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日蓮大聖人・池田大作

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現代における共同体の意義  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  しかし、こうした精神的な要素も、ある意味では、生きるための物質的・経済的利益の追求擁護という必要性から生み出されたもので、旧来の社会においては、基本的に、これらの経済的要因と精神的要因は一致し、相補う関係にあったといえます。
 ところが、近代化につれて、生産活動・利益追求の諸活動が、家族共同体を基礎とするものではなくなってきました。端的にいえば、今日では、家庭内手工業から国際的な広がりをもった巨大企業へと移り変わってきたのです。
 もちろん、現代においても、家族を基盤とする農業や小売商店、零細企業の町工場、またかなり大規模の企業でも、ある家族によって独占的に経営されているものなど、家族・血族のつながりが経済的な利益追求の組織基盤になっている例は少なくありません。しかし、全体的には、そのような事例は、急速に減少しているのが現状といえましょう。
 そうした時代の趨勢の中で、現代の人々は、精神的に帰属してそこに安らぎを得られるような集団・共同体が失われつつあることに、不安と苦痛を覚え始めているようです。いうまでもなく、そうした帰属感への欲求の強さには、個人差もあれば、文化的伝統による民族差もあるようです。
3  この点で、日本人の場合は、先進諸国の中でも特異ではないかと思われます。日本人は帰属感への欲求がとりわけ強く、近代的な企業においてさえ家族主義的な情緒性が色濃く支配しており、それが成員の献身的努力の原動力となっています。しかし、企業は定年とともに去らなければなりませんから、古来の共同体社会に代わりうるものでは、もとよりありません。
 こうして、温かい心のつながりに覆われた共同体を再建したいという欲求が強まっているわけですが、一つの宗教の信仰の強制や、封建的しきたりの束縛をともなわない共同体の再建は、どのようにして可能でしょうか。
4  ウィルソン 人間には、温かい、情緒的な結びつきが必要です。人間の幼児の養育は、他の動物の子と比べて、なんといってもはるかに期間がかかります。また、食物や栄養の面だけでなく、情緒面での安心感を得るという点でも、人間は、動物よりもはるかに強く、同じ類との親しい関係に依存しています。
 このパターンは、人生のまったく最初から、生物学的要素の中にそのように設定されているのであり、事実上すべての人間が、程度の違いこそあれ、少なくとも人生のある時期、情緒面での依存と感情面での安心感が必要であることを示しています。
 過去においては、地域共同体が、通常、そうした情緒面や社会生活面を支える源泉でしたし、人々はいまもなおそうした環境に、憧れをもっています。こうした環境において評価されるのは、何を手に入れ、または所有しているかということでもなければ、何を成し遂げたかということでさえもなく、ただ、自分がそこに存在しているということなのです。
 だからといって、共同体生活にともなう感情が、常に肯定的なものばかりだったというわけではありません。人間生活のあらゆる状況に見られるように、そこには愛とともに、嫉妬や憎悪も生じました。しかし、一般的にいって、そうした相克は、そこで機能している秩序や相互依存の枠組みからはみ出ないよう抑えられていたのであり、確立した手続きや規制によってコントロールされていたのです。
 地方的な慣習や神話などは、しばしば宗教的な思考形態とでも呼ぶものの中に含められますが、これらが、潜在的により危険な激しい恐怖や苦悩等の感情を和らげ、激情や緊張を上手に制御する手段を提供していたのでした。
5  現代の世界は、これとは、まったく異なる前提に立っています。身分は契約によって取って代わられ、習俗や慣習は官僚的な規則によって、個人的な信義や忠誠は非人格的な結合によって、全体的な人格は役割遂行者によって、伝統的な習慣は合理的な計画立案によって、共同体は組織によって、そして地域主義は国際主義によって、それぞれ取って代わられています。地域生活の自立性は、地域間や地方間、さらには国家間でますます増大している相互依存によって、侵蝕されつつあります。
 おたがいに常時社会的に関係をもっている人々も、今日では必ずしも人間同士としてではなく、むしろ役割遂行者として知り合っているにすぎません。制度の成り立ちは、もはや個人の善意や愛情に依存するのではなく、よく訓練された各部署の担当者による、役割の十分な遂行にのみ依存しています。その結果、個人の道徳的行動を律する規則は、本質的にテクニカルな性質の規則に、道を譲ってしまうのです。
 私の信じるところでは、宗教が、自然に、本来的に働く場所は、地域共同体にあります。そこでこそ、宗教は、より厳粛な関心事・存在・事物を人々に一緒に考えさせることによって、彼らを統一し、日常的な関心事や活動を越えた、もっと重大な目的を伝えていたのです。
 もっとも、宗教は、これに留まらず、必要とされる道徳的な善行、相互に果たすべき義務、さらにはより大きな、人生の目的などに関する共通の意識を人々に提供していました。
 偉大な諸宗教は、たしかに、地域共同体よりもずっと広範な社会のすみずみにまで伸展していき、いくつかの宗教が世俗的支配者たちに計り知れぬ影響を与えたことも事実です。しかし、それにもかかわらず、宗教のもつ不可欠の機能――一般信徒に安心を与えること――が全うされたのは、他ならぬ地域レベルにおいてだったのです。
6  現代の社会制度の機構は、もはや地域共同体に根ざしてはいません。そして、これら諸制度の中で、宗教は、以前と比べてはるかに小さな意義しかもっておりません。もはや宗教は、社会が機能するうえで必要なものとは、みなされていないのです。宗教の儀礼や教義は、現代の社会体系が作動するうえでの基盤と考えられているものとは、無関係のものと考えられています。宗教は、過去の比較的固定化されていた農耕生活のリズムや日常の仕事を、厳粛で神聖なものとするのに役立っていたわけですが、工業化社会・技術社会のリズムには、そのようなものは必要とされないのです。
 これは、現代人が、日々の関心の中で、宗教を無関係のものとみなしているということではありません(個人としては、いまだに宗教に対して強い選り好みを示すことがあるのですから、そういえる場合もあれば、そういえない場合もあるのですが――)。むしろそれは、社会体系の働きが、宗教に特別な考慮を払うことなしに進行しているということなのです。
 技術社会の人間にとっては、宗教は、私的な選り好みの対象となります。これに対して、農耕社会の人間にとって、宗教は、日常生活と社会秩序の基礎をなしていたのです。
 伝統的な共同体の魅力を際立たせて宣揚するために、現代社会に汚名を着せるということは、安易にすぎましょう。私たちに、皆、共同体社会がもっていた美徳を懐かしむ強い傾向があるのは、たぶんそれだけ多くの現代人が、そうした共同体の温かさと感動性に欠けているからです。
7  しかし、私たちは、そうした共同体生活の狭小さ、そこでの知的な刺激の欠如、そして、その境界を一歩外に出たときに出合うさまざまな危険なども、忘れるわけにはいきません。共同体内部の人々には安全と愛情がありましたが、外部の人々には敵意と恐怖しかありませんでした。共同体の部外者であるということは、善くとも一介のよそ者、悪ければ劣等人種、もしくは敵ということだったのです。
 古いドイツの格言に「都市の空気は人々を自由にする」というのがありますが、これは、人々が地域共同体から逃れることによって、より大きな自由を獲得したことを示しているのです。
8  池田 まったく正しいご指摘です。古来の農耕文明の基盤となってきた共同体社会は、人々を全人格的に包容する温かさをもっていました。しかし、それは、同時に、多くの厳しい規律や伝統的慣行をもって個人を拘束する社会でもあったわけです。
 ですから、そのような規律や慣行に対して、何らの違和感もなく自分を溶け込ませられる人にとっては、まったく安心感を与えてくれる、母の胎内のような世界であったでしょう。
 しかし、もし、個としての自覚に目覚め、自己を主張しようとし、規律や慣行に全面的に融和できないものを感じ始めた人にとっては、そうした共同体社会は、牢獄と変わらない、苦痛の世界となったでしょう。
 古い共同体社会に憧憬を抱く人々を考えてみると、実際には、個としての自覚を経験した近代人であることはいうまでもありませんし、ある意味では、現に自分が置かれている環境に対して、人並み以上に違和感を抱いている人ですから、もし、かつての共同体社会の中に放り込まれたとしたら、皮肉な言い方かもしれませんが、最も早く、誰よりも激しく、不満と反感を爆発させることになるかもしれません。
9  近代国家の多くがたどってきた社会変革は、たんに経済組織の発展の結果として意図せずしてもたらされたのではありません。もちろん、そうした一面もありましたが、より根本的には、古い共同体社会のもつ強い拘束力を打ち壊して、個人の自由と平等を実現しようとして行われたものでした。人間の尊厳の本質は、何よりも、個人の自立と自由の獲得にあるとする信念によって、粘り強い戦いが繰り返された結果、勝ち取られたものであったわけです。
 この意味からも、単純に、かつての共同体社会の復活を望むことは、ナンセンスであろうといわざるをえません。共同体社会への回帰がなされることは、それなりに価値もあるかもしれませんが、それも、あまりにも自由の拡大へ傾きすぎたのを修正するという程度にすべきでしょう。この問題の本質は、共同体社会を強くするということにあるのではなく、一人一人の人間の生き方の変革・修正にあることを知る必要があります。
 つまり、社会はたんに人間の外に作られたものとして存在するのでなく、私たちの心の中にもあり、私たちの生きる営みが結果として形成していくものであるということです。
 この、まず私たち自身があり、自身の生き方があって、その結果として社会があるという視点を失ったならば、どこまでいっても理想的な社会に近づくことは不可能ですし、人間としての向上もありえないと思います。
10  ウィルソン 現代人は、地域共同体がもたらしてくれる安心感を必要とし、また、いかなる状況においても差別なく平等に扱ってもらいたいという欲求があり、その両者の間にはさまれて苦悶しているという状態にあります。
 近代都市の非個人的な環境の中では、人々は、往々にして、まるで道具ででもあるかのように、つまり目的そのものではなくて、たんなる手段であるかのように扱われていますが、しかし、少なくとも彼らには、人間としてある種の最小限の尊厳が認められています。そのかぎりでは、彼らも、すべての人が平等に扱われているという認識のもとで行動できるかもしれません。しかし、他方、人々は、往々にしてたんなる非個人的な平等性を超えた、独自の人格として扱われたいと望むものです。自分が特別視され、情緒的に満足するような環境に浸ってみたい、大事にされたい、人々の中に入っていって深い結びつきを体験し、価値観や目的観、慣習やしきたり、一般的な世界観などを共有したい、と願うものなのです。
 人間は、普遍的な倫理の客観性や公正さをありがたく思う反面、ときとして個別的な価値――自分や親族、同族にとっての個別の価値――が十分に表現されるような状況を、誰しも求めるものです。
 都市の発展、大規模化する工場や学校、病院などに見られるように、またマス・メディアの伸展によって示されるように、私たちが生活を営んでいる社会環境はますます非個人化していき、それにつれて、温かみのある、情緒的な人間関係を求めることがますます急務となることが予想されます。
 人々の社会参画の多くが、統合的・合理的・技術的な規定に支配されるようになっているため、それだけ人々は、ますます共同体生活の利点を求めるのかもしれません。
11  現代の世界で、共同体的な価値を提供することができる唯一の機関は、おそらく宗教集団であり、ことに強く帰依している人々からなる宗教集団――すなわち、通常の、深く考えることなく行われていく日常生活のパターンから、意識的に離れて存立しているセクト的集団――でしょう。
 ところが、こうした集団も、まったくさまざまに異なる道徳的・社会的行動の基本原則が行き渡っている、より広い社会的枠組みの中で機能せざるをえません。テクニカルな決まり事で動く非個人的で世俗的な社会体系と、情緒的な宗教的共同体の間の緊張は、依然として解消しないままなのです。
 現代の社会では、このような共同体を樹立したり維持することは、容易ではありません。そこでは、仕事上の要請、現代の社会・経済・政治の各組織、教育、福祉、そしてレクリエーションなどのすべてが、共同体的なパティキュラリズム(特殊主義)とは対照的な仮定に従って動いているからです。
 宗教運動にもまた、現代社会に支配的な組織や機構の形態に自らを適合させようとする、顕著な傾向が出てきています。この傾向は、アメリカで特にはっきりとしており「宗教の内的世俗化(インターナル・セキュラリゼイション)の過程」と呼ばれています。しかし、そうした過程にも、真の宗教的要素が存続するためには、これ以上は進めないという限界があると、私は思います。
 今日、宗教は、緊張した不安定な境界をともなう技術的世界の合理性と向かい合っています。その緊張はどのようにすれば解消されるのか、私たちには、いまのところ知るすべもありません。

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