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日蓮大聖人・池田大作

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愛と葛藤  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
13  (注1)上座部紀元前四世紀ごろ(釈尊滅後百年余)、摩訶提婆という比丘が五つの教義を唱えたのを契機として、これを認める大衆部とそれを排斥する上座部と大きく二つに分裂した。上座部は、保守的で経律を重んじる戒律中心的な小乗教団で、後に分裂を重ねて小乗教の十一部を形成した。
 (注2)大衆部右の根本分裂で生じた進歩的、自由主義的な小乗仏教の代表的教派。後に九部に分派した。中インドから南インドに多く流布し、アフガン地方にも及んだ。大乗仏教的な色彩が強く、大乗の成立に関与したとされる。
 (注3)部派仏教上記の根本分裂の後、上座部と大衆部は数百年の間に合わせて二十派となった。これらの諸派を総称して部派仏教と呼ぶ。大乗仏教の立場からはすべて小乗として批判された。現在の南方仏教は部派仏教の流れを汲む。
 (注4)モンズの戦いベルギーのモンズ市(人口約二万二千人)を中心とした地方では、第一次世界大戦で最も血なまぐさい激戦の一つが繰り広げられた。
 (注5)ベネディクト会ローマ・カトリックの優秀な修道士を集めて、六世紀に改革的な運営規則のもとに創設された修道会で、今日も存続している。修道士の主な活動はミサ、祈祷、霊的読書等で、その会則は、西欧の修道院制の根本的な範となり、西洋文化の形成にきわめて大きな影響を与えた。
 (注6)聖フランチェスコ会十三世紀にアッシジの聖フランシスによって創設されたローマ・カトリックの托鉢修道士会。清貧に甘んじ、自活を営み托鉢を旨とした。最初の百年間にしばしば生活様式の厳格度に関する論争によって分裂し、十四世紀初めにフラティチェリ派として知られる、より一層の厳格さを主張する一派が分離した。
 (注7)決疑論者決疑論とは、倫理上・宗教上の一般的な原則を特殊なケースに関連づけて適用する技術をいい、このような方法を用いる人々を決疑論者という。七世紀にはローマ教会において決疑論が正式に承認された。決疑論者の勢力拡大を重視したイエズス会では対抗手段としてそのための必携書を作り、その後の教会内における特定の行動や判断の正当化のために使用した。
 (注8)カタリ派アルビ派とも称される。十一世紀にフランス(特に南仏のアルビ地方)、ドイツ、イタリアに広まったキリスト教の異端的一派。物質や肉体を本質的に邪悪なものと見る二元論的哲学を立て、キリストが肉体をもって存在したことを否定し、他の多くのローマ・カトリックの教義を否定した。このためローマ教会から敵視され、武力による攻撃や宗教裁判などの迫害を受けた。
 (注9)マラーノ中世のスペインやポルトガルで、カトリック教会の迫害を逃れるためにキリスト教化したユダヤ人とその子孫をいう。スペイン語でブタを意味する語マラーノが、軽蔑的に彼らに付けられた。彼らは秘密裡にユダヤ教徒であり続けたとの嫌疑をかけられ、カトリック教会では特に十五世紀から十六世紀にかけて彼らを盛んに宗教裁判にかけた。
 (注10)イエズス会十六世紀中ごろに創設されたローマ・カトリック教会の修道会。創立者はイグナチウス・ロヨラ。戦闘的布教を主要な任務とし、教皇の命令を絶対として服従する。にもかかわらず、同会は十八世紀に多くの国々で追放の憂き目に遭い、さらに教皇(クレメンス十四世)の権威により四十年間にわたって圧迫を受けた。政治的駆け引きのうまさと矛盾を正当化する能力に長けていることで知られる。
 (注11)メノー派
 オランダの元司祭メノー・シモンズ(一四九六年―一五六一年)を指導者とする信徒集団。シモンズは成人にのみ洗礼を施すべきことを主張した。この派は平和主義的で、しばしば信教の自由を求めて移民をし、現在ではいくつかの教団に分派して主として北米に存在している。
 (注12)クレメンス
 (一五〇年―二一五年)アテナイの生まれで、両親は異教徒だがキリスト教に改宗し、アレクサンドリアの伝道師学校長パンタイノスの教えを受け、その後継者となった。後にエルサレムに行き司教となる。彼の根本的態度は使徒的・伝道師的であり、説き方も入門的、弁護的で、なかんずく倫理的であった。
 (注13)オリゲネス
 (一八五年―二五四年)クレメンスの弟子。エジプトに生まれ、クレメンスに次いでアレクサンドリアの教義学校の巨頭となった。新プラトン主義の立場から、理性を尊び、キリスト教教義の確立に努力した。

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