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ガンジー主義への評価  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  ウィルソン ガンジーが行ったような消極的抵抗運動の優れている点は、たしかに、ある特定の信条を推進しようとする者や、抗議を表現しようとする者の側に、非常に高度な自己鍛錬、公平な精神、客観的視野などが要求されるということです。
 あらゆる形態の政治的抗議にまつわる根本的問題は、自分たちは正しいと強く信じる人たちが、その感情に身をまかせて暴力や破壊の行動に走る傾向があるということであり、彼らはときとして、目指しているはずの目標にまったく反する行動をとる場合さえあります。
 もし、自由の獲得のため、外国の支配者からの独立のため、あるいは基本的人権のために戦っている人たちが、彼らの抵抗を非暴力で通すよう自らの行動を規制できるならば、彼らの自己抑制の徳は、それ自体の価値によって、彼らの信条に道徳的重みを加えるに違いありません。
 もちろん、そのような自制心を涵養することは、理性と寛容の風土の中で教育された教養人にとってさえ、難しいことです。ましてや、教育を受けていない人々にとっては、そうした自己抑制は、はるかに難しいことです。彼らは、抑圧されているという意識を抱いているため他のすべての価値を認めることができず、そのため目標を達成するためのいかなる手段も、彼らの情熱によって正当化されてしまうようです。
3  しかし、ある人々は――ガンジーもその一人でしたが――その厳格な自己抑制の徳の故にこそ、まさに偉大ともなり、尊敬を得てもおります。そして彼らは、自らの主義のために暴力に訴えることを認めた他の多くの国民的・政治的英雄の中にあって、傑出した存在となっています。しかし、そうした自制心強き指導者に感服し、褒めそやす人々が、必ずしも彼らと同じ高潔な倫理的勇気や、卓越した振る舞いを示せるとは、もちろんかぎりません。いわゆる“聖者”は、人々にとって真似のできる手本となるよりも、むしろ、当初、本人が標榜した価値基準とあらゆる点で対立する行動のスローガンに、その名前が利用されることのほうが多いのです。
 私にとってガンジーが重要なのは、彼の政治的・道徳的抗議の技術面での模範としてよりも、むしろ、ある種の、最高度に洗練された自己抑制の模範としてです。自己の感情の束縛を断ち切るためには、質の高い自己抑制と同時に、高度な自己批判や自己反省を必要とします。それはまた、人々に、人間関係の行為においても不可欠であり、あらゆる社会的発展のためにも不可欠なものとして、秩序と礼儀と他人への尊敬が必要であることを、認識するよう求めます。
 自分にとって最も深い関心事を、じっと冷静に見つめることができるということ、また、自分の力の限りの努力さえも評価されずに終わってしまうかもしれない立場に、わが身を晒せるような寛容、忍耐、内的資質を身につけること――これらは、きわめて高度に洗練されていることを示すものです。
 感情を交えずに、安定感のある、粘り強い、しかも、一歩も譲らない態度で取り組んでいくということは、倫理的振る舞いの頂点を極めたものといえましょう。人間の最も奥深い感情が掻き乱されるときにどう振る舞うかが、私たちがどこまで洗練されているかの尺度なのです。
4  池田 思うに、イギリスの植民地支配は、全体的には他のどの国よりも巧みでした。特に、鉄道など、今日のインドが恩恵を受けているものも少なくありませんが、しかし、他国から支配されること自体、誇り高いインド人にとっては、耐えがたいことであったはずです。
 また、植民地支配下でイギリス人から受けた仕打ちには、インドの人々にとって、激しい暴力手段に訴えないでは気持ちのおさまらないものが、多々あったことでしょう。だからこそ、ガンジーは、非暴力の抵抗をインド人に教えるのに、並々ならない苦労をしたのでした。
 長い間の、植民地時代の屈辱や悲惨のみでなく、独立を求めての運動に対して、帝国権力は強大な力と残酷な手段で抑圧しましたから、その中で非暴力抵抗主義を貫くことは、たいへんな自己との戦いであったと思われます。しかし、教授も言われたように、ガンジーは「最高度に洗練された自己抑制の模範」を示したわけです。
 もし、このガンジーの実践を全人類が模範とするなら、現代における人類の最大の災厄というべき、国同士の争い――なかんずく戦争――をなくすことが可能となるはずです。
 人類がそこまで自己抑制をなしうる文明人に向上しないかぎり、国際社会での紛争を暴力の応酬によって解決しようとする愚かさから、脱却ることは不可能でしょう。
 暴力に訴えることは絶対に“解決”にはならず、応酬は無限に続き、暴力性はますます激しくなっていくに違いありません。否、歴史はこのことを、数えきれないほどの事実をもって教えてくれています。
 たしかに、ガンジーのような“聖人”ともいうべき人と同等の精神的な力をもって行動することは難しいでしょうが、一人でも多くの人が、一歩でもそれに近づいていこうと努力すべきです。そして、それは、日常生活では多くの文明人が行っていることなのですから、私は可能であると考えます。
5  (注1)ガンジー(一八六九年―一九四八年)
 インドの政治家、無抵抗主義者。インド独立の父と仰がれマハトマ(偉大な魂)と呼ばれる。英国に学び弁護士を開業、南アフリカで人種差別法令の撤廃に努力し、ついで無抵抗、不服従、非暴力主義をもってインド独立に尽くした。独立の翌年、ヒンズー教徒に射殺された。
 (注2)ソクラテス(前四七〇年―前三九九年)
 古代ギリシャの哲学者。アテネの人。毎日、市民と哲学的対話を交わし、自身の最も大切なものを教えようとした。この努力は受け入れられず死刑に処せられた。その教説を弟子のプラトンらが『ソクラテスの弁明』『パイドン』等にまとめた。
 (注3)聖フランシス
 (一一八二年ごろ―一二二六年)イタリアのフランチェスコ修道会の創立者。アッシジの生まれ。修道生活に高い理想を実現しようとした。

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