Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

“空”概念の理解  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
2  ウィルソン 西洋の思考法は、矛盾を嫌い、たがいに排斥し合う、徹底した論理の範疇をもっていますから、そうした思考法の中で教育された者にとっては、“空”のような概念を把握することには、非常な困難があります。西洋人は、そうした思想を観念的に理解することはできても、その思想の意義を十分に理解し、認識できるにいたるまでには、時間と忍耐とを要するのです。
 現代の西欧知識人がその中で教育されてきた支配的な思考傾向とは、――これは特に自然科学・社会科学において顕著なのですが――まず形而上学的な要素を排除し、非経験的な論及については最大限の慎重さで検討して、その後初めて認めるというものでした。
 なんらかの“潜在性をもつ”と定義される概念に関わる問題は、その潜在的なものが顕在化するための条件を、明細に記述することです。顕在化するまでは、潜在していることを示すのは容易なことではありません。そして、ひとたび顕在化した後は、潜在性は、回顧的な、限られた有用性の範疇に入ってしまいます。
3  もちろん、経験的な帰納や類推によって、多くのドングリがカシの木になっているのだから、どのドングリもカシの木になる潜在性がある、ということはできましょう。しかし、ドングリは物理的実体であり、“潜在性がある”といっても、それは経験的に起こりうることを述べているにすぎません。言及すべき物理的実体がないとき、潜在性の概念は希薄なものとなり、西洋的思考では把握し難くなってきます。
 もちろん、この概念も、その人の体験が文芸的なイメージや観念によって濾過され、昇華しており、経験的な厳格さよりも精神的・詩的な洞察を求めるといった人々には、ずっとたやすく理解されうるでしょう。また、仏教の考え方の中で訓練されたか否かは別としても、宗教的な心をもつ人々は、科学的な考え方の中で訓育された人々よりも“空”の概念を受け入れやすいといえましょう。
 それにまた、この“空”の概念は、生命と輪廻に関する仏教の解釈の中心的役割を担っているため、そうした論述の脈絡を通して理解できるものとなっています。そうした論述の中で役割を与えられているのであって、部外者が、この概念だけを切り離して理解しようとするのは、たぶん間違いなのでしょう。“空”の概念の意味は、他の概念や教説と結びついて、またそれらとの関係性において生じており、そうした脈絡の中でならば、より分かりやすくなるのかもしれません。
4  さらに、仏教を修行している人は、こうした概念を理解するための、また別の尺度をもっています。というのは、この概念自体が、その人自身の体験を知的に組み立てるうえで一つの役割を果たしており、しかも、この概念は、その人が規則的に参加している儀礼的な活動の体系の中で、意味合いをもっているからです。ある特定のタイプの実在への信仰、部分的には知覚できてもある部分では直観する以外にないような一つの道理への信仰というものは、さまざまの要素が結合した一つの重要な体系を作り出しているのであり、しかもそうした各要素は、その結合によって、その構造の中で意味を与えられているのです。
 多くの西洋の観察者、なかんずく現代思想の主要な訓練法の特徴となっている、すべてのものを科学的に探究する方法を身につけた人々と同じように、私もまた“空”の概念を完全に把握することには、困難を感じています。しかし、人間の宗教的信仰を研究しようとする者は、誰しも次の二つのことを認めなければなりません。一つは、人間がその文化的伝統から受け継いでいる範疇というものは、あらゆる自然現象や人間事象を完全に把握するには、ほど遠いところにあるということ。もう一つは、人間の厳密な思考体系を自然や人間の経験に押しつけることは、それによって他の人々を啓発し、支配することはできるとしても、それとともに、間違いなく、いくつかの事柄を締め出してしまっていることなのかもしれない、ということです。
 なかんずく、宇宙やその働きについて宗教家たちが独自に受けた暗示に関しては、私は、その証言を受け入れることが、社会学者にとって絶対に必要であると感じています。これらの暗示は、社会学者が他の人々の世界像や思考過程を理解し、解釈しなければならない場合に、必要なデータなのです。
 そういうわけで、私自身、“空”の意味を十分に理解してはおらず、またその概念に含まれる意味の体系にも正しく精通してはいないわけですが、私は“空”の概念を理解し、精通した人々の誠意、英知、そして生命論的解明に対しては、敬意を表します。また、私は、この概念がその人々にとって意味するところのものを、できるかぎり理解するよう努力しなければならないと考えています。
5  池田 さきに私は“空”を死後の生命という問題に関係する概念として申し上げました。事実、仏法で“空”がいわれる場合、この問題が多いわけですが、もっと掘り下げていえば、生きている現在の生命についても、さらには、この世のすべての事象・事物についてもいわれます。つまり、この世の存在は“有”か“無”かで捉えられはしても、死後の生命は“空”の概念によるのでなければ捉えられない、というのでなく、この世の事物も“有”か“無”かでは捉えきれない、というのです。
 仏法では、すべての事物はその固有の本体が不変的にあるのではなく、さまざまな要素が仮に集まり、結合して成っているにすぎないとします。これは“縁起説(注1)”といって、仏教の最も基本的な考え方の一つとされています。同時にこれは、現代の物理学や、遡っていえば古代ギリシャのデモクリトス(注2)の考え方とも、共通性をもっているといえましょう。
6  すなわち、すべては縁によって成っているのですが、それでいて、たんなる集合や混合ではなく、独自の存在としてあることも否定できません。たとえば、水は酸素原子と水素原子が結合したものであるわけですが、水として、酸素や水素の特質とはまったく異なる独自性をもっています。すなわち、酸素の特質と水素の特質を混合させているのでなく、酸素と水素の結合自体が、一つの固有の水の特質を顕現させているわけです。
 結合ということは“状態”であって、“存在”ではありません。これは、“有=存在”か“無=非存在”かという、二つの概念では捉えきれないものです。まさに、この酸素と水素の結合ということに水の最も大事な基盤があり、この“存在”とも“非存在”とも捉えきれない、いわば“こと”を“空”というのです。
7  いま私は、事物の中で最も単純な水を例に挙げましたが、最も複雑なのが生命体であり、特に人間存在でしょう。人間の身体は、たくさんの要素の結合体である有機物質が、さまざまな形態と機能をもった器官を作り、その器官が無数に結合して構成しています。しかも、この有機物質は、形成されては壊れて排除され、代わって新しく形成されます。こうして、絶えまない新陳代謝を繰り返しているわけですが、それでいながら、その一人の人間全体の基本的特徴は変わらないのです。ここには、さまざまな次元に、前述の“こと”が存在しています。特に、身体全体を成り立たせ維持させている、その人固有の生命の働きを認めざるをえません。
 しかも、人間をさらに全体的に捉えようとすると、身体だけでは不十分です。大脳神経中枢をその座として働いている精神機能はさらに複雑であり、深みと広がりをもっています。この精神的な事象は、有か無かで割り切る考え方では、とうてい捉えられるものではないでしょう。
 私は、ヨーロッパにおいても、近代科学の発展が、むしろ“空”の概念への理解を容易にしていくのではないかと考えています。
8  (注1)縁起説
 縁起とは因縁生起の略で、因(内的な直接原因)と縁(外的な間接原因)が関係し合って、一つの現象が生起していくことをいう。すべての現象は因縁の関係性の中でしか生じないという仏教の基本原理。
 (注2)デモクリトス(前四六〇年―前三七〇年)
 ギリシャの哲学者。原子論の唯物論的完成者として有名。不生不滅の「原子」(アトマ)が無数にあること、原子が存在し運動するための場所として「空虚」(ケノン)があることを原理として立てた。あらざるものはあるものに劣らず存在する」と主張した。

1
2