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自殺は認められるか  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  自殺は認められるか
 池田 日本では、老人の自殺率が昔から上位を占めてきましたが、最近は、残念なことに青少年の自殺も急増しております。
 さて、自殺の問題に関しては、古来、哲学や宗教の分野から、肯定論と否定論がさまざまな形で提示されています。
 宗教の分野では、ユダヤ教もキリスト教も、自殺を、神の意志に反するものとして罪悪視してきたようです。
 仏教においては、宗派によってさまざまな考え方があり、なかには現在の人生を無意味なものとして、自殺を肯定するようなものも過去にありましたが、法華経の教えでは、人間生命それ自体の尊厳性を主張し、その生命を生き抜いていくところに人間としての価値があると教えます。したがって、たとえ自己の生命であっても、生を断つことは、人間の尊厳性を自ら放棄することと同じになります。法華経を根本とする仏教は、自殺を否定するとともに、自殺に追い込まれた生命自体を、その奥底から蘇生させ、再び生きる勇気を湧き立たせようとするものといってよいでしょう。
 アメリカの精神病理学者カール・メニンガー(注1)によれば、自殺行為の底には、必ず、「殺したい願望、殺されたい願望、死にたい願望(注2)」があり、これらが混在しているといいます。このような、種々の願望とそれを作り出す衝動のエネルギーを昇華し、生への力としていくところにこそ、真実の宗教の役割があると私は考えます。
 教授は、こうした自殺に対する考え方について、どのように評価されますか。
2  ウィルソン 自殺についての社会学的考察によると、個人の生への意欲の強弱は、社会環境による支えがどこまで適切になされているかによって決まるとされています。現代の西洋社会では、自殺率の増大は、一つには、現代生活における個人主義化が強まったこと、そしてもう一つには、地域共同体が、現代の科学技術に基づく秩序の影響を免れえなかったことが原因であると、一般に考えられています。
 現代社会は、巨大都市への人口集中、郊外からの通勤、マス・メディア、役割間の関係などが日常生活を支配しているため、ますます非個人化しており、そうした状況の中で、多くの個人は孤立感や絶望感を抱くようになっています。こうした全般的な条件に加えて、さらに、ときとして社会の諸価値が崩壊したり、混乱に陥ったりして、社会の規範や慣習が曖昧化したり、不確かなものになっています。これは、社会学的には“アノミー”(規範喪失(注3))として知られている状態ですが、こうした状況の中では、自殺率も、ときに劇的に上昇する傾向があります。
3  また一方、これも指摘されてきたことですが、たとえばアジアの、特に日本の特徴となっていたような、強力な伝統的文化にあっては、個人に加わる社会的圧力が非常に強く、社会的名誉を獲得し、維持するための努力や順応性が要求され、そのために個人は、もはや責務を負いきれないと感じる状況に追いやられ、そこから自殺へと追い込まれる、ということもありえます。このようなケースでは、社会の規準や価値が強力すぎて、そのために個人の生命の価値が低められているわけです。
 しかし、こうした伝統の重圧というケースは、今日ではあまり重要性をもたなくなっています。現代の社会にあっては、道徳上の規制が往々にして寛大になっている反面、狭義の知的ないし経済的次元での個人の成功が、大いに尊重されることが多くなっているからです。強い欲求をもちながらこのペースについていけないと感じる人々は、自殺に追い込まれる可能性があります。その原因としては、彼らが自分を失敗者と思い込んだり、同年配の人々や仲間や親類の手前、恥ずかしさに耐えられなくなる、ということが挙げられます。
4  非常に多いケースとして、自殺の危険に晒されていると見られるのは、新しい役割からの期待になかなか順応できないでいる人々や、自分の役割が明確に定まっておらず、社会との絆が薄弱な人々です。老人は、現代生活への適応に困難を感じ、自分が無視され、同時に“邪魔者”になっていると思い込むことがときどきあります。学生の場合は、期待されるところが大きく、またその新しい役割の結果、家族との結びつきが薄くなるため、特に、きわめて狭くて強い動機に動かされた場合に、非常に危険な状態になります。彼らは、成功とは何かということについて、非常に狭い考えをもつ傾向があります。
 今日では、健全な人格、人間的な温かさ、寛容力や慈愛の深さ、幅広いアマチュア技術などは、もはやあまり高く評価されなくなっていますが、これは、現代の社会制度が高度に専門化したことから生じた、一つの悲劇です。いま挙げたような種々の能力は、かつては日常生活の中で非常に尊重され、人々は、それらを通して人格的な価値とか尊厳などへの理解を、もう一つの別の角度から、もしくは諸々の角度から引き出すことができたのでした。このように、別な角度からの、自分なりの評価の焦点をもつことによって、人々は、たんなる知的な成功とか経済的な成功への度外れな偏重に陥ることもなくなり、また、往々にして自殺への傾向を生み出している恥辱感や孤独感や、自分は役立たずだという感情に囚われることもなくなるのではないでしょうか。
5  これまで人々に希望を与え、自分の内に潜む価値を自覚させてくれたのは、概ね宗教の働きによるものでした。そしてまた、宗教は、現代のように世俗化した社会にあっても、なお多くの人々に対して、人生への積極的な姿勢を助長し、人間としての特性を評価する別規準を奨励していく役割を演じていくことでしょう。
 私たちは、もちろん、種々の教育機関を通じても、人々に、自己の潜在能力や内的な資質を自覚させる機会を与え、そこから、その人が自らの価値を見出す感覚を、伸ばしてあげなければなりません。しかし、そうした目標を奨励し、人間心理に潜むと思われる攻撃的な性質を善い方向へと昇華させる最大の機会は、やはり、宗教にあるといえましょう。
6  池田 現代においては、国家機構や巨大企業に代表されるような、巨大な規模での組織化がますます進んでおり、そこでは、一人一人の人間は部品化されるばかりです。一人の人間を人格的存在として認め、擁護するような人間同士のつながりは失われる一方です。教授が指摘されるように、まさしくここに、現代の自殺増大の最も大きな原因の一つがあると、私も思います。
 しかし、そうした人間的な環境の変質の根底をさらに探ると、やはり、人々の“生きることの尊さ”への意識が薄れていること、そして生き抜いていこうとする意欲、いわば生命力というべきものの弱体化といった、人間の内面的なものに、より根本的な原因があるといわなければなりません。
 端的にいえば、自殺とは生きることの“尊さ”を見失うことによる、精神の破綻といえます。生きることの尊さを自覚させてくれるものとしては、一つは、自分がこの人生において何をしたいかという目標・理想をもつことです。それをもっている人は、たとえ、どんな厳しい環境にあっても挫けることはないでしょう。目指す目標を達成し、理想を実現するためには、生き抜かなければならないからです。
7  しかし、すべての人が、自己の人生において、そうした明確な目標や理想をもちうるわけではありませんし、一つの目標を達成してしまって、そのために目指すべきものがなくなってしまったという場合もあるでしょう。そうした、はっきりした理想や目標がなくとも、生きることの尊さをより多くの人に自覚させてくれるのが、第二に挙げたい人間的信頼の絆です。たんに自分が誰かから信頼されているというだけでなく、自分から積極的に他の人のことを考えるようになることが大切です。
 宗教は、たとえば仏教で説く成仏のように、現在の人生の途中で終わってしまうことのない目標を教え、また、仏教の慈悲のように、他の人々への思いやりを教えます。もちろん、さきにも申し上げましたように、すべての宗教がそうしたものを教えているわけではなく、仏教のなかにさえ、これとは逆行する教えもあります。したがって、未来への希望と、他者への心の広がりというこれらの点について、どのように教えているかが、ある意味で、宗教を選択するうえでの基準とされてよいのではないかと思われます。
8  (注1)カール・メニンガー(一八九三年―一九九〇年)
 現代アメリカの精神病理学者・精神分析学者。ハーバード大学卒業後、メニンガー・クリニックを設立。精神分析の臨床・研究に多大の業績を残しただけでなく教育者、文筆家として幅広く活躍。著作も数多く翻訳されている。
 (注2)「自殺に関する精神分析学的な考え方」(Psychoanaly ticAspects of Suicide)『こわれたパーソナリティ』所収、(草野栄三良・小此木啓吾訳、日本教文社、昭和三十七年刊)。
 (注3)アノミー(規範喪失)
 戦争や革命、危機などの社会変動によって伝統的な権威や規範、価値が失われ、その結果、個人の行動も無統制となり、社会組織の全面的無秩序を引き起こす状態。〈社会の崩壊〉〈人格の崩壊〉〈脱道徳的現象〉の意味も含む。

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