Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

社会的・文化的諸活動  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
1  社会的・文化的諸活動
 池田 仏教寺院は、かつて日本の地域共同体の生活において、たんに信仰の面ばかりでなく、社会的・文化的側面でも、重要な役割を果たしていました。ちょうど、かつてのヨーロッパにおける教会がそうであったのと同じです。今日の日本では既成仏教の社会的・文化的影響力は低下してしまいましたが、宗教団体がいかにして、広範囲な社会・文化的諸活動を通じて社会に貢献していくかは、依然として大切な問題であると考えます。この、文化的活動と宗教信仰における指導性の、最適の関係について、教授のご意見をお聞かせください。
2  ウィルソン 過去の時代には、主要な宗教の各地方での集会が、しばしば共同体の活動の支配的な媒体となっていました。子供の教育や、貧しい人々への施し、旅人へのもてなし、遺族への慰安、病人の看護、その他、共同体全体にとっての文化的・社会的活動への参加といった、広範囲の社会的な仕事を組織し、もしくは管理していたのです。
 しかし、そうした、宗教が主催したあらゆる努力に対して、問題が起こってきました。それは、宗教教団が長期にわたって推進するすべての活動が、神聖化され、連想の力によって一種固有の神聖な義務的性格を帯びる傾向がある、という問題です。宗教機関が用いる方法やスタイルそのものが、本質的な価値をもつと信じられる傾向があるのです。このことが意味するのは、しばしば、そのような付随的な活動や献身の共同体的で個人的な性格が、さらにそのアマチュア的な性格さえもが、とりたてて有効でもない場合でもその情緒性の故に讃えられ、また、それによって神聖な基準が打ち立てられたのだとして讃えられるということです。
3  しかし、社会的な仕事や文化、レクリエーションといった分野で――ときには政府の責任で――他の世俗の機関が興隆するにつれて、一方の情緒的なアマチュア主義と、もう一方の客観的・非個人的な専門主義(プロフェッショナリズム)との対照が、際立ってきます。親睦さや人間的な関心に対しては、資金の合理的な利用や大きな成功の記録などが、競うことになるわけです。情緒性が、効率性と対比されるのです。
 地域的な、または、ときとして古くさい形態の社会的・文化的活動、レクリエーション活動を維持している宗教組織は、少なくとも西欧の福祉国家のように、あり余る予算と最新の技術で運営されている行政機関や商業的機関と張り合うことには、次第に困難を感じてきています。福祉活動で宗教組織が活躍するのは、往々にして、国家が働きを怠っていたり、特殊な問題が提示されるような、周辺的な領域においてです。救世軍(注1)が、安いホステルを提供したり、国家の補助を受ける資格が十分でない人々のために援助をしたりしているのが、その例です。
4  宗教組織は、文化的な仕事をする中で、娯楽産業の営利主義に直面します。娯楽産業には、人間の卑しい本能を利用して、情欲や攻撃欲、金銭欲といった基本的な欲望を満足させるうえでの、制約というものがありません。さらに、それほど不健全でない分野でも、宗教組織は、資金や専門的なアドバイスに欠けているため、張り合うことは容易ではありません。快楽主義の風潮が瀰漫している中では、目新しさや煽情主義、官能性が大いに誇示され、宗教組織が提供するものは、しばしば精彩を欠いた、つまらないものに見えるかもしれません。しかも、「宗教組織が推進する文化的・レクリエーション的活動は、じつは新会員獲得の手段なのではないのか」という疑惑を受けるかもしれないのです。
 大きくて、よく組織の整った宗教運動は、大規模な慈善活動を繰り広げるために、専門化された機関を通じての、どちらかといえば非個人的な努力に、力を集中する傾向があります。彼らの宣伝活動は、個人の責任とか仲間意識とかの要素を強調していますが、その合理的で、非個人的で、ときには官僚的な運営には、真の共同体的な活動はほとんど見られません。
5  少なくとも西洋では、主要な宗教教団は、会員のために文化的・レクリエーション的な機会を提供する責任を持ち続けなければならないとは、さほど感じておりません。また、教育の分野でさえ、そうした教団の学校は、着実に、国家が支給する教育に座を譲っています。これらの教団は、文化的・レクリエーション的な性格の、特別な行事や施設をあまり提供しないだけでなく、その信徒が世俗文化にどの程度まで参画してよいかについても、明確に指導する必要性を、あまり認めていません。
 ほとんどの宗教運動では、ポルノグラフィーを非としていますし、卑しい欲望を満たすための娯楽を認めていません。ところが、狩猟などの血なまぐさいスポーツや格闘技となると、あるいは、ギャンブルについてさえ、指導層の間ですらめったに意見が一致しないのです。せいぜい“万事ほどほどに”といった抽象的な指導ぐらいが、たぶん多くの宗教がその信徒に対して、いかに世俗文化に対応するかに関して与えることのできる、最大限の助言なのでしょう。
6  セクト的な運動は、往々にして――決して常にということではありませんが――ずっと厳しい道徳的態度をとり、さまざまな形で現れる世俗文化やレクリエーション、そしてときには教育のあり方についてさえ、認めないことがあります。宗教的献身と競合するかもしれないものは、いかなる活動も認めないというケースもあれば、また別に、本質的には無害とみなされていても、部外者との好ましくない交際に信者を巻き込むような活動は禁止する、というケースもあります。この最後に述べたグループにあっては、自分だけで行う娯楽は許されても、非会員と一緒に同じことをするのは許されないのです。このようなグループでは、自助の精神と外部世界から完全に隔離していたいという信念から、ときには、国家からの福祉の支給も拒絶することがあります。
 文化的・レクリエーション的な性格の非宗教活動に対する反応は、宗教教団の間でも、非常にさまざまです。主要な教会では、そうしたことについては、非常に抽象的な指導をするだけです。そして、多くのセクトが非常に制約された姿勢をとるのに対し、そういった世俗的な仕事を、社会的宣伝の精神に立ってうまく利用するセクトもあります。モルモン教が(注2)、ソルトレーク・シティの会堂聖歌隊が組織した巡回旅行や、記録保管(注3)や、社交ダンスを含む各種スポーツの推進によって広く名を売ったのは、その例です。クリスチャン・サイエンスは、宗教色のない日刊新聞(注4)の発行をアメリカ全土で行っていることで、かなりの信望を勝ち得ています。
 もちろん、そうした文化的事業があるというだけで、その信徒になるという人はおりません。しかし、そういった活動によって、世間から喝采を受け、すでに信徒になっている人々を“元気づける何か”が与えられることで、その組織内の忠誠心が強化されるのです。
7  (注1)救世軍
 十九世紀末にイギリスで起こった福音伝道主義の教団。福音伝道活動のために制服を取り入れ、軍隊に類似した組織形態をとった。広範な社会的福祉事業に従事している。
 (注2)モルモン教
 活発な改宗者獲得を行っているアメリカのセクト(末日聖徒イエス・キリスト教会)。聖書とともに、創唱者ジョーゼフ・スミス・ジュニア(一八四四年没)が受けたという天啓に基づく信仰をしている。モルモン教徒は、主としてアメリカ中西部から彼らの「約束の地」ユタ州に移住した。現在ではアメリカ全土と世界各地に約五百万人の信徒がいる。
 (注3)記録保管
 モルモン教では信者が先祖への儀礼を行うため、先祖探しができるように系図の調査・作成を奨励し、そのためユタ州の記録文書局に厖大な数の系図のマイクロフィルムを集めて保管している。
 (注4)日刊新聞「クリスチャン・サイエンス・モニター」。

1
1