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人間の運命と業(カルマ)  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  人間の運命と業(カルマ)
 池田 さきに述べたような不条理な出来事に出合うと、人間は誰しも、その人生を左右している運命というものを感ぜざるをえません。生まれながらの貧富の差、顔の美醜、才能の差等の個人的な差異、また後天的な形成に大きな影響を与える環境条件等々、これらは、生まれてくるときに本人が意識して選択したものではありません。
 このような個人差を生じたものの原因の一部は、遺伝学によって生物学的に解明されていますが、しかし、何故にそうした特定の遺伝を受け継がなければならなかったのかという、もう一つ奥の原因は、科学の範囲外の問題になりましょう。さらに、生まれて以後の人生の軌跡を考えてみるときも、運命というものを認めざるをえないと思います。
 そこで、そのような運命はいかにして形成されたのかということですが、キリスト教では、個人の運命を決定したのは、宇宙の万物を創造した全能の神であると説いているようです。
 仏法では、無限の過去から、永遠の未来へと続いていく生々流転の中で、その人のあらゆる行為が業(カルマ)として生命の内奥に刻印されると説きます。過去に刻印された業が現在の運命を決定しており、同時に、現在の業が未来の人生を決定していく、と考えるのです。したがって、人間は過去に作った業によって縛られながらも、現在をどう生きるかについてある幅の自由をもっており、現在をどう生き、いかなる業を生命に蓄積するかによって、過去から担ってきた運命を変えていくことができるとするのです。
2  故トインビー(注1)博士は、興味深い譬えを引いておられました。業は、われわれの行為が生み出す、倫理上の一種の銀行口座のようなものである、というのです。この口座の差引残高は――ある時点では黒字であったり、赤字であったりしながら――貸し方・借り方の欄に新たな記帳がなされるたびごとに、絶えず変化していくというものです。トインビー博士の言われる通り、この“カルマのバランス・シート”は、当然、死後も続き、それによって未来の状態も決定されていくというのが、仏教の説くところです。
 教授は、このような仏教で説く業について、どのようにお考えでしょうか。
3  ウィルソン 人間は、自分の境遇について、常に説明を求めます。そして、しばしば経験的な観察では説明できないことがあると(あるいは、自分の行為が予想だにしなかった結果をもたらすことがあると)、それは超自然的な原因によるものであると説明してきました。キリスト教徒の場合は、ときとして自分の運命は「神の思し召し」であり、個々の出来事は「神の仕業」であるとみなしてきました。この「神の仕業」という語句は、現在のイギリスの法律でも、他に説明しようのない出来事について使われています。
 仏教の場合は、業(カルマ)の理念が、個人の責任という、より重要な要素を表しています。しかし、現在の境遇の原因が、自分では思い出すことのできない前世にあるわけですから、その人の直接的な責任の意識は、いくぶんか弱まります。業という理念は、たぶん、人々が現在、道徳的要求に従わないなら、将来どのような目に遭うかということについての、現在の苦悩という形で警告するうえで効果的な働きをするでしょう。この意味で、業は、社会統制に有効な働きをなすといえるでしょうし、あるいは、人々に自制を涵養するように仕向ける方法となりうるでしょう。
4  業という概念には、決定論的要素が強く暗示されているものの、このタイプの神義論は(注2)、現在を決定的に影響づける力とまではいかないにしても、少なくとも未来を決定づける強い力として、自由意志の働きをはっきりと認めています。すなわち、「これまでのことは、すでに決定ずみである。だが、これからのこと(来世)については、人間の力でまだ何とか変えられる」という考え方です。そこでは、人間の能力を衰退させるような、絶対的な運命論の影響は免れています。ただし、現在抱えている諸々の苦悩については、個人は、直接の、現世での責任はないと言うかもしれません。現在における道義上の振る舞いの報いは、来世において――それもたぶんはるか遠い来世において――初めて何らかの形で具現される、と予想されているわけです(また、事実、一つの生から次の生に移るときには意識は連続しませんから、その間の原因と結果の違いは、測ることもできませんし、さして重要なことでもないわけです)。
5  社会学的に見ますと、伝統的なキリスト教の概念で描かれる、人間が死後にどこかで生前の褒賞や罪の刑罰を受けるという期間に比べると、仏教でいう業の作用する期間のほうが、明らかに長期間にわたっています。はたして、キリスト教の地獄の業火という脅しのほうが、来世に悪い結果を生じるという仏教の見込みよりも、社会的統制力として効用があったかどうかということは、判定が難しいところです。
 かつて、キリスト教徒は、地獄への恐怖と天国への希望とに強く左右されて生きていました。おそらくそうした感情は、初期カルヴァン主義の時代と、それに続くピューリタン運動やパイアティスト(敬虔主義)運動の(注3)時期に、最も強かったといえます。しかも、これらの時代には、そうした感情が非常に効果的に統制されていたため、その効用も最も大きかったといえましょう。この時代、人々は、自分たちのこの世での現実生活における道徳的行為や非道徳的行為がもたらす直接的な結果を、少なくとも彼らの死後の見通しを予兆するものを通して、知りたがり始めたのです。こうした、きわめて切実な関心事に対する感情の自制力が強かったため、それが社会での行動を、新しい形で効果的に規制することになったのです。当時は個人主義が台頭しつつあり、その必然的な結果として、人間は、自身の良心に責任をもつべきであると考えられるようになりました。また、人々に個人的行動の機会が増えたため、そして、因習的な道徳の枠の内で安全に保護してくれていた各地の伝統的習慣に縛られることも少なくなったため、罪や正直さに対する彼らの関心は強烈になっていたのです。
6  このように見てくると、業の教えの中に哲学的に示されているものは、西洋諸国民にとっても、まったく異質の考え方であるとはいえません。彼らも、原因と結果の間に、つまり、人間の善や悪に対する態度と、その態度から生じる結果との間に、均衡があるはずだと考えているからです。仏教と西洋の哲学とは、両者間に見られる種々の相違点にもかかわらず、道徳律の面では、ほぼ相似たものをもっているわけです。もちろん、仏教の事物観における時間の永遠性や、個人のアイデンティティー(自己同一性)が不連続であることなどは、まったく西洋的な伝統の中で形成された精神の持ち主にとっては把握しがたい要素ですが、それでも、この、因果律における当然の応報という業の概念には、密かな魅力があるように思えます。
7  池田 なるほど。西洋思想と仏教とに共通の道徳律が見られるという教授のご指摘は、私にもよく分かります。キリスト教信仰にあっては、神を信じ、神の心に適った善い行いをすれば天国に入れるが、神を信ぜず、神の心に反した悪い行いをすれば地獄に堕ちるとされていますが、これは、たしかに仏教の業と同種のものであるからです。このキリスト教の概念は、また、捉え方によっては、自分自身で天国への道も地獄への道も決めることができるという、主体性の要素も残されているといえます。
 しかし、教授が挙げられたカルヴァン派の場合には、人間の自由な意志が介在する余地は、まったくないようです。カルヴァン派における運命予定説では――同派の信仰の当然の論理的帰結として――神は全知全能であるが故に、あらゆる人間の運命に関してすでに決定してしまっていて、それは変更不可能であるとされていたようです。
 古来、キリスト教のジレンマは、人間には行動の自由があり、したがって自らの行動には責任をもたなければならないという信仰上の考え方と、全知全能の神が宇宙の万物の運命をすべて決定しており、したがって、神は人間の犯した罪をも救済するとする、いわゆる予定説の間の矛盾にあるといえましょう。
8  ウィルソン ただいまのご指摘は、私にもよく分かります。キリスト教が神を全能であり、全知であるとしていることには、本来的に矛盾があるということですね。たしかに、もしも神が全知であるとすれば、神はすべてを知っていることになりますし、しかも、すべてを予知していることになります。
 しかしながら、そのような全知は、神が同時に全能たることを不可能にしてしまうでしょう。なぜなら、すべてを予知しているとすれば、もはや神は、気が変わって予定を変更するということも、絶えてありえなくなってしまうからです。もちろん、神学者たちは、人間の自由意志(注4)と決定論の問題に対して、果てしない格闘を続けてきました。そして、この問題は、いまなお現代の哲学者たちの心を占めている問題であり、ここで解明することはとてもできません。
9  ただし、公平を期していえば、カルヴァン主義者に次のことは認めてあげねばなりません。すなわち、彼らが救いの予定を強調したことは自由意志を排除するものではなく、たんに現世内のみの原因・結果の考え方に挑戦したものにすぎなかったということです。
 たしかに、彼らは、誰が永遠の生命を約束され、誰が地獄に堕つべきかを神がすでに決定しているとし、人間がこの決定を自己の行為によって少しでも変えることの可能性は残されていないと信じていました。しかし、それでもなお、カルヴァン派では、人間は、道徳律に従うべきかどうかは自分で選ばなければならないと教えていたのです。彼らは、神が望み給うが故に、人間は道徳律を遵守することを義務として負っているとし、決してそうした遵守によって来世での利益を期待できるからではないということを、熱心に説いたのでした。
10  その意味では、カルヴィニストの倫理はきわめて高潔な倫理でした。つまり、人間は、道徳的であることによるいかなる褒賞をも期しえないことを信じつつ、なお道徳的であらねばならないというのです。人間は、死後の見通しについて疑ってはならない。しかしまた、これと同様に、死後の状態がどのようになるかはっきり知っているなどとおこがましいことを言ってはならない。ただし、神の律法に従う道を選ぶことは、自分の自由意志の問題である、というものでした。
11  池田 全知全能の神という概念のもつ難点は別にして、ともあれ西洋人の思想・実践の中には、業の概念に相似た要素があるといえます。
 たとえば、自己の行為に対して責任をもつという考え方は、西洋の刑罰法の土台になっていますし、西洋の人々も、努力という因によって求める結果が得られることを信じています。仏教の因果律は、洋の東西を問わず、すべての人間が実際生活の中で経験していることと、合致しているといえましょう。現実には、積み重ねた因と、得られる果が必ずしも一致して現れないことが多いにしても、人間は、ある程度の否定できない対応関係がそこにあることを知っているからこそ、善い方向へと努力をするのではないでしょうか。
12  (注1)トインビー(アーノルド・J)(一八八九年―一九七五年)
 今世紀最大の歴史家といわれた。ロンドン大学教授、王立国際問題研究所長、外務省調査部長を歴任。著書に『歴史の研究』『試練に立つ文明』等多数。A・J・トインビー・池田大作共著『二十一世紀への対話』(文藝春秋)は一九七五年に発刊された。
 (注2)神義論
 この世において悪が勝利を収めるという一見逆説的に見える事象に対して、神の全能と憐れみを説明し、正当化する論。
 (注3)パイアティスト(敬虔主義)運動
 十七世紀から十八世紀にかけて、主としてドイツのルター派教会内部に起こった宗教運動。形式化し教条化した正統派教会を批判、「敬虔なる生活」を志向した。イエスへの絶対的帰依、禁欲的苦行、神の絶対的恩寵、(霊的な)再生の体験等を奨励した神秘主義的傾向の運動。
 (注4)自由意志
 人間は自らさまざまに異なる行動の道を選ぶことができ、また、すべての現象や出来事は必ずしも厳密な原因・結果の法則によって決定されるものではないとする考え方。この自由意志の役割については、キリスト教の神学者の間で長期にわたって議論が戦わされてきた。

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