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共産主義と宗教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  共産主義と宗教
 池田 ソ連、中国など、共産圏諸国においては、一応、宗教を信ずる自由は保証されていますが、布教については自由が認められていません。全般的に言って、宗教は過去の階級社会に結びついたもの、という認識がなされているように思われます。
 たしかに、多くの宗教は、この人生の現実から生ずる苦悩から目を逸らして死後の幸福を志向するよう仕向け、そのため、封建的な人民抑圧政治を、諦観的に受け入れさせる働きをしてきました。
 しかし、あらゆる宗教が、すべてこのような現実への諦めを教えているわけではありませんし、共産主義が人生のすべての苦悩を解決できるわけでもありません。特に、死後の問題は、いま生きている人間にとっても、たんに未来の問題ではなく、現在の問題でもあります。なぜなら、人間は未来の保証なくして現在を真に安心して生きることはできないからです。
 こうした人間の本性から生ずる欲求は、やがては、その未来への確たる見通しのうえから、人間に内面的に充実をもたらしてくれる宗教を必要とさせることでしょう。私は、共産主義社会においても、宗教に対する考え方は、将来、もっと自由になるであろうと予測しています。
 もちろん、私たちは予言者ではありませんから、たんに未来のことを論じ合ってみても、意味はないでしょう。共産主義社会の現実、その中における人間の現実のうえから、宗教の果たしうる役割について、教授は、どのようにお考えになりますか。
2  ウィルソン 共産主義について、社会学者たちは、しばしばそれ自体が宗教である、もしくは、少なくとも宗教の代用物である、という表現をしてきました。彼らの主張によると、共産主義は、宗教と同様に、信条をもっています。共産主義者は、その創始者を賛美し、一組の聖典を尊崇し、一つの史観とその最終目的について賛同し、細胞組織を形成し、伝道者的な熱意を示します。そして、その運動は、信奉者たちには親睦の機会を与え、集団に対しては社会的拘束を促進させるというように、宗教のもつ機能を果たしています。他のイデオロギーはすべて禁止され、あたかも中世キリスト教の不寛容の最も行きすぎた点をそのまま借りたかのように、そうした、別のイデオロギーの信奉者たちが迫害されます。
3  しかし、これらのすべてをもってしても、共産主義が宗教のもつあらゆる機能を果たしてきたといえないことは明白です。個々人がその生涯の過程の中で心の痛手を受けたときに、共産主義がその支えになるということは、まずありません。人々が自ら死に直面したとき、または彼らの親族がそうした状態にあるときに、何らの慰めを与えることもないのです。また、たとえば誕生、成人、結婚などといった喜びの折に、感情生活を極点に達せしめたり高揚させる手段は、何ら提供しません。個人は、個人の人生の目的をまったく超越して、集団としての目標を支持するようにとの要求を、「党」から(ということは「国家」から)あまりにも露骨に突きつけられます。そこには、人々を説得し、動機づけ、納得させようとする、繊細なメカニズムといったものは存在しません。つまり、共産主義は、人々を社会に参加させる技巧に欠けているのです。
4  共産主義が自らを救済の方途として示すのは、狭い、往々にして無味乾燥な、知的な意味においてでしかありません。民衆全体を説得して、他人のためや、共産主義が大いに自慢している集団的利益のために自己犠牲的な行動を取らせるには、共産主義は弱い力しかもっていません。だからこそ、そうした結果を生むために、強制や、他の手段に頼るわけです。あらゆる真の宗教的伝統に見られるような、英雄的といってよい自己否定、愛他主義、私心のない善意などが共産主義者を鼓舞したという例は、ほとんどありません。第二次世界大戦において、ロシア民衆の士気を強めるために党が意識的に利用したのは、公式のソビエト政治綱領の教条ではなく、むしろロシアの人種的・民族主義的理念でした。
 これらすべてを考えあわせると、共産主義は、それに代わりうるずっと有効なイデオロギーというものを知らない大衆、しかも、そこにある伝統的宗教の残滓は型が古く、内容は非学問的で、その活動も非効率的であるような大衆にとってさえ、種々の点で不備であることが分かります。
5  池田 たしかに、西洋においてキリスト教の生命力が減退してきた結果、さまざまな宗教の代替物が現れました。民族主義、科学主義、国家主義など、本来、現世的な価値であって宗教とはなりえないものが、キリスト教の衰退に代わって、宗教的な意味での至上の価値の座に坐り、多くの人々の崇拝の対象になっています。共産主義もその非宗教の一つで、現代にも大きな影響力をもち続けています。
 キリスト教衰退の後に出てきた非宗教的な共産主義が、皮肉にも“宗教的”に信奉されてきたプロセスを見るとき、逆に、人間の精神にとって宗教が必要不可欠のものであることを、この事実は雄弁に物語っているように思います。しかしながら、共産主義が、そのような人々が本来の宗教に求めた条件を満たしえないでいることは、ただいま教授が指摘された通りであると思います。
6  ウィルソン 少なくとも、共産諸国の中で最も進んでいるソ連には、他の先進工業諸国の特徴である世俗化の進行が、すでに芽生えていることの証左があります。一般に学者たちは、この進展が生じるのは、ソビエトの公式の宣伝の有効性によるのでも、ソ連がイデオロギーとしての非宗教主義を提唱していることによるのでもなく、むしろ、西洋諸国に世俗化を誘発させたのとまったく同じ理由による、すなわち、宗教が近代社会システムの運用にますます無関係になっているためであると考えています。つまり、学者たちは、この過程は社会構造上の理由によるものであり、イデオロギー上の理由によるものではないとしているわけです。
 これがもしその通りであり、ソ連の指導者たちがこのことを認めるようになるとすれば、彼らがその中で金縛りにあっているかに見える不安とドグマ的保守性による麻痺状態から、ゆくゆくは抜け出せるかもしれません。もしも彼らが社会の変化のあり方に真に精通しているなら、宗教を恐れることは少しもなく、異なる宗教的信仰の信奉者に寛容さを拡大しても、恐れることは少しもないことに気付くかもしれません。そして、彼らは個人の私生活レベルでは、宗教は、何らかの形で慰めと安心を与えるということ、そしてそのこと自体、共産主義政体への挑戦となるどころか、むしろ有益なクッションとさえなりうるということも、認めるようになるかもしれません。
 マルキシズムそれ自体は、一つの説明的命題として、有効な社会心理学に欠けており、ロシアで実践されている共産主義は、人間理解という面に欠けています。宗教の自由は、政治的安定を蝕むことなしに、また、あまり影響することすらなしに、共産主義社会の束縛性を減少させうるでしょう。あなたは、こうした見方に同意されますでしょうか。
7  池田 「宗教の自由は、政治的安定を蝕むことなしに、また、あまり影響することすらなしに、共産主義社会の束縛性を減少させうる」と言われたことについて、私は基本的に同意しますが、全面的にとは言いかねます。
 なぜなら、宗教の中には、たとえ抑圧的な政治に反抗するための砦とされなくとも、その教義と信仰のもたらす生き方が、政治的安定を蝕まずにおかない場合もありうるからです。しかし、それとても、宗教の自由を抑圧することによって惹起される反抗心や、一見その反対に見える無気力が生み出す社会的危険性に比べれば、はるかに軽微であろうと思われます。

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