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カリスマ性について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  カリスマ性について
 池田 人間には、ある特定の人物が超越的な力をもっていると信じ、その指導に自己を委ねたいという願望もありますが、逆に、人間は皆、平等であり、そうした特定の人物を認め、しかも、その指導に全面的に従うことは、人間の尊厳に対する否定であり、民主主義にとって脅威であるとする、恐れに似た感情もあります。
 社会にあって、人を指導者となしうる特別な資質が、いったいどういったものかといった事柄は非常に定義しにくいし、その時代の社会背景や社会的要求におそらく非常に左右されるでしょう。
 仏教においては、法を根本とする立場をとるとともに、仏教徒は釈迦牟尼を、この宇宙と人間を貫く法を悟った“覚者”として尊敬し、偉大なる師として尊崇してきました。その意味においては、釈迦牟尼は、今日、カリスマ性(注1)としてしばしば言及される特性をもっていたといってもよいかもしれません。しかし、同時に仏教では、すべての人が仏になりうるとする考え方に立ちます。釈迦牟尼自身、自分を特別視することを弟子たちに戒めました。したがって、仏教では、正しい実践によって各自の自発性・能動性が発現されるよう人々を導くことに、その目的があったわけです。
2  一方において、カリスマは、一般的に、忠誠心を勝ち取るのに十分な魅力と特徴をもつ人物の倫理的価値とは、必ずしも関係しない点があります。
 たとえばアドルフ・ヒトラーは、ドイツ人を不幸の方向に魅惑させるのに十分な強いカリスマ性をもっていました。人間は、信頼できる力強い指導者を待ち望む傾向があります。しかし、指導者たちは、ヒトラーの場合でわかるように、そのカリスマ性にもかかわらず、必ずしもその望みに足るものではありません。
 現代のような時代にあっては、こうしたカリスマ化の傾向は全般的には弱いものの、特殊な場合、起こることもありえます。
 そこで、教授に、リーダーシップと特別な関係にあるカリスマ性の本質と原因について、また、人類が選択すべき指導者の資質について、是非とも御意見を伺えれば幸いです。
3  ウィルソン カリスマという言葉が強い意味で用いられる場合、それは、ある人物が、独特の超自然的な資質の持ち主だと自称する(あるいはその人物についてそうした主張がなされてきた)ことを、暗に意味します(その点、ジャーナリストは、異彩を放つ個性をもった人物がいれば、およそ誰にでもこの言葉を当てはめますが、これはいくらか質を落とす使い方です)。
 誰かにカリスマ性があるとみなすことは、もちろん、ある意味では社会的な行為です。というのは、際立った個性をもつ人物がいて、彼を信奉する人々が実際に現れた時に、初めて彼にカリスマ性があるということが適切にいえるからです。それ以外は、たとえ自分では超自然的な力をもっていると主張しても、誰もそれを認めないかぎり、その人は狂人としかみなされません。
 カリスマとは、ある指導者に対して、その信奉者たちが付す特質のことです。彼らがその人物の神性、もしくは超自然的な霊感を進んで信じようとする気持ちが「カリスマ的指導者」という呼び方を正当化するのです。ときには、人々が、部外者の目には何ら顕著なところがないとしか映らない男性もしくは女性に、そのような力があると信じ込むようになったケースもあります。また、そのような力があると信じられ、熱烈な信奉を勝ち取ったのが、子供であったり、精神薄弱者であったり、ペテン師であったりした、という実例もあります。
 一人の人間へのこのような信奉は、人々が、誰かきわめて非凡な人物による以外に、自分たちの抱える諸問題をどうしたら解決できるのか判断し難いと考えるような、精神状態を反映しています。諸条件が苛酷であったり、損失や災害や精神的ショックなどを経験することによって、社会全体の人々が、一人の力ある人間の意志の働きによる以外に世直しの道はないという考え方に、飛びつくことがありうるわけです。
4  こうした絶望的な状態が、カリスマの起源なのです。人々が、自分たちの抱える問題について他に何の解決策も見出しえないとき、そこにカリスマが要請される一つの条件が生じるのです。彼らは、さまざまな事態が起こるのは「意志の力による」のであるから、より強い意志をもつ人間、もしくは神だけが、正常な状態を回復しうるのだと信じます。このような考え方は、明らかに原始的なものですが、私は、この中にカリスマ的指導性の生じる根源があると考えています。
 今日では、先進社会のほとんどの人々は、カリスマの概念を信じていません。時代の趨勢に合わないからです。合理的な技術や科学技術的な装置への依存が増大しているような社会体制にあっては(しかも、科学技術自体がまさに合理性のカプセル化なのですが)、どこかの、霊感を得た個人の、たまたま身についた才能に頼るという考えは、人々にとってまったく異質のものなのです。
 しかし、同時に、今日では人々が――おそらくカリスマ的指導性をまったく信用していない当の本人たちまでが――官僚主義的な権威について不服を唱えることも珍しいことではありません。しかも、官僚主義(この用語を、私は、ここではまったく中立的な意味で使っています)は、今日では、合法的な権力が行使されるための、基本的な形態なのです。
5  しばしば耳にすることですが、人々が「子供のころにいたような、偉大な指導者は、いまはもういないのだろうか」と言うとき、それは、絶対に信頼できる父親というイメージに対しての、根深い人間の欲求の発露なのです。また、「現代の政治家たちは、かつて政治の舞台に登場した多くの巨人たちに比べると、まるで小人だ」というのも、よく聞く話です。
 このことから、人々は心の底ではカリスマ的なものを渇望しながらも、もはやそれを信じられなくなっていることが分かります。つまり、彼らはもはや、人並外れた資質というその概念を、彼らの指導者たちに付与することができないのです。人々は、合理的な手順に頼るようになっています。また彼らは、いかなる人間も、現代の技術システムの複雑性に対比される時、能力の点でも、知識の点でも、万能性という点でも、われわれのもつコンピューターやデータ回収システムや電子装置に、はるかに及ばないことを知っています。
 実際、現代という時代がわれわれに教えていることは、「あまりに多くが知られていると、一人の人間が多くを知ることはできない」ということです。かくして、人間のもつ科学技術システムは、すべての人間像を矮小化させているのです。
6  池田 複雑化した技術体系が、人間や集団のリーダーを矮小化するということは、その通りであると思います。しかし、また、他の要因も考えられるのではないでしょうか。卓越した指導者は、環境によって引き出されるという場合が多いものです。
 外からの脅威から国内の人々の安全を保障できる強力な指導者を必要とする場合。また、内部の混乱に対し、相争う状態を調停し、秩序を打ち立てる指導者を必要とする場合。この二つの理由条件は、強力な指導者を人間社会の中で生み出してきた主要な点であったといえます。
 第一の外敵という意味では、同じ人間同士でありながら、小は部族から大は多数の民族が連合してつくった超大国にいたるまで、集団をつくって、激しい闘争を繰り返してきました。
 有史以来、今日にいたるまで人間の歴史は、ある面では、まさに戦争の連続であったといってもよいかもしれません。そこから、必然的に、集団社会を強力に統率するリーダーが求められましたし、そうした状況の故に、人々はリーダーに権限を付与したわけです。しかし、今世紀前半におけるファシズム国家のカリスマ的指導者が、第二次世界大戦という悲劇を引き起こし、その結果として、現代人は、カリスマへの決定的不信感をもつにいたったのです。
7  現代においては、第二次世界大戦終了以来、世界は、概括的には、平和な状態とはいえなかったとしても、過去の偉大な指導者が活躍した主要勢力間においては、表立った戦闘行為はなくなっています。その意味において外からの脅威に対して安全を保障するために、リーダーが並外れた手腕を求められるということが、少なくなっています。しかも、大衆民主主義のもつ一面として、リーダーとしての資質よりも、人気が、大衆から選ばれる最大の要因となってきています。
 しかしながら、卓越した指導者をさほど必要としないもっと大きな原因は、立法・行政ともに、合理的で恒常的な、整備された機構が打ち立てられていることでしょう。このような機構が出来上がってしまいますと、リーダーが卓越しており、強い意志をもっていることは、むしろ逆に、好ましくないと受け止められます。
 この、国内の立法・行政機構の整備は、リーダーが求められる第二の理由、つまり内部の秩序の維持という点でも、優れたリーダーを必要としないという結果をもたらします。教授が挙げられた「子供のころにいたような、偉大な指導者は、いまはもういないのだろうか」という懐古は、教授が言われるように、現代人が心の底ではカリスマ性を渇望しながら、もはやそれを信じられなくなっていることの表れであるとともに、そうした時代状況の変化から、そのようなリーダーが実際にいなくなっていることでもあると私は考えます。
 以上のような政治的指導者のあり方の変化に止まらず、現代においては、それよりずっとカリスマ的指導者が出やすい宗教組織においても、一人の資質の優れた指導者よりも、集団的指導体制や合理的機構に依存する傾向が、強まっています。
8  ウィルソン その通りです。カリスマ的なものに対する、そうした現代人の不信は十分に理解できるものですが、しかし、だからといって、それは、ある特定の分野で名をなす人々に特別の尊敬を払ってはならない、という理由にはならないように思われます。非常に優れた資質、偉大な美徳、抜きんでた知恵や技能などが、すべて個人によって達成されうることを認めたからといって、それが直ちにカリスマを意味すると決めてかかる必要はないでしょう。それに、私には、人間に具わる資格の異なり、人間の真価に対するさまざまな認識、職務や業績のそれぞれ異なる尊さなどを認め、支持することは、人間関係にとっても必要なことであるように思われます。
 個人個人の差異があるにもかかわらず、あまりに徹底した平等が要求されると、民主主義は、現実の世界に沿わない仮説につけこんだ、一つの戯画になってしまいます。こうした業績や個人差が認められないとしたら、また、資格の違いが維持されないとしたら、人類の向上への努力、文明化への努力は、支えを失ってしまうことでしょう。刺激は少なくなり、人間的な価値を支える重要な源泉は、破壊されてしまうことでしょう。
9  私の信じるところでは、人々は、自分たちを率いてくれる者に、栄誉を与えたがるものです。指導されているという認識は、感謝と尊敬の念を呼び起こすものです。たしかに、それが行きすぎることもありえます。釈迦牟尼が、後世の信奉者によって神格化されがちであるのは、まさにその一例でありましょう。他の宗教においても、ほぼ同様のことが生じました。キリスト教でもイスラム教でも、その創始者たちが決して提唱しなかった“聖者”の概念によって、超自然的な力を個人に付与することが、事実上、制度化されてしまいました。
 人間の才能、適応力、情緒的安定、根気強さなどは、多くの属性の中でも、特にその差異が保たれるものです。このため、たぶん私たちは、リーダーシップは、人間事象においては不可避なものであるということを、認めなければならないでしょう。また、それだけではなく、人間の常として、自分よりも成功している人や進歩している人に対しては、自分にそうした能力がなくとも、あるいは自分が精神的な旅立ちをより遅い時点で始めたとしても、競争意識が起きるものだ、ということも認めなければならないでしょう。
 競争意識とか、尊敬の念、そして手本を探し求めることなどは、たしかに、これから学びたいと思っている者にふさわしい事柄です。これに対して、指導者としては、自分が達成した目標は、他の人々にも達成可能であることが認識されうるよう、常に留意すべきでしょう。そうすれば、リーダーシップは、依然として人間的なもの、近づきやすいもの、人を奮い立たせるものであり続け、カリスマの概念に含まれる呪術的な要素が生じるのを防止することになります。また、これによって、指導者に対する信奉者たちの尊敬の念も、それにふさわしいものとなるとともに、彼らの追求を前進させるうえで、その効力を発揮することになるのです。
10  (注1)カリスマ性カリスマとは元来カトリックの用語で特能、霊能、聖賜物などと訳されるが、社会学者マックス・ウェーバーによって学術用語化された。ウェーバーによれば、カリスマの資質をもつ者は、身体あるいは精神に超自然的・非日常的な特殊能力をもつ者である。ウェーバーは、社会における支配形態の一つとして、カリスマをもつ者と、それに帰依する者との関係をカリスマ的支配形態と名付けた。カリスマ的人格の例には、ペリクレスやナポレオンのような政治的指導者なども含まれるとされる。

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