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日蓮大聖人・池田大作

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宗教は文明をリードしうるか  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  ウィルソン 先進工業国へと発展した社会も含めて、あらゆる伝統的社会においては、宗教と文化は、解きほぐすことができないほど固く結びついています。これは、文明が、宗教によって全面的に形成されたとはいえないまでも、宗教から強烈な影響を受けてきたことを示しています。たしかに、西欧における独特の精神的傾向と態度を鼓舞し、持続させるうえで、さらにはそれぞれの地方の言語そのものに対してさえも、宗教が決定的な影響を及ぼした、さまざまな例を挙げることができましょう。
 しかしながら、それ自体、文化を超えたものでありながら、文化や文明に独自の影響を与えた近代科学の衝撃によって、宗教の影響力は大幅に縮小されました。今日、人類の文明を形づくるうえで宗教の果たす役割が衰退したばかりでなく、宗教指導者たちのある人々――その最も象徴的な例として、ローマ・カトリックや英国国教会の指導者たちが挙げられますが――は、自分たちが文化に影響を与えているのだという最も明白な主張をほぼ全面的に放棄しており、それは実際に彼ら自身の過去を否定するまでになっています。
 宗教が、ときとして文化の多様な発展のブレーキになるという状況がかつてあったことは事実です。そこから、現在では多くの宗教指導者が、科学やマス・メディアや政界の言うことを甘んじて受け入れ、かつては宗教が日常生活に独特な様式とより厳粛な内容を与えて、これを洗練されたものにしてきたという主張を、放棄するようになったのです。
3  かつて西洋の宗教は、人間の感情の行きすぎを和らげ、貪欲さを規制し、責任ある態度やたがいの思いやりを促し、振る舞いや習慣を穏やかなものにしようとし、また、人々が自分の運命に満足し、同胞に対して慈愛をもつよう説得しました。仏教の教義が広く説いたこともこれとほぼ同じようなことでした。
 しかし、こうした人間生活を洗練する影響力は、近代経済体制のあらゆるレベルに浸透している規則的で組織的な貪欲さによって、また官僚制的運営を特徴づけている無関心主義によって、さらにはテクノロジーの非人間性によって、累積的に相殺されています(マス・メディアの冷酷な表現の中で、いとも効果的に人間生活を瑣末化する快楽主義、冷笑的態度、浮薄さなどの影響については、言わずもがなでしょう)。人間の関心や感情や、さらには生命さえも無頓着に踏みにじる多くのことが、進歩の名のもとになされてきました。
 先進諸国において、たとえ宗教が活力を保ち続けていたとしても、その影響力が、科学や経済の発展によるこうした成り行きを停める方向に働いたかどうかは疑問です。しかし、人間的な性向が抽き出される源泉は、宗教以外には存在しないようです。
 現代の技術開発の進行は、常に、進歩と人類の幸福というスローガンを振り回しながらも、一方、人間の感性などには見向きもせずに勢いを増しつつあります。たしかに、環境の保全や絶滅に瀕した種の保護、乏しい資源の節約、危険性をはらんだ技術・産業の進行抑制等々の運動に関心を払う徴候も、現れています。
4  しかし、われわれは、人間の技術的進歩のいくつかが、どれほど人間自身を危機に陥れているかについては、まだ十分な知識をもっておらず、ただ、環境に対する純粋に物理的な影響――たとえば環境汚染――に、どうやら気付き出しただけのようだと言っても、差し支えないでしょう。これに対して、心理的汚染と呼べるものも、同じくらい確実に発生しており、そのため、われわれが文明的価値とか人間文化などと漠然と呼んでいるものが、さらに深刻な危機に陥りかねないにもかかわらず、こうした汚染の特質についての査定は、まだ誰も、着手さえしておりません。
 現代世界には、さまざまな有害な力が働いていますが、それを抑制する人間の能力については、私は概して楽観視しておりません。しかし、ともかく何かがなされうるとすれば、それは、おそらく誰もが胸中深く感じ、真剣に考察し、また何百万という人々が賛同するような価値観を、何らかの新たな形で流布することしかないでしょう。このような展開を予測するのは、困難なことです。というのは、これを効果あらしめるためには、そのような運動は国際的なものでなければならず、また、多様な諸文化の中で展開されなければならないからです。
5  そして、そのためには、その運動が掲げている価値観や広めようとしている心的態度が、きわめて高水準の一般性をもって表明されなければなりません。なぜなら、それらは、数多くの異なる文化的背景にも、大きな相違性をもつ人間の諸条件にも、適用できるものでなければならないからです。といっても、表明された価値が一般的、抽象的であればあるほど、人々に、強烈で深刻な関心を呼び起こすことが、ますます困難になることもまた明らかです。人々は、皆、生きるのに忙しく、また、地方的で特定の適用範囲をもつ言葉で、自分たちの問題を取り上げます。彼らにとって、自分たちの個人的な欲求や家族の関心が、人類の直面するより広範な、おそらくは全地球的な問題と、どのような関わりをもつのかを理解するのは、容易なことではありません。人々を、いわゆる“高邁”な理想と彼らがみなすような目的の支持者に加わらせることは、困難なことなのです。
 一方に雑多で多様な地方的関心というものがあり、他方に地球的文明と全人類の文化という普遍的で何より重要な目標があり、これら両者を連結する絆が作られ、その溝に橋がかけられることがあるとすれば、それができるのは、おそらく宗教しかないでしょう。
6  池田 いま教授は「人間的な性向が導き出される源泉は、宗教以外には存在しないようだ」と述べられ「雑多で多様な地方的関心と、全人類の地球的文明・文化という普遍的で何より重要な目標とを連結する絆が作られ、その溝に橋がかけられることがあるとすれば、それができるのは、おそらく宗教しかない」と言われました。このお答えは、私がかねてから抱いている考えと、まったく合致しております。
 宗教が果たすべき根本的な役割は、人間性を豊かに、かつ深く、強くすることです。これを私は、恩師戸田城聖第二代会長の思想を承けて、「人間革命」と呼んでいます。この人間性を深め、豊かにすることは、現代の科学の発達や経済の発展、社会機構の整備などによっては不可能です。というよりも、むしろ、これらの現代の文明や生活様式こそ、人間性を貧弱なものにしてきた原因であるかもしれません。
 この現代社会における、一人一人の人間性の貧弱化が、家庭や地域においてさまざまな問題をもたらすとともに、全人類的次元においても、人類そのものの滅亡をもたらすかもしれない、深刻な問題を引き起こしているのです。まさに、雑多な地方的関心と、普遍的な全人類の目標とをつないでいるものは“人間性”の問題であり、宗教は、この“人間性”の問題に取り組むことによって、まさしく教授が言われるように「その溝に橋をかける」ことができるのです。

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