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キリスト教衰退の原因  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  キリスト教衰退の原因
 池田 今日、欧米でキリスト教が衰退しつつあるといっても、国によって、程度の差は随分あろうかと思います。そして、衰退をもたらした原因や、この傾向を推進しているものも、多種多様であろうと思います。
 しかし、少なくとも、各国とも共通してキリスト教衰退の傾向が見られるということは、そこに、何らかの共通する根本的原因があるといわざるをえません。
 その原因の一面としては、物質的豊かさに対する人々の関心が高まり、精神的欲求がそれと反比例して低くなったということもいえるでしょう。しかし、物質的豊かさの追求が、直ちに精神的なものへの関心の低下に結びつくとは考えられません。むしろ、東洋では、「衣食足りて礼節を知る」という諺があるように、物質的欲求が満たされてこそ、精神的なものへの関心が強まると考えられています。
 すなわち、物質的欲求が満たされる希望が高まり、その関心が強まることによって宗教的関心が低下してしまうとすれば、その宗教が、物質的貧しさによる悲惨さから目を背けさせ、観念の世界へ逃避させるものでしかないことを、物語っているのではないでしょうか。
 したがって、私は、キリスト教の衰退の原因は、キリスト教の教義や性格のもっている、もっと根底的なところに求められなければならないと考えます。
 この点について、教授は、どのようにごらんになっていますか。また、キリスト教が、将来、なんらかの形で、再び盛んになる可能性があると考えていらっしゃいますか。
2  ウィルソン キリスト教が――そしてキリスト教にかぎらず他の世界宗教が――多くの人々に魅力をもたれていたのは、主として現世の物質的な窮乏や人生の苦難に対する報いとして、精神的な褒賞(ことに来世に属する諸価値)を提供したためであった、と広く考えられています。
 貧しい人々は、来世には正当な褒賞がもたらされるという約束のもとに、道徳的に振る舞うよう、また自らの運命に満足するよう、そして信仰心ある生き方を深めるようにと、説得されていました。キリスト教における神義論は、この世での不公平は、あの世でそれ相応の褒賞を得ることで均衡が保たれるという、はっきりとした約束でした。終末観の図式は、精密な褒賞の体系を形成し、やがてきたるべき褒賞への思いが、現在体験している苦難の煩悶を和らげるものとなっていたのです。
3  池田 死後の幸せを約束しているという点では、仏教も例外ではありません。北伝仏教の中でも、広く民衆に信仰されてきた阿弥陀仏による救済の教えは、この死後の約束の典型といえます。しかし、仏教のすべてが、この阿弥陀仏信仰のように、死後のみの幸せを約束したものではありません。
 特に、私たちの信奉している法華経は、死後の幸せと同時に、現在の人生での幸せを教えています。現在の人生での幸せというと、目先の利得という印象を与えるかもしれませんが、法華経が教えているのは、もっと根本的な問題です。
 つまり、人間は、物質的欲望の充足を目指してさまざまな技術を生み出し、その技術を活用した活動に従事しているわけですが、欲望は、それ自体、かぎりなく肥大化していく傾向があり、そのため、真実の幸福感はかえって遠のいていくことになりかねません。大事なことは、人間としての尊い生き方とはどのようなものであり、そのために、自己の欲望や本能的衝動等をどのように抑制していくかを、一人一人が知り、身につけていくことです。そこにこそ、本当の意味での、この人生の幸せへの道を、確立することができるのではないでしょうか。
 法華経が教えている、現在の人生における幸せとは、こうした知恵を得ることによって達成されていくものです。そして、これを教える宗教は、人々の関心が死後の幸せというものから離れたとしても、決して存在意義を失うものではありません。むしろ、現代のような、人間が人間らしさを見失いがちな時代であればあるほど、そうした英知の火を灯していくことが必要になってくると思います。
4  ウィルソン おっしゃる通りです。もし、そうした褒賞への望みが、実際に、キリスト教の魅力の主たる源泉であったとすれば、西洋が最近の数世代で体験しているような、大多数の人々が物質的欠乏を解消するといった、より豊かな社会状況の展開は、たしかに宗教的価値の普及を大きく妨げるものであったかもしれません。
 目先の利得が重んじられるあまり、人々は現実のこの世でこそ、最高の体験が得られるのだと考えるようになったのかもしれません。事実、私たちの世論調査が一様に示すところによれば、西洋諸国民の間で、近年、来世を信じることが急速かつ広範に薄らいできている、という結果が出ています。しかも、これは、自ら特にキリスト教徒たることを自負し、キリスト教信仰の他の主要な教義は、そのほとんどを信じている人々にも、あてはまることなのです。これは私としては、むしろちょっと別な、独自の進展を物語るものではないかと考えていますが、キリスト教の教会もまた、まぎれもなく、ますます抽象的な概念に心を奪われつつあるようです。過去に唱えられたような、信仰の基本的教義の多くについての文字通りの真理が多くの聖職者たちによって主張されるということは、いまではあまりなくなっています。
 諸々の教派の信条に定式化されているような、信仰の中心的教義でさえ、いまや神学者たちから公然と否認され、多くの聖職者たちもこれに言及することはありません。ほんの百年ほど前には、当然異端とされた事柄も、現在では常識として受け入れられています。しかも、そこには、伝統的なキリスト教の基本的な要素も、いくつか含まれているのです。
5  この点においては、信仰を実践している多くの信徒のほうが、彼らに奉仕する聖職者よりも、はるかに素朴で字義通りの信仰を、まぎれもなく保っています。そして、これは私もまったく当然のことだと思うのですが、多くの人々は、これを失ったらキリスト教信仰が混迷してしまう、もしくはナンセンスなものとなってしまうと考えている、数え切れないほど多くの必要不可欠な要素が拒否されていることに、間違いなく困惑しているのです。
 聖職者たちは、礼拝式における伝統的な役割をしばしば捨て去り、また、一般信徒の多くがまだ大いに愛着を感じている教会の諸々の伝統に、ますます関心を示さなくなっています。このため、彼ら聖職者たちは、通常は自らの意志に反して、また、たとえ自分ではそんなことをしているつもりがなくとも、何となく教区民たちから懸け離れた存在になっているのです。
 キリスト教の全般的な衰退は、私の信じるところでは、キリスト教の信仰内容と儀礼が、明らかにテクノロジー時代に適合しないことから生じています。基本的には、現代社会はますます合理的に組織されてきており、その合理性は、テクノロジーと官僚制の発達の中に、はっきりと示されています。
6  人間はますます、あたかも良く調整された機械の部品のように配置されるようになってきています。また、人々が自分たちの関心事を遂行する際には、たいていは、少なくとも国民国家レベルで「全体社会的に(注1)」組織化された機関に、またときには事実上国際的な制度や経済関係に、関わり合うことになるのです。このような構造が機能しているのは、キリスト教の宗教的な特殊性をまったく超えた論理によってであり、さらに、キリスト教の道徳律はたんに個人的なもの、その関心が偏狭なもの、現代の諸機関の非個人的な性格からすれば取るに足らないもの、と思わせるような規準に従ってのことなのです。
 キリスト教特有の信念は、それが初めて説かれた時代に固有のものであった、もしくはその後、何世紀にもわたって比較的最近まで残存していたような、今日よりもはるかに共同体を基盤とした社会秩序に適するものであった、ということがますます感じられています。
 現代の社会組織は超自然的なものを顧みることなしに動いていますから、宗教は、ますます社会の片隅へ、個人の私生活における余暇時間へと追いやられ、そのため社会の組織それ自体にとっては、重要な位置を占めるものではなくなっています。かつては、キリスト教の慣用語が人生万般にわたる活動の主な指針となっていたのが、いまでは、公共生活のあらゆる主要な分野――経済、政治、訴訟、教育、福祉、レクリエーションなど――が、すべてそれとは無関係に機能しているのです。
 その結果、西洋人がまだ宗教を持つ余地のある私生活の領域においてさえ、キリスト教の教説特有の要素が個人の経験と合致することは、少なくなっています。そして、キリスト教の倫理は、人間対人間の関係という、いまでは縮小されてしまった領域の倫理に、ますます限定されつつあるようです。
7  キリスト教の神話は、具体的、個人的、局地的という特殊性の故に、今日では、かつてほどの適応性がなくなっています。それは、キリスト教神話が縮図的に示す諸々の関係が、いまではほとんどの人々にとって、決して特別な社会的体験ではなくなっており、さらに、おそらくは最も支配的な社会的体験ですらなくなっているからです。これらの神話について、現代の神学者や聖職者の間に確信のなさが見られ、そのため、こうした神話が、私生活の模範としていまだに辛うじて保っているかもしれない魅力さえもが、そうした専門家自体の懐疑主義によって、一層薄められているのです。
 西洋における世俗化の過程には、さまざまな原因があるようですが、私個人としては、その多くは、キリスト教という宗教と、この数十年来、西欧諸国で機能している合理的・技術的な社会秩序とが、適合しなかったことによると思うのです。
8  (注1)「全体社会的に」(societally)
 ここでいう「全体社会的」とは、社会全体に特有の特質、社会全体と共存している特質のことを指し、社会内の一部のグループや少数グループがもつ特質とは、はっきり区別されるもの。

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