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普遍的生命と個別性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  普遍的生命と個別性
 池田 人間は、死について、さまざまな考え方をもっています。ある人は漠然と、死を生命の消滅と捉えており、また、ある人は自己の思索・経験等を基盤に、死後の生命の存続を信じているでしょう。
 細かく見れば、死生観は人それぞれによって千差万別ですが、大きく分類すれば、次の二通りになると思います。
 一つは、生命は現世だけで、死ねばまったく無に帰するとするもので、もう一つは、何らかの形で死後も生命は存続するとする立場です。
 最初の現世主義の立場にも、一回限りの生であるが故にこそ、この生を充実しきって生き抜こうと決意する人もいます。その場合、人間は、自己の仕事、子孫、人類への貢献の中に、自己の生の証を残していこうとします。しかし、多くの人たちは、快楽主義に溺れたり、また逆に、ペシミズムに陥ってしまうことでしょう。
 次に、生命の存続を主張する立場ですが、これには、天国とか、西方浄土等の世界があって、そこで存続していくと考えるものもあります。また、大宇宙にみなぎる“永遠なる生命”に融合してしまうと考える立場もあります。彼らの中には、永遠なるものとの出合いは、生きている現在にも可能であるが、死後は、この永遠の生命と一体となると考えるのです。
 仏教では、死によって生命は宇宙生命と融合するが、やがて自身の内にはらんだ業の力によって、再び、死から生へと転生すると考えます。こうして無限に生と死を繰り返していくというのが輪廻転生(注1)説です。
2  いずれにしても、生命が死後も存続することを本当に信ずれば、生命の断絶という恐怖から逃れることはできましょう。また、仏教の輪廻説の立場に立てば、業の問題と真正面から対決せざるをえなくなりましょう。なぜなら、人間の現世での生き方が、どのような業力(注2)を刻印するかが、重大な問題になるからです。そこから、現世での生き方を自身に問う姿勢も生じてくるはずです。
 私は、人間の死生観についての宗教の役割は、現世主義の横行する現代社会にあって、少なくとも、生命の死後存続を一笑に付することなく、真剣に取り組む課題として取り上げるように、現代人を導くことにあるように思います。できうれば、大宇宙との融合という課題をともに考えることが、宗教者に課せられた使命ではないかと思います。この点に関して、教授のお考えはいかがでしょうか。
3  ウィルソン 仏教の生命観、個別性と集団性についての概念は、西欧思想やキリスト教思想、なかんずくプロテスタント思想に浸透している、非常に強烈な個人の主体性の意識とは著しい対照をなす、一つの知的伝統の典型です。
 キリスト教のものの考え方には、個人的な自我が、仏教の場合よりもはるかにくっきりと描き出されています。西洋思想に充満するこの強烈な自我意識を考えれば、人々の間で、死後の褒賞と刑罰という超経験的な体系の概念がいったん信じられなくなったとき、それまで各人の行動の道徳性を支えていた支柱が非常に弱くなったのも、当然の帰結であったといえましょう。
 それまで広範に見られた、死後における個人の救済という関心事は、結局、現世での私的満足の追求へと変容していき、これが、西洋社会における支配的な行為の動機づけとなったのです。
 今日の西洋の社会制度の特徴は、個人の利益と快楽を至上の価値として、それをできるだけ組織的かつ合理的な方法で追求すべきものとしているところにあります。これらの価値は、西洋の生活における常識的な論理を構成するにいたり、あらゆる個人は何よりも富と福祉の組織的な獲得に動機づけられて行動する、という仮定に立って、社会の構造が動いています。
 人々の関係は契約によるものとなり、契約はまったく個人の利益のために結ばれます。国家は、自由企業に対して不干渉を決め込み、経済問題への干渉は最小限に止め、宗教的で、本質的に道徳的な過去の制度の残滓を、着々と捨て去りつつあります。
4  現代の世界では、行為の実質的もしくは本質的な特性を示すものよりも、むしろ技術的で道具主義的な考慮のほうが、ますます価値あるものとして現実を動かすようになっています。このようなタイプの社会での価値体系は、自己中心的なものとなります。
 また、道徳基準というものは、本来、必然的に集団性の表現であるのに、こうした道徳基準は、個人に対して、公共の責任性よりもむしろ私的利益の重要性を勧めているといってよいでしょう。アメリカ人はもちろんのこと、スコットランド人、イングランド人、フランス人、イタリア人など多くの西洋諸国民が、自分たちがいかに強い個人主義者であるかを誇りにするのも、別に不思議なことではありません。もっとも、その個人主義には、多くの場合、自己中心主義のマイナス面がきわめて顕著に現れており、それは人々が、一方では競争的な攻撃心を正当化しながら、他方では集団的利益のために犠牲を払う必要性から逃れるための、言い訳となっています。
 これに対して、日本のような仏教国では、工場でも、学校でも大学でも、また市民団体においても、集団への献身が活発になされており、身勝手で自己中心的な振る舞いを抑制しようとする意欲が大いに見られます。
 日本文化のこうした側面を見ると、ある種の西洋人はたちまち感動してしまいます。もしかしたら、これは、個人の生命が宇宙の生命と調和しているという、仏教の概念に由来するものなのでしょうか。
5  池田 いえ、それは必ずしもそうとはいえません。日本人の生活意識の基盤にある、集団への帰属という性向が、個人の生命と宇宙の生命との融合という仏教の概念に由来していると論ずることには無理があります。
 なぜなら、個の生命の宇宙生命との融合という仏教の概念は、多くの日本人には、仏教の基本的な考え方としては認識されていないからです。
 ご承知のように、仏教にはたくさんの経典があり、さまざまに異なる考え方があります。一言で仏教といっても、ある派の立てる経典では、仏道修行をして得られる究極の理想は、個としての我が消滅して、空になってしまうことです。そこでの理想の状態を「涅槃(ニルヴァーナ(注3))」と呼び、ニルヴァーナとは「火を消すこと」であることは、広く知られている通りです。
 したがって、これは、宇宙生命と融合するということとは、根本的に異なっています。宇宙生命といった存在自体を、否定する考え方なのです。
6  日本の伝統的な仏教は、これとは別の大乗教ですが、日本の仏教徒の考え方をあえていえば、この考え方にやや近い、すべては無常ではかないものであるという厭世観です。
 日本人の意識の底に最も強く定着してきた仏教の考え方は、死後、極楽浄土へ行くというものです。現在の生き方が道徳的にどうであれ、阿弥陀仏(注4)の慈悲によって救われるというこの宗教観が、現在の人生に対する道徳的責任を軽視する傾向を生じていることも事実です。
 個の生命が宇宙生命に融合するという考え方は、このような、民衆に広く信じられたり語られたりしてきた教えとは別のもので、法華経を根本に、哲学的に思索されたものです。ご承知のように、哲学的な考え方は、一般民衆の意識の中には、なかなか根を下ろしがたいものです。
 しかし、阿弥陀仏の救済といったお伽噺的な教えが、近代化につれて日本人を仏教について無関心にさせたことを考え、しかも、仏教の優れた教えをいかにして、これからの人々の豊かな精神的土壌にしていくかを思うならば、この哲学性に裏打ちされた真実の仏教への理解が、広く人々にもたらされる必要があると、私は思っています。
 そこで、日本人の集団帰属性・集団への献身を支えてきたものは、では何かということになりますが、一つは、激しい社会的競争が、集団の中に身を寄せなければ生き残れないという風潮を生んできたこと、第二は、幼児教育の段階から、集団・周囲の世界に従順であることが善であり、そこから孤立したり対立することは悪であるとする価値観を、無意識的に教え込まれたこと、第三は、人間関係が常に上下の序列で捉えられ、下位の者は上位の人に従うことが原則化されていること、等が挙げられましょう。
 ともあれ、少なくとも現代の日本人にとっては、生命の連続や宿業に関する仏教の教えは、行動や生き方の基盤になっていませんし、そもそも仏教がどのように教えているのかの認識さえないのが実情です。
7  ウィルソン 西洋では、各個人の死後の生命への考え方が、道徳の遵守という社会的要請の強力な支えになっていました。しかし、死後の生命への確信がひとたび衰退すると、それまで道徳的行為の支えであったものが、今度はかえって厄介な重荷となってしまったようです。つまり、死後の利益ということが、人々が善良であろうとする主たる理由であったとすれば、人々が、人生はたった一度しかないと信ずるようになったとき、今度は、その一度限りの人生の間に最大限の楽しみを――何を楽しみと考えるかは別にしても――追求してはいけない理由が、あまりなくなってしまったわけです。
 西洋諸国において道徳への思考様式が変わってきていることを、天国と地獄に関する信念が衰退したせいだけにするのは、軽率なことになるでしょう。天国と地獄への信念は、道徳の一つの支えにすぎなかったからです。しかし、道徳の遵守は、死後の世界での損益勘定という、宗教的に規定された考え方と密接に結びついていましたから、死後の世界への信念の衰退が、道徳の退廃を助長したということはいえますし、また、仕事・意欲・奉仕・共同責任・個人的節制といった道徳的価値に取って代わって、快楽主義や浪費主義といった、まったく異種の価値が横行する一助となっていった、ということもいえるでしょう。
8  今日、多くの人々が、非道徳的な行為を犯しても、(そのことで罰せられないかぎりは)たいしたことではないというふうに感じており、したがって快楽主義的な風潮が、着実に広まっています。テクノロジーを基盤とする現代の社会体制の運営にとって、消費はまことに重要な要素ですから、人々はみな“良いもの”をできるだけ多く消費するよう奨励されています。
 今日の社会はみな、広告産業という手の込んだ産業を維持していますが、この産業の唯一の狙いは消費を奨励することです。おそらく広告こそは、今日、徹底した快楽主義という社会的価値の、最も強力な伝播者なのであり、広告はそれを巧妙かつ露骨に、系統的かつ性急に、朝な夕な、生まれてから死ぬまで人々に押しつけています。
 そして、同じそれらの諸価値が娯楽産業を養う主食ともいうべきものになっているのですが、皮肉なことに、そうした諸価値が、こうした娯楽産業によって、商業的な思惑を抜きにして、まさに現代生活における“価値そのもの”とされているのです。数年前に流行したポップ・ソングには、このことが、端的にうまく表現されていました。「人生楽しく生きようよ。思っているほど時間はない」――。そこに表れているのは、人生はまさしく墓場で終わりだという思想なのです。
9  (注1)輪廻転生
 迷いの衆生が苦悩の世界を生死生死と流転すること。輪廻転生は同じ意味。
 (注2)業力
 業は身口意の所作。身口意の所作が因となって果報を引き起こす。この働きに善悪がある。
 (注3)涅槃(ニルヴァーナ)
 滅度・寂滅・不生・安楽・解脱等と訳す。一切の煩悩や苦しみを永遠に断じ尽くした境地をいう。
 (注4)阿弥陀仏
 西方極楽世界の教主の名。普通、浄土三部経に説かれる仏。日本では平安中期に源信の『往生要集』が出てから阿弥陀仏信仰が盛んになった。その後、平安末期に法然が出て浄土宗として日本全国に広まった。

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