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理性の限界  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  理性の限界
 池田 すでに触れましたように、いかなる宗教も、その教義の核心部分には、理性で明快にできない非合理性あるいは超合理性をもっており、それが、一面においては、神聖なものとして、人々に無条件の信仰を要請することになります。
 しかし、その宗教を広く布教していくためには、人々の疑問に答え、教義を明確にしなければならないため、できるだけ不明瞭さをなくそうとします。
 特に私は、仏法を弘めることを最大の念願としている関係からも、仏教の教えを、可能なかぎり明瞭化していくことが大事だと考えています。もちろん、どんなに明瞭化しようとしても、なおかつ説明しきれず、信ずる以外にない部分は残りますが、それについては、なぜ人間の理性が及ばないかを明らかにすればよいと思います。
 こうした教義の解明のあり方を巡って、教授の広い学識の中から、参考になることや、助言を頂ければ幸いです。
2  ウィルソン 布教する側としては、改宗の見込みのある人々に対して、一般的な道理に則り、また体験から得られたものに基づいて、彼らをできるかぎり深く納得させることが必要なことは明らかです。ことに現代世界にあっては、人々は物事を説明してもらうことに慣れていますし、人生万般にわたって、知識の基礎となる合理的な説明、経験による立証、実際的な実験が、当然なされるであろうという広範囲の、一般的な期待があります。
 おっしゃる通り、宗教はこうした願望を超越したところにあり、あらゆる宗教には、人々がしばしば“信仰の飛躍(注1)”と呼ばれるものを遂げることによって、初めて確信を得られる、という時点があるものです。
 このような“飛躍”をうまく成し遂げる人がいる一方で、人によっては、この段階を飛び越えるのが非常に困難であったり、その先の見通しにはさほどやむにやまれぬ動機を感じなかったりして、結局、経験的証拠で納得できるところまでしか随いていけない、という人々もいます。このことは、宗教上の謎であるとともに、社会学的・心理学的にも、依然として謎のままです。
3  現代社会では、その機構がますます合理化される傾向にあるにもかかわらず、人々の間に広まっている諸価値は、究極的には気ままな好みにまかされています。われわれの伝統や文化が正当化されるのは、それらが昔から存在し、今日も引き続き存在しているという単純な理由からにすぎません。たとえば、われわれが称賛する芸術の形式をとってみても、それがすでに馴染み深いものであるという、ほんのそれだけの理由で是認されています。これらの事柄、そして私たちの人生行路における他の多くの事柄は、合理的前提によっては正当性を主張できないのです。
 私たちは、こうした理性の力ではどうにもならない事柄の多くに意義づけをし、情感を付与します。そして、そこから、また新たな意味が作り出されるのです。われわれの選択を正当化する言い分というのは、せいぜい、こういうことです。「これらを捨て去るのは不合理なことだろう。どうせ何を代わりにもってきても同じように合理性はないのだし、伝統がもたらす利点や正当性すらない、勝手気ままな選択となってしまうのだから」と。
 社会が完全に合理化し尽くせないように、個々の人間生命については、なおさら合理化できません。人間のもつ本質的な傾向性、その肉体的満足の追求、その性的欲求、幼児期の長期にわたる依存、子供のときには愛情を必要とし、成人すると結合を必要とすること、老衰や時間の経過や死についての意識など――は、すべて人間としての条件の中でも、どうにもならないこととして受け入れ、順応しなければならない生物学的なデータ(既知事項)なのです。私がこれらを“どうにもならないこと”という理由は、それらが本質的な事柄であって、理屈で論じられるところから生じるものではないからです。
4  人間は、これらの事柄を中心にして、その周辺に、哲学的ないし宗教的な理論を構築せざるをえません。その結果、そうした理論もまた、完全には合理的なものとなりえないのです。もちろん、どのような一般的な世界観をも受け入れず、理解せず、どちらかといえば盲目的に人生を生きる人々も、数多くいるでしょう。しかし、大部分の知的な人々にとっては人生のある期間において、また何人かの人々にとっては人生のほとんどの期間にわたって、このような問題や、その他にも苦悩とか人間の不平等、倫理的行動、さらには人間の美徳・精神性・霊感の源泉、認識論等に関わる諸問題などは、より幅広い枠内での解釈が必要なのです。
 人生の矛盾や緊張、不確かさについて積極的に意識し続ける人々も、そのすべてが宗教による解決を受け入れざるをえないと感じるわけではないでしょう。ある人々は、ずっと探求者であり続けることでしょうし、またある人々は、若くて理想に燃えている間は探求者であっても、日常生活の諸問題によって広範囲の思索や長期的な展望が締め出されてしまうと、そうした探求をたちまち放棄してしまったり、かつては受け入れられると思っていた解決法を、捨て去ってしまうことでしょう。
 これに対して、自らのやむにやまれぬ、または自身の励みとなる“信仰の飛躍”を体験する人々もいることでしょう。ひとたびそうした飛躍がなされると、かつては人生の不測の要素であった事柄ばかりでなく、合理的な体系そのものの占める位置や意義についても、新たな方向や展望が開けてくるものです。経験主義の世界は、その要求や制約によって、事実上すべての人間に圧迫を加えていますが、その世界も、“信仰の飛躍”を通じて感得されたものによって、新たな意味をもつようになることでしょう。
5  今日、多くの人々は、人間の理性の限界を認識し、理性の適用から時折生じる不調和や矛盾に気付いていますが、にもかかわらず、合理的な物の考え方は、現代人にますます強く押しつけられてきています。いまや、ほとんどどんな目的のために用いられる手段であっても(しばしば費用対効果の原理を引き合いに出すことによって)すべて合理的に正当化されるのが、われわれにとって、当たり前の想定となっています。さらにまた、一つの合理的な手順の当面の“目的”が、何らかの、もっと先の目的に向けられた“手段”へと決まって変容されるということも、われわれ皆が認めているところです。
 このように、目的から手段への退行が無限に行われるため、行動全体の究極の目的が、視野から消え失せてしまうのです。もちろん、実際には、そうした究極の目的は、純粋に合理的な体系の用語によっては明示できないものです。合理的な体系は、本質的には手段の体系なのですから――。もし、究極の目的が明確に示されることがあるとすれば、それは何らかの超合理的な――おそらくは宗教的な――用語による以外にないでしょう。
 こうした状況は、多くの人々に強い不満感を抱かせるものです。そこでは、行動全体の価値が、まったく実体をもたなくなってしまいます。経済的・技術的な物の考え方で把握できる価値は、たんに手順上の価値でしかないからです。われわれは、物事をいかになすかについては知るようになりましたが、なぜそうするのか、またそれがどんな究極的目的に役立つのかについては知っていません。マックス・ウェーバーが気付いたように、全面的な合理化、つまり、すべてに理性を適用することは、それ自体、並外れた不合理に通じるのです。
6  現代社会の科学技術的・官僚制的な合理性には、人間の不満感を強めるのに寄与している、もう一つの重要な要素があります。各個人は、このような体制の中で、特定の役割を演じることを求められます。それぞれの役割は、明確に規定された一連の任務から成っており、それはまた、他の役割と結びついて統合されています。個々の役割の遂行は、このように統合されることによって、予測できる、計算ずみのやり方で、特定の目的のために寄与することになるわけで、それらは合理的に調整されているのです。こうして役割遂行者たちは、ちょうど機械の部品のように、行動の合理的構造を確立することに貢献するわけです。
 こうした人間の働きは、できるかぎり機械に移行されるようになっています。機械は、人間の役割遂行者よりも、もっと制御しやすいし、もっと合理的に配備することもできるからです。こうして、人間は、ますます合理的になる体制に、合理的なインプットを提供するように仕向けられます。そして、この合理的体制の目指すところは、個々の役割遂行者のもつ目的を、はるかに超えたものなのです。
 とはいえ、こうして合理的に振る舞うことを強いられている人間自身は、やはり、非合理的な欲求や目標をもった人々なのです。彼らが寄与している体制は、人間自身に比べて、累積的に、無限に、かつ計り知れないほど、より合理的なものとなっていきます。その最終的な結果は、自由気ままで人間的な気質をもつ人間が、自分自身の作り出したますます合理化する秩序に直面して、疎外されていくということです。われわれが生み出した現代のフランケンシュタイン(注2)の怪物は、ときとして、われわれすべてを脅えさせるのです。
7  世の中には、人間の推論の及ばない物事があるだけではなく、人間の理性の適用によって種々の結果が生じており、人間自身がそうした結果から救済されなければいけないと感じるのも、無理からぬことなのです。現代生活の日々の出来事の中で、われわれは、あらゆる手段が合理的に正当化されがちであり、そこには最終的な目的がないといった、体制の非合理性をしばしばかいま見ることでしょう。それだけではなく、人間自身の個人的な資質や努力に比べるとき、そうした体制のもつ、恐ろしい、人間疎外的な「異質性」を、往々にして感じることでしょう。
 人間が宗教を必要とするのは、じつに人間自身の推理力に限界があるためと、もう一つには、完璧な合理性の無味乾燥さから自己を守る道として、自由裁量にまかされた既定の価値がもつ卓越さと究極性とを改めて主張し直すことが、人間にとって必要なためであると思われます。この、理性だけでは不十分になる一点こそ、宗教が現代人と意志を通じ合える一点ではないかと、私は考えています。
8  池田 いま、教授が述べられたように、現代社会、現代の文明があくなき執念をもって開拓しているのは、いかに生きるかであり、もっと端的にいえば、どのように外的環境を開発し、人間の生を快適なものにするかであり、そのための物質的豊かさの増大です。それに対して、では、そのようにして生きるのは何のためかという、人生の意味や究極目的についての何らかの回答を見出し、示そうとしたのが、哲学や宗教であるといえます。
 しかし、実際には、そうした目的の本質的なものは、生命が本然的にもっているさまざまな欲求であり、宗教や哲学の多くは、その周辺部分で理屈づけをしているにすぎません。ただし、哲学や宗教といっても多種多様であり、同じ一つの宗教においても信仰する人によって、その取り組み方が異なっています。いわゆる原始宗教の場合は、近代文明が科学的・合理的方法によって開発した欲求充足の機能を、非合理的・超合理的な祈りの儀礼によって遂げようとしたといえるでしょう。たとえば、豊作を祈る農耕民の儀式、獲物が豊かであるようにとの狩猟者や漁民の祈りは、そうした典型であり、ときには、自分の憎む人間の死を祈る呪術さえも行われました。
 これに対して、いわゆる高等宗教と呼ばれる仏教やキリスト教の場合は、本来的には、人間のこうした本然的欲求そのものの意味を問い直したり、その倫理性を再検討しています。仏教の十善戒や、ユダヤ・キリスト教で重んじられるモーゼの十戒等は、人間の本然的欲求への枷であり、仏教の中でも小乗仏教にいたっては、あらゆる人間的欲望を禁制しようとさえしました。
9  しかし、実際には、そうした仏教でも、後には倫理的規制の面が見失われ、権力者の戦いに加わって敵軍の壊滅を祈る儀式を行ったり、性的結合と宗教的陶酔を同一視する派が生まれた例もありました。もっと広い意味では、物質的・現世的利益を得ることが信仰の目的であるかのような風潮が一般化したことも、否定できません。
 もちろん、現代の科学技術にも限界があり、病苦や貧困に苦しむ人々にとって、宗教が唯一の救いであり、事実、宗教によって病気が治った等の体験もありますから、そのような現世利益も否定できませんし、その意義が否認されるべきでもないでしょう。
 しかし、宗教のもつ最も根本的な意義は、現世利益的な面にあるのではなく、信仰を通して事象の奥にある根源的なものにせまり、人生の究極目的を把握することによって、自己の欲求への支配者となること、人生を正しく見つめる英知を養うことです。この意味で宗教のもつ価値は、他の何ものによっても代替されえませんし、したがって、宗教信仰のもつ重要性は、いつの時代にも、また、どのような人にとっても、いささかも減ずることはないばかりか、むしろ、ますます増大していくといえましょう。
10  特に仏教では、外的・物質的条件によって幸・不幸が左右される人間生命の状態を“六道”と呼び、内面的な主体性を確立しようとする生き方を“四聖”と呼んで、区別しています。“六道”とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天といって、地獄は主として人間に対する激しい憎しみに囚われた状態、餓鬼は欲望に苛まれている状態、畜生は本能に支配され、理性的判断ができない状態、修羅は自我意識に歪められて正しく物事が捉えられず、常に周囲と確執している状態、これらに対し、欲望などが満たされて喜んでいるのを天、外的世界と調和した平静な状態を人といっています。
 しかし、これらは、いずれも、外的・物質的条件に左右されているため、常に移り変わります。そこで、事象の奥にある普遍の真理を把握することにより、不動の自己主体を確立しようとするのが“四聖”で、これは声聞・縁覚・菩薩・仏から成っています。声聞とは先覚者の教えにより、縁覚とは事象の観察によって、それぞれ真理を得ようとするのをいい、これに対し、他者への慈悲の行動によって自己の向上を図るのが菩薩、自己完成を遂げた状態を仏といいます。
 “四聖”の特筆すべき点は、自己の変革によって、生命本然の欲求を超克しようとすることであり、そうした欲求に仕えるのでなく、逆に、欲求を英知と慈悲のもとに従わせる生き方を樹立しようとすることです。ここに、生きるためにどうするかということに終始している現代文明の限界を乗り越えて、何のために生きるかという究極目的が、明らかになってくるといえましょう。
11  (注1)“信仰の飛躍”第一部「宗教の神秘性」の項参照。
 (注2)フランケンシュタイン自分が作り出しながら自分の手に負えなくなるような、または自分を破滅させるような怪物(破壊的な力)を造った博士。M・シェリー作の小説『フランケンシュタイン』(一八一八年)中の主人公の名。

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