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日蓮大聖人・池田大作

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愛と葛藤  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  それに比べて、キリスト教の場合は、愛をその主要な精神として説くにもかかわらず、激しい暴力的抗争を重ねてきました。もちろん、現実には、世俗権力同士の抗争が絡んでいるわけですが、それにしても、なに故にキリスト教の“愛”は、離反した人々の相互理解の力となりえないのか。そこに根本的な“愛”の限界が感じられるのですが、これについて、教授はどうお考えでしょうか。具体的に離別しかかったセクトの芽が、愛や“対話”や“相互理解”によって、もとのさやに納まった事例はあるのでしょうか。
3  ウィルソン おっしゃる通り、キリスト教の歴史は、創始者が「(攻撃されても)報復してはならない」とはっきり命じているにもかかわらず、平和的というには程遠いものでした。
 ローマ教会は、戦争のつど決まってその戦争を正当化するために頼りにされてきました。それは、十字軍のように、明らかにキリスト教の権益のためという場合もありました。しかし、多くはそれよりも世俗権力側の、自らの大義名分に宗教上の裏付けがほしい、ないしは少なくとも教会の保証を得たいという願望に梃入れするためだったのです。世俗君主の正統性を認めるために広く行われていた教会への援助懇願、教会自体が世俗的な権力を蓄積したこと、そしてローマ教会が、時折、独自の権限をもつ世俗的公国として行動したこと――これらはすべて、教会がどこまでキリスト教徒間の戦争や世俗的紛争に関わっていたかを、ある程度説明づけるものです。もちろん、ローマ教会としては、そうした軍事上の関与にはヤハウェ神の役割に由来する古来の先例がある、と主張するかもしれません。『旧約聖書』では、神ヤハウェは、決まってユダヤ民族の戦闘努力を助ける民族神として描かれているのですから――。
4  キリスト教史上、戦争に携わったキリスト教徒は、古今を問わずひんぱんに神の力を求めてきました。ことに第一次世界大戦では、敵も味方も、神を祈願の対象としていました。ドイツ兵のベルトのバックルには「神はわれらと共に」のスローガンがついていましたし、多数のイギリス兵――それに何人かの司祭――は、モンズの戦い(注4)で天使の軍勢が天空に現れ、連合国軍を励ましたと信じていました。これらは、キリスト教が巻き添えを食った世俗的戦争の例です。しかし、宗教が他のいかなる動機を覆い隠すのに役立ったにせよ、戦争の中には――ドイツの三十年戦争のように――はっきりと宗教の名のもとに戦われたものもあるのです。
 結局、このような歴史は、愛の福音が人々の愛以外への関心を効果的に制御・規制することができなかったこと、ましてや、彼らに暴力を思い止まらせることなどとてもできなかったことを、強く告発しているようなものです。
5  自らの教会共同体の境界内においても、キリスト教徒同士は、明確に宗教的な事柄を巡って紛争を繰り返してきました。そうした折に、愛の提唱が功を奏さなかったことは疑いありません。その理由は、一つには、ローマ教会が念入りな位階制、職務に付随する特権、儀礼の諸様式、明らかに封建的な地位上の差異の明示等を着実に蓄積させたことによって、元来のキリスト教の教えの平明さに翳りがさし、単純な兄弟愛の勧告とはほとんど無関係な、俗臭、華美、古めかしい特権等々の、人為的な雰囲気が生み出されたということです。
 簡素に立ち戻ろうという試みは繰り返し行われましたが、次々と失敗に帰し、制度尊重主義の進行は、動脈硬化の進行過程のように、キリスト教徒の信仰生活における一種の不治の病となったのです。素朴な諸価値を改めて主張しようとする試みは、もちろんそのつど緊張をはらんで、しばしば衝突を、それもたいていは激しい衝突を、引き起こしました。これは、たとえば初期ベネディクト会(注5)の修道士たちや聖フランチェスコ会(注6)の最初の弟子たちに代表されるような改革運動が、ローマ教会内の出来事に止まった場合にすらあったことです。
6  ローマ教会の執務者たちが、幾世代にもわたって権力に深く心を奪われ、ときには完全に取り憑かれていたことは疑いありません。宗教改革に象徴される教会権力構造の破綻は、ローマ教会の勢力に対する初めての重要な突破口であり、これは、宗教的権力それ自体が漸次衰退したこと、そして同時に、宗教の働きによる世俗権力への影響力が減少したことを告げるものでした。異端審問制度のもとで行われた抑圧策を引き起こしたのも、宗教的権力と政治的権力をともに失うことへの恐れだったわけですが、カトリックの決疑論者は、(注7)自分たちの活動を、教会とその教義に反対する人々の魂に対する、純粋な愛と憂慮に動機づけられた行動であると主張して恥じるところがありませんでした。
 キリスト教は、いうまでもなく排他主義的な宗教です。ごく初期の時代以来、たんに異なった信仰がたがいに相手を対等に遇するというだけのことに関しても、それを許容するだけの用意がなかったのです。キリスト教は、真理を、完全に、絶対的に、しかも自宗のみが独占していると主張しています。この主張は、今日でこそ必ずしも以前ほどやかましくはされなくなったものの、いまなお暗黙裡に教会のすべての存在理由の中に含まれているのです。
7  このため、分離や異端はことさらに有害な現象であり、それは、神聖さと絶対的真理を保有するという教会の主張の正当性を論駁するものであって、ある形の際立って悪魔的な反逆であると見られてきました。こうした考えによって生み出された不寛容は、最も極端な手段さえも正当化しました。それらの手段には拷問、投獄、死刑などが含まれており、これらが、教会の権威にあえて異議を唱える者に対して、あるいは公式に認定された教会の真理と少しでも異なった考えを表明する者に対して、さらには、たとえ公認の真理を表明したとしても、それを教会が認可した人物以外の賛助によって行った者に対してすら、科せられたのでした。聖職者による独占への要求があまりにも強かったので、聖職者の領域内にある任務を、その権利を認められていない人々が引き受けたというだけで、それは冒涜となりえたのです。たとえ、そうした行為が一般信徒によってなされ本質的には非合法でないという場合であっても、それは神聖を汚すこととされたのです。
 このように現実面において不寛容であったため、それをもって精神上の普遍的博愛と調和させることは困難であり、こうした教会は、その一般に認められた教義に織り込まれている愛の勧告によるよりも、むしろ教会独自の特権と機能の独占権に対する主張によって、動かされることが多かったのです。ある歴史家がキリスト教の発展について述べたように、それはまさしく“愛(love)”から“律法(law)”への着実な発展でした。すなわち、教会法に基づく律法尊重主義が、ついには愛の働きを排除してしまったのです。
8  プロテスタントの改革者たちは、宗教的な事柄について、より寛容であるべきことを宣言し、ローマ教会の権威と律法尊重主義を打破しました。しかし、彼らも、真理の独占を主張する点においては、同様の傾向を引き継いでいました。そしてときにはプロテスタント教徒もまた、そうしたケースははるかに少なかったとはいえ、カトリック教徒のそれを真似た報復行為を犯すことがあったのです。公平な目で見れば、カトリックの場合でも、プロテスタントの場合でも、異端とか、いわゆる冒涜とか、宗派分立とかに対して刑を科したのは、通例は、世俗権力であったといわなければなりません。
 しかしまた同時に、この両方の教会はいずれも、自分たちが宗教上の敵と考える人たちに対して国家が加えた刑罰は、まったく神意に適ったものと解していました。これは、そうした敵がカトリック教徒にとってのカタリ派(注8)信徒やマラーノ(注9)であっても、プロテスタント教徒にとってのクエーカー教徒やイエズス会(注10)士であっても、もしくはたんに妖術を行っているとして訴えられた人々であっても、変わりのないことでした。
9  しかしながら、一般にプロテスタントにあっては、宗派分立者を徹底的に抑圧しようという気持ちはカトリックほど強くなく、また、異端の概念もさほど厳格には解釈されませんでした。いくつかのプロテスタント国家は、十七世紀末には、宗教的な事柄に比較的寛大であることで知られるようになりました。(プロテスタント諸宗派のうち)最大の非難を浴びがちだったのは、キリスト教からあらゆる司祭中心的な要素を排除すべきことを要求したセクトや、信仰上の神聖な行為を行ううえでは俗信徒も司祭と同等の資格があることを宣言したセクトでした。
 教会からの分離が回避されたケースも、もちろんいくつかあります。フランチェスコ会は、忍耐の勧告が行き渡っていなかったなら、その歴史の初期のころに、すでにローマ教会から容易に分離していたかもしれません。もっと最近では、異なる諸宗派が、それぞれに異なる限られた使命をもちながら、完全な統一ではないにしても、少なくとも共生の形で機能しうるということを、ときには認め合うようになってきました。こうした認識のケースは、すでにメノー派(注11)とペンテコステ派ほどかけ離れたセクト同士の間でさえ、少なくとも伝道区域においては存在しています。
10  メソジスト派の英国国教会からの分離は、とても友好的などとは呼べないものでしたが、ほんの偶発的な暴力沙汰があっただけで、上位の教会権力によって敵意を煽られることもなしにすみました。かつて英国国教会の一部になる可能性もあった救世軍は、英国国教会の幹部と真剣な会談を行った後、独立した運動として、独自の道を歩みました。こうした会談は、たしかに一連の対話方式によるものでした。
 英国国教会内には、かなり異なるいくつかのグループがあり、それらは教義や典礼の実施に、根強い、そしてある面では広範囲に及ぶ相違があるにもかかわらず、なんとか同じ宗派内に留まっています。しかし、おそらく彼らは、本質的に宗教的な友愛の絆によってよりも、国家的制度への献身によって結ばれているのです。
 しかし、キリスト教における分裂の記録は、あなたが示唆されたように、全般的に見て、愛が凱歌をあげたといえるようなものではとてもありません。
11  池田 いまのお話をうかがっていまして、私は、同じキリスト教でも、エジプトのアレクサンドリアに西紀後二~三世紀ごろ現れたクレメンス(注12)やオリゲネス(注13)のキリスト教に、より関心を覚えるものです。もちろん、彼らの教説は異端として禁圧されてしまい、西洋人の心の中に入っていけませんでした。
 しかし、その包容主義というか、寛容性は、キリスト教の中でも特異なものであるとともに、今日においてこそ再発見されるべき価値あるものと、私は考えております。聞くところによりますと、クレメンスは、神的なロゴス(理法)はキリスト教徒にのみ働くのではなく、ギリシャ人やインド人等の異教徒のうえにも存在し、働くものである、と説いたそうです。
 この考え方は、仏教のダルマ(法)の思想に近づいています。仏教のダルマは、宇宙の存在すべてを普遍的に貫いている真理を指しており、そこから、民族のいかんを問わず、宗教・哲学のいかんを問わず、すべての人のもとに在り、働いている絶対的真理であるとしております。
 天なる神という人格的な存在に絶対的な真理が帰属するという宗教よりも、普遍的な理法が万物の根底を貫き、働いているとする宗教のほうが、寛容にして平和的な宗教であると思われます。
12  ウィルソン いうまでもなく、こうした事柄に関しては、キリスト教徒は自分の仕掛けたわなにかかっているようなものなのです。キリスト教は、哲学者たちの働きによってすべてをキリスト教的な知的真理に賭けるようになり、そのため、それよりも魅力ある思想が現れても、またはあなたがいまおっしゃったような、より一層平和と調和に貢献しうる思想が現れても、正統教会によってひとたび真理と信じられた命題が捨て去られることは、ありえなかったのです。
 もとよりキリスト教徒も、善と真理はたがいに近寄らなければならないと信じてはいますが(ただし、彼らは私とは違う信じ方で信じていますが)、また同時に彼らは、明らかに魅力的で、実際的で、人間味があり、有益であるような諸々の提案に対しては、それらは悪魔による誘惑的なたぶらかしにすぎないとして、常に警戒してきたのです。
13  (注1)上座部紀元前四世紀ごろ(釈尊滅後百年余)、摩訶提婆という比丘が五つの教義を唱えたのを契機として、これを認める大衆部とそれを排斥する上座部と大きく二つに分裂した。上座部は、保守的で経律を重んじる戒律中心的な小乗教団で、後に分裂を重ねて小乗教の十一部を形成した。
 (注2)大衆部右の根本分裂で生じた進歩的、自由主義的な小乗仏教の代表的教派。後に九部に分派した。中インドから南インドに多く流布し、アフガン地方にも及んだ。大乗仏教的な色彩が強く、大乗の成立に関与したとされる。
 (注3)部派仏教上記の根本分裂の後、上座部と大衆部は数百年の間に合わせて二十派となった。これらの諸派を総称して部派仏教と呼ぶ。大乗仏教の立場からはすべて小乗として批判された。現在の南方仏教は部派仏教の流れを汲む。
 (注4)モンズの戦いベルギーのモンズ市(人口約二万二千人)を中心とした地方では、第一次世界大戦で最も血なまぐさい激戦の一つが繰り広げられた。
 (注5)ベネディクト会ローマ・カトリックの優秀な修道士を集めて、六世紀に改革的な運営規則のもとに創設された修道会で、今日も存続している。修道士の主な活動はミサ、祈祷、霊的読書等で、その会則は、西欧の修道院制の根本的な範となり、西洋文化の形成にきわめて大きな影響を与えた。
 (注6)聖フランチェスコ会十三世紀にアッシジの聖フランシスによって創設されたローマ・カトリックの托鉢修道士会。清貧に甘んじ、自活を営み托鉢を旨とした。最初の百年間にしばしば生活様式の厳格度に関する論争によって分裂し、十四世紀初めにフラティチェリ派として知られる、より一層の厳格さを主張する一派が分離した。
 (注7)決疑論者決疑論とは、倫理上・宗教上の一般的な原則を特殊なケースに関連づけて適用する技術をいい、このような方法を用いる人々を決疑論者という。七世紀にはローマ教会において決疑論が正式に承認された。決疑論者の勢力拡大を重視したイエズス会では対抗手段としてそのための必携書を作り、その後の教会内における特定の行動や判断の正当化のために使用した。
 (注8)カタリ派アルビ派とも称される。十一世紀にフランス(特に南仏のアルビ地方)、ドイツ、イタリアに広まったキリスト教の異端的一派。物質や肉体を本質的に邪悪なものと見る二元論的哲学を立て、キリストが肉体をもって存在したことを否定し、他の多くのローマ・カトリックの教義を否定した。このためローマ教会から敵視され、武力による攻撃や宗教裁判などの迫害を受けた。
 (注9)マラーノ中世のスペインやポルトガルで、カトリック教会の迫害を逃れるためにキリスト教化したユダヤ人とその子孫をいう。スペイン語でブタを意味する語マラーノが、軽蔑的に彼らに付けられた。彼らは秘密裡にユダヤ教徒であり続けたとの嫌疑をかけられ、カトリック教会では特に十五世紀から十六世紀にかけて彼らを盛んに宗教裁判にかけた。
 (注10)イエズス会十六世紀中ごろに創設されたローマ・カトリック教会の修道会。創立者はイグナチウス・ロヨラ。戦闘的布教を主要な任務とし、教皇の命令を絶対として服従する。にもかかわらず、同会は十八世紀に多くの国々で追放の憂き目に遭い、さらに教皇(クレメンス十四世)の権威により四十年間にわたって圧迫を受けた。政治的駆け引きのうまさと矛盾を正当化する能力に長けていることで知られる。
 (注11)メノー派
 オランダの元司祭メノー・シモンズ(一四九六年―一五六一年)を指導者とする信徒集団。シモンズは成人にのみ洗礼を施すべきことを主張した。この派は平和主義的で、しばしば信教の自由を求めて移民をし、現在ではいくつかの教団に分派して主として北米に存在している。
 (注12)クレメンス
 (一五〇年―二一五年)アテナイの生まれで、両親は異教徒だがキリスト教に改宗し、アレクサンドリアの伝道師学校長パンタイノスの教えを受け、その後継者となった。後にエルサレムに行き司教となる。彼の根本的態度は使徒的・伝道師的であり、説き方も入門的、弁護的で、なかんずく倫理的であった。
 (注13)オリゲネス
 (一八五年―二五四年)クレメンスの弟子。エジプトに生まれ、クレメンスに次いでアレクサンドリアの教義学校の巨頭となった。新プラトン主義の立場から、理性を尊び、キリスト教教義の確立に努力した。

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