な助言と秘密情報の恩恵を十二分に活用しているこれらの政治家たちは、彼らが取り組まねばならない諸問題を、宗教指導者が理解できるなどと思うことはほとんどありません。
 たとえば、数年前、英国国教会の最高位者、つまりカンタベリー大司教が、一般的な社会・道徳に関する何かの問題について、当時のイギリスの首相に意見を述べたいという希望を、公に表明したことがあります。
 これに対して、首相は、多忙のため大司教に会うことはできない旨を公表し、大司教を二週間も待たせました。これまで、重大な教権反対運動らしきものはほとんど何も経験しておらず、しかも、いまだに国王が教会のこの世における首長(したがって国家の宗教的首長)の地位を占めているイギリスのような国でさえ、こうしたことが起こりうるとすれば、(公的には世界の二大世俗国家であるアメリカとソ連はもちろんのこと)フランスやドイツなどでの宗教指導者の影響力は、じつに限られたものであると考えなければなりません。
5  もし、宗教が再び国政に何らかの影響力をもつことがあるとすれば、その表れ方は、二通りあるように思われます。もちろん、両方とも、まったくの仮定にすぎませんが――。そうした影響力を取り戻すための、前提条件として考えられることの一つは、何らかの、大規模で急速な宗教への回心が始まり、さまざまな地域や分野の帰依心の深い信徒たちが、宗教組織のもとに集まることであると思われます。つまり、目標が軍縮要求にあることを明確に表現するために、彼らは実際に糾合されることになるかもしれません。こうした状況になれば、この新しい宗教的共同体は、自発的な示威運動や消極的抵抗によって、またある場合にはストライキによって、政治上の決定を左右しようとするかもしれません。
6  もう一つ別の道としては、こうした宗教組織が、平和という一つの特定の目標に献身する政党を結成することも考えられます。その政党は、正常の政治ルートを通して、より整然とした伝統的なやり方で、影響力を行使しようとするかもしれません。その際に裏面での障害となるのは、世界のさまざまなパワー・ブロック(勢力圏)において、宗教の形態もきわめてさまざまであるということです。
 主要な大国の多国間軍縮に対して、いやおそらく二国間軍縮に対してさえ、反対する者はいないでしょう。疑問が生じるのは、自国のみの、一方的軍縮政策の場合です。西欧諸国民の大多数が、一方的軍縮が実行可能な政策であることを確信するようになるには、彼らが大きく気持ちを変える必要があると思います。これを効果あらしめるためには、宗教的な勢力が、ソ連と西欧の双方で働くことが必要だろうと思います。
 しかし、これらの国々では、宗教が発展するための社会的状況は、それぞれ差異はあるにせよ、いずれも依然として好ましいものではありません。もし、平和を志向する宗教的感情が双方の社会的背景の中で同時に育つことがあるとすれば、そのときは政治家たちも説得に従うかもしれないと思います。しかし、そうしたことが見込みとして現実的であると、あなたはお思いになるでしょうか。
7  池田 たしかに、宗教の影響力という観点でこれを考えれば、ある宗教が影響をもちうるのは、主に、その宗教を信仰している人に対してであり、しかも宗教の発展のための要因は、現代においては、決して十分ではありません。ただし、人間性の深化と豊かさの問題に取り組んだのが仏教であり、それが教えているものは、仏教を信仰していない人々にも受け入れられる“人間としての英知”です。
 私は、平和・文化の次元については、仏教の教えている知恵は、信仰の有無にかかわりなく、人々に訴えかけ、目覚めさせ、実践化していけるものであると考えています。
 したがって、教授のおっしゃる「平和を志向する宗教的感情が双方の社会的背景の中で同時に育つ」という可能性は、短期的ではなく、長期にわたる展望で見ていかなければならないと思います。その信念に基づいて、私はこれまでも多くの各国指導者たちに会って対話をしてきましたし、これからも平和のために、大海の一滴として、対話と活動を続けていきたいと決意しております。

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