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日蓮大聖人・池田大作

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セクト間の分裂と憎悪  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  ウィルソン 宗教上の分裂は、実際、通例として激しい敵意がその特徴をなしています。ご指摘のように、同一宗派の分裂によって生じた憎しみは、たがいに何ら共通性をもたない二つのまったく異なる宗教同士が感ずるよりも、強烈なものがあります。しかもこれは、対立反目する分派同士が、一、二の特定の項目を除いて、ほとんどすべての点で表面上は合意できたという場合でも、いえることです。
 そうした特定の相違点は、往々にして極端に些細な事柄に関するものなのです。たとえば、宗教の拝礼に楽器を使うのが正しいかどうかとか、キリスト教徒が聖餐式で用い(注1)る容器の数は一つを全員が使うべきか、各人が一つずつ使うべきかとか、キリストの血の象徴としての飲み物は発酵ワインであるべきか、非アルコール性であるべきか――といった類いの事柄です。
 そうした憎悪が明らかに激しいものとなるのは、分裂が生じたときの当事者たちが、たがいに相手方を自分たちが判断を下す際の重要なレファレンス・グループ(準拠集団)とみなしているためです。たとえばキリスト教の宗派にとっては、イスラム教徒の行うことはたいした意味をもつことはありません。これは、イスラム教徒が彼らからあまりに懸け離れた「別世界の存在」であるため、注目に値しないからです。
3  ところが、他のグループのキリスト教徒の行うこととなると、彼らにとってより身近な関心事となります。なかんずく、つい最近まで自分たちの信仰上の仲間だった人々の動向は最大の関心事となり、何かといえば、彼らのやることなすことがすぐに引き合いに出されます。ついこのあいだまで自分たちと一緒に親しく宗教的儀式を行ってきた人々が、いまや別なことをやっているということが、激情を掻き立て、裏切られたという感情を引き起こすのです。
 これに付け加えなければならないのは、人間の強い前向きの感情は、後ろ向きの感情に変質しやすいという、より一般的な事実です。愛情・温情・友情といった感情は、たんに中立的な感情に変質するよりも、むしろ敵意・憎悪・嫌悪感情へと変質しやすいものです。ある人々に対する自分の感情が中立の域を出ないという場合には、愛や憎悪は、さほど容易には掻き立てられないものです。ところが、愛情の対象であった人々に対しては、突然に背かれると、ただちに正反対の強い感情が生じます。
 一つのセクト内の緊張が、当事者すべての強い関心を集めるようになると、その最終的な帰結として、必ず強度の感情が掻き立てられます。分裂が全面的に回避された場合には、蘇った強い愛情が、そして、分裂が生じた場合には、強烈な敵愾心が生じるのです。数あるキリスト教の諸例の中で、ごく普通に見られるのは、まず教義上の誤りが非難され、それに続いて、分裂が生じるまでは「愛する兄弟たち」として包容されてきた人々の生活態度や、真剣さの不足や、さらには彼らの不品行までもが非難され、これらが複合されていくということです。
4  (注1)聖餐式
 洗礼式と並んで重視されるプロテスタントの基本の儀式。キリストがはりつけになる前夜の最後の晩さんを記念し、キリストの身体と血を象徴するパンとぶどう酒を会衆に分け与える。カトリックでは聖体拝領とよぶ。

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