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政治と宗教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン 現代世界においては、国家制度や、あるいはその国家の中で権力を握る政治家が、かつて宗教がその重要な機能として提供していたような正当化を必要とする国は、もはやほとんどありません。
 かつての国家を単位とする社会の形成期や、あるいはそれ以前の帝国形成期においては、政治的拡張が行われたり、指導者が権威の正当性を主張する場合、ほとんど必ずといってよいほど、組織化された宗教の指導者によって付与される、超自然的な力による保証を必要としていました。
 すなわち、最高位の聖職者が皇帝の頭上に王冠を載せ、皇帝の行う戦争を正当化し、皇帝が名乗る称号を合法化しました。そして皇帝の遂行する政策を認証し、支配者の名において行われるものについては、何であれ、神の命令であるとしたのです。
 一方、政治指導者たちも、たんなる君主制では満足せず、神聖な地位を自ら要求することも珍しくありませんでした。これは、実際、あまりにも頻繁に行われたため、私たちは、世俗君主の神格化をはっきりとした趨勢として見てとることができます。
 最近の数世紀の間に、こうした宗教と政治機関の結びつきは、弱まっています。民衆の声が、神の声に代わって、近代国家における首長の正当性の源泉となっているわけです。この傾向は世界の二大強国、無神論のソ連と世俗的なアメリカに、共通の現象です(もっとも、アメリカでは、宗教は、今日でももちろん栄えていますが、本質的に私的なこととされ、州政府や連邦政府との結びつきからは一切分離されています)。
3  ヨーロッパでは、宗教と政治の結びつきは、イングランド、スコットランド、スカンジナビア諸国等の国教会では、引き続き残存しています。しかし、こうした国々ですら、両者の関係は、あくまでも宗教と王政の間だけのことであり、その王政もいまや純粋に政体上、名目上のもので、もはや現実の政治権力の焦点ではありません。こうした両者の結びつきは、聖なるものの、きわめて象徴的な二つの表現形態の結合であるといってよいでしょう。
 西洋諸国の宗教は、国家が強力になるにつれて、公的な問題に対する影響力を失ってきています。もっとも、ヨーロッパのいくつかの国々では、キリスト教の価値観に立脚していることを明確に宣言している政党もあります。しかし、彼らがそうして宣言しているのも、実際には、彼らが種々の世俗化の措置に反対し、また概して教会を支持していることを有権者に思い起こさせながら、たんに歴史的な意義を留めるためだけの、名ばかりのジェスチャーにすぎないようにも見えます。
4  これに対して、アメリカ政界の保守派と、アメリカの回心体験を重視し聖書を文字通り信じようとする根本主義的キリスト教徒との間には、選択的親和性ともいうべき、もう少し流動的で、形式ばらない関係があります。
 イギリスでは、一般に、宗教は政治の領域を超越したところにあるものとみなされています。いまだに教会と国家の結びつきが残存しているにもかかわらず――いや、もしかしたらそれ故に――そのように考えられているのです。つまり、君主が教会の現世における首長であるならば、教会は、君主と同様、政治的葛藤から隔離されているほうがよい、という考え方です。イギリス人の妥協の精神と、非国教徒への比較的寛容な態度のおかげで、イギリスでは、フランス、イタリア、さらにはスペインといった国のように、教会の影響力を弱めるために進歩的・合理主義的・自由主義的なタイプの政党が出現し、それが反教権主義の手段になるといったことは、必要なかったのです。
5  しかし、あなたが提起された問題には、もっと広いさまざまな意味が含まれており、それらは本質的に倫理的なものです。つまり、一般に高等宗教が奨励してきた真理や愛他主義の原理は、どの程度まで政治的表現や行動に影響を与えうるのか、という問題です。政党は、権力を目標にして組織されているため、おそらくは、権力に関心のある人々を惹きつけることでしょう。国家という領域での権力獲得が、その究極の目標であるわけですが、そこには副次的な目標として、党内での権力闘争がほとんど不可避的に生じてきます。こうしたゴール・ディスプレイスメント(目標の置換)――すなわち長期的目標が曖昧となり、より目先の目標がこれに取って代わる過程――の可能性は、おそらく政党においては、特に生じがちだといえましょう。
6  政治家のある者は、たんなる組織人になってしまいます。彼らは、本来、その達成のために政党が生まれたはずの原理・原点よりも、むしろ政党そのものに忠誠を尽くすようになってしまうのです。また、ある政治家は、自己の出世の手段として政党を利用したり、あるいは堅固な利権を築き、政党内での権力を用いて、どのような目的であるにせよ自己の目的を達成して、その利権をますます強固にしたりします。さらには、長期の高邁な理想を犠牲にして短期の利益を求める人々が、御都合主義の離合集散を繰り返し、その中で、現代政治の特徴であるあらゆる取り引きや妥協が行われます。
 宗教に献身してきた人々が“宗教政党”を作って、政治の分野で活動しようとする場合、彼らはそれによって、自分たちの原理・原点を危険に晒すことになるということを知らなければなりません。なぜなら、政治領域での役割や規則は、彼らの宗教体験とはまったく異質のものだからです。政治の世界には独自の緊張があり、独自の要請や責任、独自の関係や社会的行動のパターン、そして独自の倫理があります。
 すでに政治的プロセスの中に入る以上、宗教に献身してきた彼らも、政治家として政争の駆け引きを学ぶようになりますし、また、宗教的聖域内とはあらゆる面で異なる社会的空間の中で、しかも、まったく異なる優先順位での規定に関心をもつ人々が考え出す想定のもとで、行動するようになります。
 非宗教的な他の政党の政治家たちが、彼らの判断の拠りどころとなるリファレンス・グループ(準拠集団)となり、それら他党の政治家たちの期待や基準にも、対応しなければなりません。こうした状況の中では、利他的な奉仕という、彼らが本来掲げたビジョンを保ち続けることは困難でしょう。
7  もちろん宗教者の中には、自分たちの宗教組織内においても、すでにこの種の政治的行動を身につけた人たちもいます。およそ目指すべき現実の権力が存在する階級的な組織や中央集権的体制ならどこでも、またさほどきちんとしていない組織・体系においてもそのいくつかでは、常に権力闘争が生じるものです。これはたとえ、しばしば宗教の特徴をなしている恭順とか服従の精神が強調されている場合でも、変わりのないことです。
 宗教組織は政治的側面をもっており、それは世俗社会への関わりにおいてだけでなく、自組織内の運営や、大衆に向けての自己表現においても見られます。中央集権化すればするほど、またきちんと組織化すればするほど、そうした政治的側面は、なお一層、顕著になる傾向があります。
 これが最も顕著に現れたのは、おそらくローマ・カトリック教会においてでしょう。ローマ・カトリック教会は、世俗権力の正統化にあまりにも深く関与しましたし、また、世俗権力も、教会の宗教的事項についての(霊的)独占権を維持することや、教会当局への信頼感を高めることの中に利益を見出したため、教会の最盛期においては、宗教権力と世俗権力がたがいに補強し合いながら、偏狭さと宗教的不寛容、さらには宗教弾圧を推し進めていったのです。
8  池田 教授は、政治家が、本来の利他的目的を見失って権力追求を目的としがちであること、宗教者も、組織化が進むにつれ、また政治に関与することによって、権力追求に陥る危険性をもっていることを指摘されました。
 過去に宗教、特に仏教が、世俗の権力から離れた、静かな山林に修行の場を設けたのは、一つには、この世俗的権力追求の欲望に毒されまいとする配慮からであったといえます。それでもなお、多くの宗教は、現実の政治と無縁ではありえず、世俗権力に影響を及ぼそうとしたり、逆に、世俗権力に結びついて(主として宗教界における)己の優勢を確立しようとしたのでした。
 このような、宗教自体が政治の毒性に侵される危険性についてのご指摘は、私たちとしても、どこまでも自らに戒めていかなければならない、大事な点であると考えます。
 しかし、それと同時に、教授が指摘された、政治家がその本来の理念を喪失して、権力追求に溺れる傾向性をもっているということこそ、現代の社会が切実に苦悩している問題ではないでしょうか。政治家や政党の本来の理念、彼らが国民に対してもっている責任は、民衆の幸福の増進であり、特に、そのための平和社会の実現・維持ということであると思います。そうした政治家が堅持すべき精神は、一言でいえば、慈悲に他なりません。
9  権力欲というエゴイスチックな欲望に引きずられやすい政治家が、人々の福祉への貢献という、慈悲の精神をその言動の根幹としていくようになるには、どうすればよいか。
 人間の本性について悲観主義的な人は、このこと自体を絶望視し、一笑に付すことでしょう。私も、それが容易でないことは、十分に認識しているつもりです。事実、歴史を振り返ってみるとき、権力者が、一人の君主から、民衆の選挙による代議員の合議制や、選出された政党による内閣制に変わっても、期待されたほどの理想的政治が実現しなかったばかりか、かえってより悲劇的な事態を招いたことさえありました。制度改革によってこの人間の本質が変えられるものでないことは、あまりにも明らかです。
 仏法は、この最も困難な課題である人間自身の内面的変革を目指したものであり、仏法の信仰とは、自己の人間革命への挑戦に他なりません。もちろん、これも、一挙に変わるものではありませんし、他の人を外から変えることもできません。あくまで、それを自覚した人が、自己の成長と変革を目指して弛みない努力をしていくところに、初めて可能となるのであり、一生涯が、その変革の過程であります。
 したがって、仏法を信仰したから、すでに理想的人格になっているというわけではないことは、いうまでもありませんが、少なくとも仏法を学ぶことによって、自己変革の必要性を意識するようになりますし、着実な信仰の実践によって徐々に変革し、成長していくことができます。
 しかも、政治家の権力欲を支えているものは、じつは選挙民である民衆の利欲でもあり、人間革命は、たんに政治家のみでなく、民衆自体の課題でもあります。一人一人が、利己よりも利他を、欲望のあくなき追求でなく自己抑制を目指すことが必要ですし、また、それを実現するために、自己の人間革命に努めるべきです。
10  私たちが公明党を生み出し、政界に人材を送ったのは、右のような考えからで、仏法を持って人間革命に取り組む人々によって、現代の政治の権力欲への傾斜を、少しでも是正したいと願うからに他なりません。
 私自身は、あくまでも創価学会という信仰実践弘教の組織に指導責任を負っているのであって、公明党に関しては、支持はしますが、政策決定、活動、人事等、一切干渉はしていません。信仰団体としての創価学会と、政党としての公明党は、それぞれに自律性をもった、まったく別個の組織体です。
 ただし、党創設にあたっては、仏法の理念のうえから、目的は仏法の慈悲に立って、民衆の福祉への貢献、世界平和の確立・維持に尽くしてくれるよう要望していますし、それは今後も堅持されていくと信じています。
 むしろ、信仰団体・創価学会の指導責任を負う私として何よりも心しなければならないことは、この信仰組織の中に芽ばえてくる権力欲を抑制し、純粋な仏法信仰の精神を組織のすみずみにまで、あらゆるメンバーの心の中に徹底し、維持していくことです。
 過去の多くの宗教が、巨大組織化するにつれて、本来、宗教としてはそれなりに優れたものをもっていても、結局は堕落し、形骸化して、凋落していった根本原因は、まさにこの権力欲に毒されたところにあったと思います。
 教授が指摘された点を、私たちも、きわめて貴重な示唆として受け止めていきたいと思うものです。

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