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死刑廃止への賛否  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン 現在の死刑賛成論の大半は、犯罪抑止力への期待に基づいているようです。しかし、そうした抑止力を実際に証明するとなると、これは評価が難しくなってきます。
 たしかに、激情から生じる犯罪は、刑罰の軽重に関係なく発生しているようです。これに対して、不法な利得を得ようとして犯される罪は、刑罰の軽重によって影響されるかもしれません。
 たとえば、強盗が、逮捕されたときに武器を持っていなければ罪が軽くなることを知っている、といった場合が、これにあたります。刑の軽重がもつ影響性という一点だけから、殺人の統計を判断することは、残念ながら困難です。しかし、押しなべてみれば、たとえ逮捕される可能性がさほどない場合であっても、逮捕されるかもしれないという心配のほうが、どんな刑罰よりも大きな抑止力になっていることは、疑いのないところです。
 報復的な処罰という考え方は、西欧諸国では、知的に受け入れられなくなってきています。西欧では、死刑の問題についての公の論議に参画している人々の大半は、洗練された感覚の持ち主で、彼らにとって報復という概念は魅力的でないことは確かであり、ときには理解しがたいものです。彼らは、現代文明はすでに懲罰の必要性をほぼ超越した段階に達していると信じたい気持ちをもっており、私もそれにはかなりの共感を覚えております。しかし、私は、一般大衆の間では、報復的処罰への要求がまだかなり強いのではないかと思います。したがって、私自身は、法的判決の適切な基礎として、復讐的動機を支持することはしませんが、こうした大衆の感情をまったく無視することもできないと思っています。
3  西欧諸国では、理論上は、民衆の意志が政治家によって実行されるという、民主主義体制が機能していますが、多くの問題があまりにも専門的すぎて、大衆の意志が正確に反映されにくいということがあります。
 しかし、死刑の問題の場合は、論点をかなり簡略化できますし、国民投票に付すことも容易でしょう。私は、民主主義の価値を主張する人々ならば、この種の問題について大衆の意見を考慮に入れる義務を、そう簡単に無視することはできないと思います。それは、たとえ彼らが、死刑の問題に対する態度について、大衆に再考を促す教育を推進しようとしたとしても、同じことでしょう。
4  池田 たしかに、大衆の意志が看過されることがあってはなりません。また、同じ殺人といっても、同情すべき状況の中で犯したという場合もあれば、まったく同情の余地のない殺人もあります。私も一個の人間として、特に最近、日本でも多くなっている凶悪犯罪のニュースを聞くにつけ、そのなかには死刑にされてもやむをえないと思う例も少なくありません。
 しかし、死刑にするかしないかは、国の法律に照らし、司法機関によって定められるわけですが、法律を定めるのも、判決を下すのも、死刑を執行するのも、生きている人間です。裁判には誤りもありえますし、死刑執行者は、現実に人の命を絶つ行為をさせられるのです。どんなに憎んでも憎み足りない凶悪犯であっても、その生命を絶つ仕事をさせられるのは、人間として嫌なものであろうと思います。
 のみならず、人間は、一時的な衝動によるだけでなく、誤解や間違った考え方のために罪を犯し、後になって後悔することもあります。若いころ凶悪な犯罪人であっても、年を取ってからは悔い改める人もいます。たとえ獄からは出られなくとも、悔い改めた人が、その人生を罪の償いと社会への貢献のために費やしうる機会が与えられることが、私は望ましいと考えます。
 だからといって、すべての人が私と同意見になるべきだというわけではありませんし、まして家族や知り合いが殺されたとき、殺人者に対して抱く憎しみの心は、私もよく分かるつもりです。ただ、憎しみの心をどう克服するかということも、私は人間の課題であると思います。
5  ウィルソン 殺人者に対する死刑賛成論は、たぶん二つの要因から強まっているのだと思います。一つには、今日、刑務所は犯罪者にとって、しだいに居心地のよい場所になっていると、多くの人が思っていることです。新聞記事は、牢獄での生活が、多くの大衆がこうあるべきだと考えているほど苛酷でないことを、定期的に報道しています。
 またもう一つには、近年、西欧諸国で、身の毛もよだつような、非道な殺人の異常事件がいくつか起きていることが挙げられます。アメリカでは、まったくのサディスティックな動機によるものや、または異常な性行為に関連した大量殺人事件が、いくつか起きています。
 イギリスでも、数人の幼い子供たちを、共謀して殺害した連中が、現在、投獄されています。現にいま、私がこうして執筆している最中にも、野蛮かつ残忍な手口で数人の若い女性を殺害し、五十万市民を(注1)恐怖に陥れたある男を、警察が探索中です。その他にも、カネのために殺人を請け負う殺し屋がいて、何の罪もない人たちを殺害しています。そのなかには「仕事の邪魔になる」というだけの理由で殺された子供さえいるのです。
 また、何の罪もない人々の生命が絶たれることには目もくれず、たんなる政治上の宣伝のために、爆弾を爆発させた多くのテロリストもいます。彼らは、たんに自分たちの目的だけのために、無謀にも罪なき生命を犠牲にしたのです。このようなタイプの犯罪すべてに対して、イギリスの世論は、何年か前に廃止された死刑の復活を、おそらく圧倒的に期待しているものと思われます。
6  池田 大事なことは、生命の尊厳に対する意識が、どのように、あらゆる人々の心の中に定着するかです。死刑廃止が実現されても、民衆全般の中に生命を軽視する風潮が強まれば、死刑にならないことを悪用して、残忍な犯罪が頻発することになります。
 日本では、九世紀から十一世紀まで約三百年間にわたって、死刑が行われなかった時代がありました。その背景には、仏教の信仰があり、殺人を犯した報いとして地獄に堕ちることの恐ろしさが、広く人々の意識に定着していたのです。もとより、この時代も殺人がなかったわけではありませんし、戦闘もいくつかはありました。しかし、社会の支配的立場を占めたのは、教養と文化を重んじた宮廷貴族であり、武士は、彼らに仕える立場でした。都の京都は「平安京」と名づけられ、優雅さが何よりも喜ばれていました。
 残念ながら、やがて仏教は煩瑣な儀礼と迷信に堕落し、それとともに、生命を尊ぶ風潮は廃れて、争いを事とするようになり、それにつれて武士階級が主役になり、殺伐とした犯罪や謀反が続発するのに対応して、刑罰も残虐化していったのです。ここには、まさに悪が悪を呼び、残忍な犯罪が残虐な刑罰を求めるという、悪循環の様相があります。
 この悪の連鎖を断ち切って、平安の世を実現するには、その土壌として、生命を尊ぶ思想、生命の尊厳を重んずる精神が、あらゆる人々の中に確立されなければなりません。ただちに平安の社会を実現することはできないとしても、こうした努力は、必ずこれまでに見られなかったような、健康的な社会を現出させていくものと信じます。
7  ウィルソン あなたの生命至上主義に対する強いお気持ちは、私の深く尊敬するところです。私としては、生命を宣揚しようとするあらゆる誠実な努力と、人間の(動物性と峻別すべき)人間性を高めるすべての事柄には、全面的に賛同したい気持ちです。しかし、私は、利得を求めて犯す殺人、テロリストが犯す殺人、それに、(これにはさらに慎重な定義づけが必要とされるでしょうが)私が非道でサディスティックな殺人と呼ぶものについては、深い懸念を抱いています。
 このようなタイプの殺人に対しては、イギリスのような死刑廃止国で用いられている方法よりも、さらに強力な措置が必要なことを、大衆も強く感じていると思うのです。
 人間生命への至高の尊重は、有罪を宣告された殺人者の保護によりも、むしろ、犠牲者になりかねない人々への保護や保証にこそ、いっそう及ばなければならないと思います。もし、死刑に少しでも犯罪への抑止効果があるのであれば、またはもし一般大衆がそのような効果があると信じ、そこから慰安と安心を得るのであれば、私がさきほど述べた三つのタイプの殺人に対しては、死刑は正当化されうると思うのです。
 これはある人々の意見であり、考慮に値する観点でもあるのですが、彼らは、出獄の見通しが一生涯ない終身刑の宣告は、それ自体、生きながらの死であり、すみやかな死刑の執行よりもさらに効果的に、生命の尊重が意味するものすべてを否定することになる、と言っております。それはともかくとして、ときにはたんに生対死ということが問題なのではなく、むしろ誰を生かし、誰を死なせるかが問題なのだ、という場合も生じてくるかもしれません。もしそのような選択が効果をもつことがあるとすれば、私は、罪なき人々を生かすほうを選びたいと思っています。
8  (注1)五十万市民イギリスのリーズ市(Leeds)では一九八〇年代初期に、殺人鬼が夜間街中で若い女性を待ち伏せて殺害する事件が頻発し、市全体が恐怖に陥った。
9  池田 ただいま述べられた、社会や制度における宿業(カルマ)の作用というとらえ方には、私も全面的に賛同します。私には、個々の人間が集合して構成している社会も、一つの超生命体のように感じられます。社会は独自の運動法則をもち、成長し、増殖する働きをもっています。また、社会には自己再生能力のようなものも内包されているようです。これらの機能は、私には、生命体特有のものと思われるのです。

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