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日蓮大聖人・池田大作

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神の意志と人間の理性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン いま、あなたが述べられたことは、私もまったく事実だと思います。たしかに、仏教が一つの哲学的な体系として発生したのに対して、ユダヤ教と、そこから派生したキリスト教とイスラム教は、人間の姿をした神の専横な命令によって世界が支配されているという、本質的に素朴な概念にその起源があります。
 この“最初に創案された”形のままの“神の摂理”には、明らかに、哲学的な論議や推測を加える余地は、ほとんどありません。特に旧約時代のユダヤ教やコーランを墨守するイスラム教にあっては、生命や宇宙を抽象的に論述したり哲学的に解釈することよりも、社会の規則や個人の振る舞いを律する掟を詳細に記述することのほうに、より大きな関心が払われていました。
 しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教的伝統においては、信仰を維持するうえで、いずれも人間の理性の力が着実に大きな位置を占めるようになってきました。幸運なことに、ユダヤ人の離散が、祭司を主たる担い手とし、神への犠牲を中心的儀礼としたその起源から、ユダヤ教を解放しました。ユダヤ人の日常生活には、まだ具体的な規則がその主要な関心事として根強く残ってはいましたが、より知的なラビ(注1)たちの間では、哲学的な概念がしだいに発展していきました(しかし、同時に、あまり高い知性をもたない人々の間では、非常に迷信的で呪術的な思考法も発達していったのです)。
3  中世には、ギリシャ思想から新たな刺激を受けて、キリスト教哲学が開花しました。そしてその教理はすべて、教会が聖書から取り出したものでした。そのため、この哲学の命題の考察は、キリスト教教理の枠内に限られていました。これに対して、近代の西洋哲学は、その淵源を、キリスト教の思想家たちが神学に照らしてあてはめた思想を飛び越えて、より直接的に、ギリシャの伝統に求めています。イスラム教の場合も、その極度の律法主義にもかかわらず、論理学や数学の卓越した学派が興隆し、さらには一種の総合的な学識ともいえるものが導き出されました。
 この学識が、キリスト教やキリスト教以後の保護者のもとに、ついには最高度に完成され、より自由な形で開花するにいたったのです。
 ユダヤ・キリスト教的伝統における哲学的思索の仕方は、ヒンズー教や仏教的伝統とは別種のものでした。キリスト教の場合、強力な教会の存在によって、聖職者が関わり合ってよいとされた思弁的な哲学の範囲が制限されていたことは確かです。そして、聖職者の中には、自ら編み出した哲学的体系のために、教会当局と衝突した例もあります。もちろん、傑出した神秘主義者もいましたが、その神秘主義の表明も――それは往々にして疑問視されましたが――教会組織の認可を得るためには、教理の期待するところに従わなければなりませんでした。
 概して、西洋の哲学者たちが教会の独特な神学上の関心事から自らを解放するにつれて、彼らの思索は、物質的世界とその説明に関する諸問題に向けられていきました。そして、より実際的な技能や経験的探究法に関連して、特筆すべき哲学の一派が発達してきました。ピューリタニズムの影響で、宇宙を支配することへの関心が哲学的探究にきわめて実用的な傾向を与え、近代の科学・技術の発達に刺激を与えたのです。
4  池田 私は、ユダヤ教が根本とし、キリスト教も源泉としている『旧約聖書』は、一つには絶対者としての神の意志と、もう一つはその神によって創造された――したがって、時間的・空間的にきわめて強く限定された――宇宙観によって束縛されている人間像を映し出していると思います。ですから、この聖書を原典として思索を発展させてきた西洋において、人々の関心が時間と空間の両方で限定された世界、物理的宇宙へ向けられたのは、当然であったと思うのです。そして、そこに、矛盾が生じた原因があると考えます。
 思うに、優れた知性をもった人々が、物理的宇宙の姿を正しく捉えようとしたのは、キリスト教とは別の古代ギリシャの学問の影響――それがヨーロッパでは、サラセン人との接触によってもたらされたことは歴史的事実です――も、もとよりありますが、より深い心情面では、聖書の正しさ、神の偉大さを証明したいという、一種の信仰の情熱によって始められたものであったでしょう。
 ところが、客観的に探究していくにつれて、事実が物語るところは、逆に聖書の教えを否定する結果になっていったようです。世界がいつ形成されたかの年代の問題しかり、宇宙の構造の問題しかりです。そしてまず、宇宙の構造に関して、天動説か地動説かで、激しい確執を生じたことは周知の通りです。
5  これに対して、仏教の場合は、釈尊自身、最も関心を払うべきは現実に悩み苦しむ人をいかに救うかであって、宇宙の起源とか万物の根源といった抽象論議にふけるべきではないと戒めましたし、そうした問題については断定的な説を残していません。仏教以外の古代インドの学問には、天体観測もなされていたようですが、どのような宇宙観を論じようと、基本的には、仏教は関知しなかったのです。むしろ、仏教を学ぶ人が向けた関心は、人間の苦悩がどこから生じ、それを解決するにはどうすべきかであり、それを裏づけるものとして、人間の心の働き・構造はどのようになっているかという、内面世界への探究があったわけです。
 現代の哲学の中でも、心理学的な角度から人間を追求しようとする試みがありますが、それらが解明しつつあることは、仏教で、経典や後の高僧・学僧たちが説いているところと合致しているものが少なくありません。たとえば、仏教では九識論(注2)といって、人間の精神機能の深層構造を説いていますが、それはユング(注3)等が主張しているところとよく符合しています。ただ仏教の明かしている深みは、現代でもまだきわめられていないといってよいでしょう。
6  (注1)ラビ
 ユダヤ教・ユダヤ人社会の宗教的指導者のこと。また、ユダヤの律法博士のこと。ユダヤ人が彼らの優れた教師を呼ぶ際の尊称である。原語のアラム・ヘブライ語で「私の偉大なる方」の意。
 (注2)九識論物事を識別する心の作用に九種あること。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に第七末那識(思量識)、第八阿頼耶識(含蔵識)、第九阿摩羅識(根本識)。
 (注3)ユング(カルル・G)(一八七五年―一九六一年)
 スイスの心理学者。人間の性格を内向型と外向型に区別。アドラーの学説やフロイトの学説との総合を試みた。また、夢や無意識の状態について研究し、人間の内部には祖先からの経験の蓄積が共通に潜んでいるという、集団的無意識を指摘した。

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