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組織と参加  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  ウィルソン 公式の構造をもつ組織や運動は、権威に格差のあることが、その特徴となっています。ときには、そうした権威がヒエラルキー(位階制(注1))に従って配分され、細分化されていることもありますが、大きく分けて、権威の行使者とそれに従属する者、専従職員とそれに依存する者、専門聖職者と一般信徒、組織する者とされる者、というふうに区別してよいでしょう。
 精神的な事柄を優先することが第一とされ、またときとしてすべての信徒が等しく信心深くなければならないとの要請がなされはしても、なおかつ新宗教運動(注2)は、その組織形態が安定するにつれて、このような一般的な権限の配分を、どうしても免れえないことを露呈します。しかし、一つの宗教運動に対してその信奉者が示す参加は、他のほとんどの団体の下部にいる個人の場合とは、性格が異なっています。
 現代社会にあっては、宗教への参加は、自発的な行為です。人々は、自身の良心の命ずるがままに、一つの運動に参加することも、脱退することもできるわけです。結局、宗教的権威は、人々の参加と同意の枠内でのみ機能することができるのです。これは、次のことを意味します。しかもそれは、注目に値する点です。すなわち、一つの宗教への関わり合いを自由に選択できることには、何らかの特別なメリットがあるということ、そして現代世界のほとんどの宗教にあっては、その選択自体がすでに精神的な行為とみなされている、ということです。
3  したがって、宗教による圧迫の証拠が現れたとき、たとえば入信予定者に社会的ないし心理的圧力を加えるとか、信者に無理に金を出させるとか、あるいは、明示された宗教的目標とは容易に同一視しがたい目的のために宗教組織の権威が行使されるなどのことは、それがどのような形の圧迫であるにせよ、大衆に不快感を与え、また往々にして社会の法規に違背することになるのです。
 人々に宗教上の選択を不当に強いてもかまわない、あるいは、人々がそうした選択をした後には、運動の内部で彼らを不当な影響下に晒してもかまわないという考えは、宗教が人々の間に呼び起こす帰依心に格差のあるところから生じるもののように思えます。そして、これは、諸宗教がある程度競い合っている多元的文化において、最も顕著なものとなります。人々が帰依する度合いに格差があるため、また諸宗教が競合しているため、教団幹部のなかには、信者たちの信仰心に筋金を入れ、献身度を一層強化しようとする者もいるのです。
4  これは十分に理解できることであり、ほとんどの現代の宗教は、献身的な会員や何らかの特別な部門の専従職員が、教義上の知識を宣布し、積極的な反応を呼び起こし、活動しなくなった会員を再び活発にし、新たな会員を引き寄せる仕事に専念することを期待し、もしくは要求さえしています。熱烈な奨励を行うことと、不当な術策で説得したり強制したりすることとの間に境界線を引くことは、必ずしも容易ではありません。これは、西欧諸国での多くの訴訟事件に明瞭に見られるもので、これらの訴訟では、非加入者が、自分たちの親族(通常、自分たちの子供)が宗教上の選択をするうえで、過度の圧力を加えられたことを証明しようとしています。
 宗教組織の内部における、そしてことに活発な成長段階にある宗教にとっての権威の問題は、一つには、そうした宗教の職員と献身的な一般信徒があくまでも素人(アマチュア)の熱狂的な信者であり、また組織人としても完全な“専門職”(プロフェッショナル)とはいいがたい場合が多い、というところにあります。言い換えれば、彼らは、他の組織、つまり権威の性格が非個人的で、役割遂行者の行動を規制するためにそれが用いられているような組織の専門家たちならまったくやらないようなやり方で、組織上の権威を行使しやすいということです。宗教運動の中で、何らかの権限をもつ人たちが、その熱意のあまり、適正な組織上の行動範囲を超えるということがあります。
5  この難点を究明すると、それは、制度の型が異なれば、その権威の関わり方も違ってくるからだ、ということが分かります。ある機関にあっては――たとえば拘置所では――、それは、あからさまに威圧的です。多くの組織にあっては、権威の関わり方は、契約的なものです。つまり下位の者は、普通、明示された報酬のために、特定の義務を遂行する旨の契約を結びます。このような状況においては、上位の役員は、下位の者の技能や時間をどこまで操作できるか、という限度を知っています。
 たとえば、下位の者の純粋に付帯的な契約外の能力や時間については、それを操作する権限はありません。たとえ、自分の部下の事務員が優れたヴァイオリニストであったとしても、その人に従業員として演奏を要求することはできないわけです。それは契約外のことだからです。
6  ところが、宗教における権威の関わり方は、別個の秩序をもっています。それは、任意参加的なものであるとともに、規範的なものです。上位の者は、忠実な信者が信仰を正しく保ち続けるためには何をすべきなのか、いやむしろ何をしなければならないのかを、教示することができましょう。下位の人たちのあらゆる技能や才能は、彼ら自身が献身を誓った大義のために用いられることになります。その人は、ある意味では、自己のすべてを権威に服せしめるわけです。宗教組織が、信徒の宗教的献身の度合いがまちまちになると弱体化するのは、まさに、こうした権威の絆の質によるのです。
 宗教組織が抱える問題は、その本質に関わるものです。それは、必然的に、非合理的な宗教上の目的と、ますます合理化する手段の展開とが、本質的に性格の異なるところから生じています。では、能率的な組織運営の手段が神聖な目的を汚さないためには、どうしたらよいでしょうか。その答えは、たぶん、組織というものの緊張感や危機感に関する自覚を、組織のあらゆるレベルで啓発することにあるでしょう。役員は、自分たちの仕事が細心の注意を要することについて、周期的に敏感になる必要があります。一般信徒としては、役員が種々の困難の中で苦労していることに気付く必要があるでしょう。
7  池田 組織の弊害の面を最小にするためには、幹部と一般メンバーの両方が、その点についての意識をもつ必要があるとのご指摘は、私も同感です。私は、もう一歩これを突き詰めていえば、人間としての、相互の理解と尊重の精神を保つことであろうと思います。
 組織は、基本的には人間を、それぞれ組織で要求される役務の遂行者としてのみ認める傾向性をもっており、それ以外の人間的要素を排除しがちです。これは、組織が巨大化し、中央集権化するに従って強まります。
 しかし、小さい規模で自律性をもっている場合は、人間的要素は、それほど排除されません。特に、地域的に分割された小規模組織の場合、組織上の役務以外の、たとえば幼時からの生い立ちについても、たがいに知り合っていたり、組織の問題以外の共通の話題もあり、全人格的交流に近いものが、人々の間に成り立ちやすいでしょう。
 これは、外部社会との隔絶という、ともすれば宗教団体が陥りやすい弊害に対して、大きい抑止矯正の力になります。と同時に、組織上の権力を横暴に振るいがちになることに対しても、それを和らげ、人間的良識に従った生き方にしていく力になるでしょう。
 その意味で、私は、中央集権化は、必要最小限に止め、なるべく大きい分野で地方分権化を図ることが望ましいと考えていますし、創価学会においても、その方向への努力をしています。
8  ウィルソン 分権化は、たしかに、諸組織がしばしば陥る硬直化を防ぐ一つの方法かもしれません。特に、地方の指導者が、地元の一般信徒たちから活発な反応を起こすことを絶えず求められる場合が、そうです。分権化を効果あるものにするには、一般信徒の要求するものに共感をもって関与し、そうした要求を察知する資質を地方の幹部にまで普及させることが、おそらく最も大事でしょう。この方針を採るためには、地方の指導層に、組織的でありながらしかも人間味のある、さらなる献身を促すための計画が、それに付随して必要になるだろうと思われます。
 はっきりいえることは、よく組織された宗教運動だけが、そのような努力を活発に推進し、持続しうるということです。しかし、その場合でも、信徒たちを繰り返しその運動に馴染ませ、彼らに人間味を回復させようと絶えず努めることこそ、一つの宗教が常に関心を払って成就すべきものの核心であることは明らかです。
9  (注1)ヒエラルキー(位階制)
 頂点に立つ指導者から順次、下位の者に権威の分与が行われているピラミッド型の権威構造のこと。カトリックと英国国教会は位階制に基づいた教会組織が形成されている。
 (注2)新宗教運動
 一般には(ここで使われているように)発生したばかりの新しい宗教運動を意味する。新宗教は、ほとんどの社会に繰り返し生まれてきた。その教義、典礼、組織などが従来の宗教的伝統と大きく異なる場合にも、またそれが他文化から移入された宗教的概念である場合にも、“新”宗教運動と呼称される。

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