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宗教組織の二面性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教組織の二面性
 池田 宗教の信仰は、本来、人間の良心に関わるものであり、外的な束縛、あるいは援助は必要ではないし、またあってはならないものであるという考えから、宗教にとって組織は不必要ではないか、という人がしばしばいます。組織が信仰、ひいては宗教そのものをも毒するとさえいう人もいます。
 たしかに、組織は、人間によって作られているにもかかわらず、それが編まれた瞬間から、その作り手を離れて、独自のメカニズムをもったもののように動き始めます。そこには組織悪という言葉さえあるほど、組織を維持するために、個人を抹殺するような働きを生み出していくケースもあります。その意味からは、信仰という、人間の良心にとって最も峻厳であるべき分野においては、悪の要素を排除しなければならないという言い分も、理解できます。
 しかし、では宗教にとって、組織はただ悪でしかないかという点になると、私は賛成できません。なぜなら、信仰を個人が自ら維持していくうえでも、またそれを他に弘めていく場合にあっても、個人は、あまりにも弱い存在であり、組織がそれを支えてくれるということです。それは社会的な制圧を受けたときにもそうでしょうし、またそうした制圧がなくても、大部分の人間にとって当初の決意を保つことは、なかなか困難なことであるからです。
2  人間が孤独では生きられないということは、たんに肉体的な面だけではなく、精神的な面でもいえることです。信仰においても、孤独では、例外的ともいえるほどの強靭な精神力の持ち主の場合を除いて、個人としての信仰を保持することも、他に弘めることも、きわめて困難でありましょう。
 したがって、組織のもつデメリットを勘案し、是正しつつ、その力をどうよい方向に活用していくかが大事であると思います。教授の、これまでさまざまな宗教組織を見てこられたうえでの、お考えをお聞かせください。
3  ウィルソン 宗教は一つの社会的な活動であるため、何らかの組織が、その存立そのものにとって不可欠です。信仰生活を送っている単独の個人は、その人の知識や価値観、実例が広く人々に伝達されないかぎり、社会には何の影響ももたらしません。ひとたびそうした伝達が始まり、他の人々がその人の宗教的信念や実践に引き入れられると、ある程度の組織が生じます。
 宗教活動が日常生活での社会的関係にすでに含まれているような、また社会共同体がそのまま宗教共同体となっているような、比較的単純な社会にあっては、宗教独自の組織というものは、ほとんど見られません。しかし、現代社会にあっては、宗教は、必然的に別個に組織され、政治、法律、教育といった他の主要な社会制度と肩を並べるようになっています。人間のあらゆる活動は専門化し、それぞれ独自の組織形態、独自な型の施設、独自のリズム、独特な訓練、そして専門的な職員などを必要とするようになってきました。これらの点においては、宗教も、決して例外ではありません。
 かつて宗教は、他の種々の社会的関わり合いからほとんど区別できない存在でしたが、今日の宗教は別個の活動となっており、他の諸制度から、はっきりと区別することができますし、またそれ故にこそ独自の組織をもっているわけです。
 今日では、人間生活のあらゆる領域が独自の組織を形成しており、また、主要な制度の活動は別としても、環境保全を要求する抗議運動からフォークダンスのクラブにいたるまで、あらゆる形の自発的活動が意識的に組織化されているために、宗教も、組織的な形態をとらざるをえなくなっています。
 組織化への抵抗が、何人かのきわめて精神性の高い宗教指導者によって行われたにもかかわらず、今日存続しているあらゆる宗教は、たとえわずかなりとも、諸々の役割や規則の必要性を認めざるをえなくなっているのです。
4  池田 仏教は、初めて覚りを説き教えた仏陀と、その仏陀の教えである法とともに、修行と弘教に専念する僧を尊ぶべきことを教え、三宝と呼ん(注1)でいます。すなわち、仏の宝、法の宝、僧の宝という三宝です。宝とは尊く、尊重すべきものとの意味で、譬喩的に名づけられた名称です。
 釈尊は、僧を敬うよう人々に示すとともに、一方、僧に対しては、人々からの尊敬に耐えられるよう、細かい戒律を定め、それらを厳守するよう命じたのです。仏の宝、法の宝は釈尊自身が打ち立てたことによって完成されているわけですが、それを現実社会の中に、後世に伝えていくのは、僧によらなければなりません。故に、僧については、特にその資格と行動に関して、厳格に戒律を定めたのであろうと考えられます。
 そして、この僧は、僧伽という(注2)一つの組織を形成しました。僧伽は、すでに釈尊の在世中から作られ、実質的に機能していたことが、仏教経典から知られます。
 もし、仏教がたんに各人の死後の救済のみを目的とするものであったとしたなら、このような僧伽組織を作る必要性は、はるかに少なかったはずです。しかし、仏教が目指したのは、死後だけでなく、現在の人生における個々人の成長・向上であり、そのことを通じて、現実の社会の繁栄と平和に貢献することでした。したがって、他の宗教、特に死後の救済に主眼を置いた宗教において、組織化への抵抗が、精神性の強い宗教指導者によってしばしばなされたのに対し、仏教においては、組織化そのものへの抵抗ということは、少なくとも仏教の正統的な精神に立つかぎり、ありえなかったのです。仏教の精神性は、組織化と対峙して立てられたものでなく、組織化をも包含して立てられていたといえます。
5  しかし、それにもかかわらず、組織がその本来の精神のもとに運用されるということは、きわめて難しいことでした。なぜなら、組織には権力と利益、名誉が付随し、組織における高い地位は、本来は精神的に優れた人に与えられなければならないにもかかわらず、権力欲や利欲が強く、狡智長けた人物がこれを奪い取る事態が、しだいに多くなったからです。本来の、崇高な精神を後世に伝えるための組織が、逆に、醜い欲望を醸成する場となり、修行者の心から、崇高な精神を駆逐する働きをするものとなっていったことも、認めなければなりません。
 現代において、宗教団体は、組織なくしては存続も発達もありえないわけですから、組織における幹部はもとより、会員の間にも、高度な精神性と献身とが、過去のいかなる時代にもまして、ますます要請されるわけです。
6  ウィルソン まったく同感です。自発的な活動である宗教は、その信奉者たちの資源――時間、エネルギー、財力、行動など――を調和的に働かせることによってのみ、存続するのです。いかなる宗教も、支持者を保ち続け、新しい信者を獲得し、その宗教の価値観を普及し、会員、なかんずく専従職員を訓練し、自宗の関心事や業績を促進・宣伝するための手段をもたざるをえません。これらはすべて、組織が必要であることを意味します。また、こうした組織は、いくぶんかは専門的にならざるをえません。
 結局、宗教が必要とする組織構造は、たとえば保険事業とかスポーツ活動に必要とされるようなものではありません。宗教の組織構造はまた、――その関心事がより大きな広がりをもっているものだけに――労働組合や保険会社のそれとも異なります。このため宗教は、宗教のみがもつ、いくぶん独特な形の組織を発展させてきたのです。
7  ある面においては、他の機関の組織がもついくつかの側面との類似点はあるにせよ――たとえば、その運動が所有する財産や法律的な事項を管理する熟練した官僚的職員に、ますます多く頼るようになっていることなどがあるにせよ――やはり、明確な相違点もあります。なぜなら、宗教組織の管理者は、たんに仕事をこなしていくというだけのものではないからです。彼は、同時に一つの大目的を促進していくのであり、それは宗教活動の性質からいって、たんに個人的な満足のためではなく、ましてや、たんに金銭的な報酬のために行っているのでもないのです。
 したがって、私たちは、宗教の組織と他の組織に、ある面での類似点を認めることはできるものの、同時に、宗教的行為が追求する本来的な目的のもつ性質の故に、両者には、あるはっきりとした違いがあるということも認めなければなりません。しかし、そうしたすべての違いを認めたうえで、なおかつ、宗教は組織をもたずには、どうしても現代世界でその存在を示すことができないという事実があります。
8  また、宗教組織が、効果的とはいえないことがあまりにもしばしばあり、事実、ある面で、時間や利害の面で宗教組織と競合する他の機関に比べると、有効性において劣るということが、往々にしてあります。その理由の一つは、宗教が、過去に根ざしているということ、つまり、かつての共同体生活の他の側面から組織的な分化がほとんどなされていなかった実践や態度に基づいているからです。
 これらの伝統的な様式は、本来は宗教の実践手段であって、必ずしもその聖なる目的ではなかったのに、それ自体が聖化(注3)されるということがしばしばありました。そうした聖化そのものは、生活が宗教的価値で満たされるための、一つの方法であったかもしれません。しかし、組織のより効果的な技術や様式が発達し、他の社会的目的に利用できるようになると、聖化は、そうした技術や様式を展開していくうえでの妨げともなったのです。このため、よく世間で見受けられる例として、いくつかの宗教では、まったく慣例化した古来の習俗や伝統的な方式が、明らかに教義の普及の妨げとなっているにもかかわらず、それらを脱皮できずにいるのです。
 また一方、宗教のもつ恣意的もしくは超合理的な目的や価値と、それらの価値を普及するための合理的かつ官僚制的な組織運営の技法との間には、私がさきに申し上げたような、不安定な境界線というべきものが存在しています。
9  宗教は、企業のようには運営できません。まったくの合理的な基準で査定できる生産性の水準といったものは、宗教にはありません。精神性とは、ばらばらの断片に分けては計ることのできない、分割不能な、究極的なものです。したがって、企業においては、まったく道具主義的、かつ実利的な価値観に従って経営を行うための適切な技術というものがありますが、それを宗教の必要とするものに適用することは、とうていできないわけです。宗教は、量的な尺度の及ばないところにある、生活の本質に関わるものだからです。
 このため、ある一点を越えると、商社に要求されるような現代組織の形態へと宗教が合理化されることは、決してありえなくなります。また、そうした合理化は、政治、裁判等の事項、あるいは教育方式や医療福祉方式にさえある程度は適用できるわけですが、宗教にとっては、その程度の合理化すら不可能になるのです。
 このように、宗教が組織化されうる適正な度合いというものには、絶えざる解消不能の緊張がつきまといます。もちろん、この緊張については、同一の宗教運動の中にあっても、グループが違えば、感じ方にも差が生じます。自分たちが携わっている特殊な活動の性質上、精神的体験の本質に最大の力点を置こうとする人たちがいる一方で、また、精神性が強調されすぎれば組織にとって最善と思われることが実行できなくなる恐れがあると、折にふれて感ずる人たちもいることでしょう。このバランスは、多くの場合、微妙なものです。
10  あなたが正しく指摘しておられるように、精神的体系という本来の目的に役立つべく生まれた組織が、かえってその目的を覆すようになることがあります。社会学者たちは、そのような過程を“目標の置換”(ゴール・ディスプレイスメント)――組織の適正な機能維持に気を取られたり、技術や手順、効用性などに関心を払うことによって、当初の宗教的な目標がぼやけてしまうこと――と呼んでいます。このような、まったく手順に関わる関心事があまりにも強調されすぎると、その結果として、組織の設立目的であった宗教的真理の純粋な本質は、もはや目的とはみなされなくなります。そうなると、組織は設立当初の目的のためではなく、まったくその組織自体のためにのみ、存在するようになるでしょう。
 現代世界において、社会的あるいは国際的な存在を維持しようとする他のあらゆる企てにとってと同様に、宗教運動にとっても、近代的な組織の技術や努力の合理的調整が、不可欠なものになっていることは明らかです。しかし、一方、これらの技術や手順は、あくまでも、組織そのものの合理的システムを越えたところから与えられた目標を達成するための、手段にすぎないとみなさなければなりません。そして、そうした目標は、その信仰に帰依する人々の心を鼓舞し、清めるものとして存続しなければなりません。
 手段に長けた人たちは、ときとして、それらの手段がいかなる目的のために用いられているのかを、見失うことがあります。他方、究極的目標に心を奪われている人々は、手段の有用性に、時折、思いをいたす必要があるでしょう。きわめて道具主義的・手順的な価値が、絶対的・実質的な価値を転覆しつつある現代世界の全般的な傾向を考えると、宗教運動において精巧な組織を発展させようとするならば、手段が目的を転覆しないよう絶えざる警戒が必要であるという事実を、たぶん強調しなければならないでしょう。
11  池田 教授の指摘されたことは、宗教運動に長年携わってきた私にとっても、大いに共感するところであるとともに、心していくべき教訓でもあります。
 仏教の歴史を遡ってみると、究極的目標に没頭するあまり、手段の有用性に思いを巡らさなかった宗教者の例には、たとえば中国における天台宗が、当てはまるかもしれません。
 六世紀末、中国隋代の天台大師(智顗ちぎ)によって開かれたこの宗派は、すばらしく深い仏法の真理を究め、またその修行法を伝えましたが、広く世間に認められて繁栄の道を求めるという点では、あまり努力しなかったのです。
 そのため、わずか一世紀ほど後に、インドから伝えられた密教にたちまち名声を奪われ、人里離れた山中で、ひっそりと伝えられる宗派となってしまったのです。密教の僧は、当時の皇帝に取り入り、その庇護を受けて、一躍、花形の宗派になったばかりでなく、天台宗の教義を盗んで、自宗の勝れていることを宣伝する手段としました。
 同じ運命を、日本に伝えられた天台宗もたどっています。日本でも、天台宗が開かれた直後、中国から密教が渡来し、もてはやされたばかりでなく、中国で密教が天台の教義を自家のものとして宣伝していたのに騙されて、天台宗の僧自身が密教を勝れていると思い込んで、その軍門に降ってしまったわけです。
12  このような例はありますが、究極的目的のみに没頭して手段の有用性に盲目的であったという事例はむしろ希少でしたし、今日においては、ますます少なくなっています。特に現代では、社会全般の信仰心喪失の風潮の中で、いかにして自宗派の存続・繁栄を図っていくかを最大の課題として取り組まざるをえなくなっています。その信仰が本来教えた究極的目的が、かえって自身のエゴの充足や権力のための手段となる危険性は、常にあるといわねばなりません。
 その意味からも、教授が述べられているように「手段が目的を転覆しないよう」に、宗教者は、絶えまなく自戒をしていかなければなりませんし、仏教の示した究極的目的を明らかにし、そこに真摯に取り組んでいく信仰者としてのあり方を常に心していかなければならないと思うものです。
13  (注1)三宝さんぼう
 仏教徒が尊重し供養すべき三つの宝(仏宝・法宝・僧宝)のこと。仏とは、宇宙の実相、三世の因果を見極め、主師親の三徳をそなえた仏法の教主。法とは、仏の悟りに基づいて説かれた教え。僧とは、法を修学し伝持していく弟子をいう。これらはいずれも汚れなく、威徳があって、世の最高の宝のごとくである故に宝という。
 (注2)僧伽Samgha。
 仏道修行をする人々の集団。和、(和合)衆と訳す。出家の四衆(比丘比丘尼沙弥沙弥尼)をいうが、広義には仏教教団全体をいう。
 (注3)聖化
 世俗的な活動、事物、行事などが、ある一定の状況下で純粋に宗教的な意義をもつものとみなされ、神聖な意味を付される過程をいう。たとえば、社会の慣習や人種的忠誠心は、宗教的意味の後光を帯びることがある。

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