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国教の是非  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  国教の是非
 池田 現在、特定の宗教もしくは何らかのイデオロギーを、自国の良心の支柱にしている国が少なからずあります。そこでは、その宗教的もしくは非宗教的理念に基づいて、政治の諸政策、教育方針、さらには芸術の傾向性さえも、国策として規定されるという面があるように感じられます。
 私は仏教の信仰者ですが、イスラム圏の国々や一部のカトリック教国に見られるように、特定の宗教を国教として定めるということには、反対しています。たしかに、国教として定められれば、権力をもって押し進められる以上、その宗教の教義の徹底や文化への反映がより効果的に行われるでしょう。しかし、そうした権力の助けを借りることによって、もっと大切なものを、その宗教は失うことを考えなければなりません。
 それは、教義を客観の目に晒し、批判に応答することによって得られる、真実の意味での確信です。権力などの介在を排して、純粋に宗教上の論議の場でそれらのものを獲得していくことこそ、宗教の保つべき矜恃であると思うのです。ある宗教が、いかに多数の人々の帰依を得ても、あるいは権力を把握する機会に恵まれたとしても、国教化への道を歩んだ途端に、その宗教は一種の堕落への道を選択してしまったことになるのではないでしょうか。
 私は、一つの国家において、大多数の国民が特定の宗教を信仰する事態にいたっても、その宗教は、国教の地位に就くことを辞退すべきだと思っています。それでこそ、一国の枠組みを超え、世界宗教たらんとする普遍性をもつ宗教となる資格をもつとも考えております。
2  ウィルソン 宗教は、人間を、超自然的な法もしくは力に接触させることを求めます。そして、おそらくそうした要求には、宗教指導者たちが、真の宗教を国家や政治的権威が機能するレベルを超越したものとみなすべきことが、暗に含まれています。
 世界の大宗教は、いずれも、“近代国家”が出現する以前に、そしてまた、明確で独立的かつ総合的な国家体制の概念が、理論上でも事実上でも、きわめてはっきりと組織化されるより以前に、すでに広く流布され、多かれ少なかれ社会的に制度化されていました。したがって、国教なるものは、それ自体、社会や政治の発展の特定の段階、つまり初期の国家群が形成され始めた時点に現れたことになります。
 国家は、一定の領域内において、政治権力の独占と、そして究極的には社会的強制力の独占への要求が行われ、その要求が有効である場合に樹立されるものです。こうして新たに生まれた国家社会は、当然のことながら、他の既存の社会的現象(たとえば言語など)を認めたように、民衆が信じる宗教を認めました。国家は必然的に宗教に保証を与えましたが、これはことに君主たちが、その正当性を、自ら超越的な霊的力の代弁者であると称することのできる人物から認められることが必要だったからです。ヨーロッパでは、教会にとって聖域とされた場所を保護し、教会の聖職者を受け入れ、その役職者たちに特権を与えることが国家の通例となりました。
3  キリスト教は、いうまでもなく古代ローマ帝国の時代に効果的に組織化された宗教であり、帝政制度の廃墟のうえに、より高度な公民秩序の形態を保とうとしました。さらにキリスト教は、イデオロギー的独占を求め、それによって中世ヨーロッパの君主たちと提携して、世俗権力と宗教権力に責任を巧妙に配分しえたのです。教会当局が、競い合う君主たちに対して効果的に自らの意志を押し通すことができたのは、ほんの時折のことにすぎませんでしたが、しかしなお教会は、君主たちに対する優位を要求しました。
 これに対して、既存の宗教が深く土着化して地方的になり、その社会の日常生活の構造に複雑に織り込まれて、組織的には位階制をとらず整備されてもいなかった地域では、そうした宗教は、国教として有効な地位に納まることはとてもできませんでした。その端的な事例が、ヒンズー教です。ある面ではいま述べたような要因の結果として、ヒンズー教は、混淆的・折衷主義的であり、宗教の多様性に対して寛容でした。インドでは、宗教の発展に作用したのと同様の理由によって、国家もまた、ヨーロッパでとられたような形態はとりませんでした。
 キリスト教とイスラム教は、近代国家が厳密な意味で成立する以前に、すでに支配者たちと結びついていましたし、これらの支配者たちは、しばしば宗教の影響を強く受けていました。そのよい例が、フランスのルイ九世(注1)やイングランドのエドワード懺悔王であ(注2)り、この二人の生涯とその政治には、アショーカ王の場合に劣らず、宗教の影響が見られます。
4  しかし、キリスト教とイスラム教の影響力は、適格な宗教としての認可を要求するうえで競争相手とみなされた雑多な土着の宗教的伝統に対して、それらを排除しようとする作用をしました。その目的の達成のために、この両宗教の指導者たちは、世俗君主に働きかけて強権を行使させたのです。世俗支配者にとっては、信仰を保護することが宗教的義務となりましたが、これはしばしば宗教的少数派に対する迫害を意味し、さらには宗教権威からの要請による戦争への参加をすら意味したのです。こうして、宗教が世俗文化に認可を与えるという観念が発達しました。宗教は、社会の選良に奉仕し、彼らに文化を提供するようになったのです。
 君主に保護された宗教は、君主に臣下として服従するあらゆる人々がその宗教に忠誠を尽くすことを求めました。ヨーロッパでは、教会は、政治権力を超越した存在たろうとし、さらに、国家が十分に形態を整えた時点では、国家の存在さえも超えた客観的存在たろうとしました。これは教会が、すべての王侯にとってもすべての人々にとっても、恵みと救済を与える唯一の源泉であると自認していたからです。宗教的権能と政治権力の間で作り上げられた利益の一致は、フランスやイギリスなどの諸国ではきわめて大きかったため、最高位の聖職者たちは、国事においても高位の公職に就き、ときとしては、宗教の活動にはあまり熱心でなくなるということもありました。
5  イスラム教にあっては、政治と宗教の制度がはるかに未分化で、法律そのものが宗教によって規定されていたため、宗教指導者は不可避的に政治に関わりました。しかし、イスラム圏では国家の形成がきわめて遅れたため、キリスト教圏であるヨーロッパに見られたような、宗教と国家の明確な結合にどうにか比較されうるものは、二十世紀にいたるまでは、オスマン帝国に見られただけでした。もっとも、この点については、ごく最近のリビアとアルジェリアのように、イスラム復興運動の強力な動きが国家形成を促進した例も見逃すべきではないでしょう。
6  われわれは、宗教を取り入れて、その機構を創り出した国々と、既存の宗教を受け継いだ国々との違いを認めなければならないでしょう。ローマ・カトリックは、初期のころから、世俗君主に対する宗教上の監督権を主張できました。ローマ教会は世俗権力による保護を常に要請していたとはいえ、その指導者たちは、教会が多くの国々で一目置かれる存在だということも常に承知していました。プロテスタント教会は、ある場合には、もっとずっと明確な国教となっていました。英国国教会もこれに含めてよいと思いますが、プロテスタント教会は、国家によって国教として設立された教会であり、その指導者たちは国家を教会とは別の機関として認め、国家としては、当然のこととして教会の世俗的な面を支配しました。この立場は、国教というものにきわめて説得力ある弁護を与えた英国国教会の神学者リチャード・フッカー(注3)によって、みごとに理論づけられました。
7  ピューリタニズムは、カルヴァンの場合はジュネーブで、クロムウェル(注4)の場合はイギリスで、そしてまたアメリカのニューイングランド諸州において、神のもとでの共和国という理想に(必ずしも実際にではないにせよ)暗黙裡に献身する国家を生み出しました。そこでは、聖書が市民政府の統治原理の源泉となり、ほとんどその模範とされました。しかし、プロテスタンティズムやピューリタニズムに見られる、こうした宗教と政治の結合にもかかわらず、長期的には、それはまさに社会の世俗化と、宗教独自の神聖さの喪失という結果を招いたのです。国教はますます消滅への方向をたどり、ときには宗教上の役職が政治的活動の報酬として利用されるなど、政治的陰謀によって腐敗したこともあり、また、官僚体制に隷属するといえるような立場に身を落としたこともありました。
 そのようになってしまった宗教が精神的なイニシアチブを取りうるなどとは、もはや考えられないことです。したがって、宗教の復興運動が起こるとき、それは概して国教会のリーダーシップに対する挑戦であり、ときにはそうした教会構造の外でしか展開できないといわれるのも、あながち的を射ていないことではないと思われます。
8  宗教運動が政治権力に頼るとき、堕落の危険性が大きいとされるあなたの結論を裏書きするような諸例が、キリスト教の場合、たしかに数多く見られます。プロテスタントを国教とする諸国では、非国教徒が反乱を起こす例が見られましたし、ローマ・カトリックの諸国においても、国家及びその政治指導者たちと宗教的権威との結びつきが、一般庶民の間に不信や意見の相違を生じたとき、教会の混乱が見受けられました。後者の例は、ラテン・アメリカ諸国に、じつに多く見られます。
 宗教と国家の結合に対しては、おそらく今日では、政治家たちはもはやそれを有用なものとみなさなくなっています。また聖職者たちのなかにも、国家と密着することは、それがなければ避けられたはずの反対を誘発することが、ときとしてありうることに気付き始めた人々がいます。
 ローマ・カトリック諸国やイスラム諸国ではまだ少数の例外が残っているとはいえ、これらを別にすれば、今日、信教の自由を脅かすものは、宗教よりも、むしろ(共産諸国の)世俗主義的なイデオロギーであることのほうが多く、さらに、さほど明瞭に現れてはいないにせよ、たぶん本質的に世俗的な国家自体の権力が伸長したことによる場合のほうが多いのです。ますます広範囲に市民生活に介入し、公共計画の合理的な基準に従って任務や施設を統合しようとする近代国家の傾向は、公認された国教の煽動によって生じるものよりも深刻な形で、個々の宗教集団の実践に影響を及ぼす可能性があります。
9  (注1)ルイ九世(一二一四年―七〇年)
 フランス王。内乱を鎮圧して王室直轄領を拡大し、第七次及び第八次十字軍を起こして失敗したが、諸侯の勢力を抑えた。第八次十字軍遠征の際カルタゴで病死、聖者に列せられた。法典の編纂、ソルボンヌ神学校(パリ大学)の創立に貢献。
 (注2)エドワード懺悔王(一〇〇四年―六六年)
 イングランド王(在位一〇四二年―六六年)。即位前に長くノルマンディーに滞在し、ノルマン人によるイングランド征服の因を作った。信仰心篤くウェストミンスター聖堂を建立、敬虔なため「懺悔者」の称号を付せられ、聖徒に列せられた。
 (注3)リチャード・フッカー(一五五四年―一六〇〇年)
 イギリスの神学者。英国国教会の神学の基礎を作った。
 (注4)クロムウェル(オリバー)
 (一五九九年―一六五八年)イギリスの軍人・政治家。ピューリタン(清教徒)。一六四二年、ピューリタン革命の際、議会軍を率いて王軍を破り、王を死刑に処して共和制を布き、その後、アイルランド、スコットランドを討ってイギリス諸島を平定、後に独裁政治を行った。

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