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日蓮大聖人・池田大作

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合理性と非合理性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  それでは何が本来非合理のものであり、何が現在では説明できなくとも未来においては説明されるべきものなのかを、見極めることが大切になります。その判定は慎重でなければならず、不合理を正当化することも、超合理を安易に否定することも、あってはならないはずです。少なくとも、現在の科学的知識によって明らかにされ終わっている不合理性は、たしかに、許容すべきではないでしょう。
 しかし、現在は未解決であっても、将来において解明される可能性を残している考えについては、安易に不合理とみなさないことが大切ではないでしょうか。
 それでも問題は残っており、科学的知識によって否定され「終わって」いるのか、未解決なのか、否定されるべきなのか――これらの判断基準をどこに求めるのかということも、十分検討しなければならないでしょう。
 こうした教義の非合理性と合理性について、科学的知識の試練をどこまで受けるべきかについて、教授のお考えを聞かせていただければ幸いです。
3  ウィルソン 自然現象や社会現象、心理現象に関する系統的で経験的・合理的な探究が発達する以前は、宗教の体系が、その属する文化圏内において、知識の総体をなしていました。そうした知識には、精神的で倫理的な性格をもつ中心的教義のほかに、ユダヤ教やキリスト教においては宇宙観や天地創造の理論が、また、仏教においては一種の心理学や物質の理論に近似したものが含まれていました。
 経験的・合理的な探究が発達し、そこから発見された諸事実が系統化された結果、現在、われわれが客観的な科学と考えているものが発達してきました(もっとも、科学的知識の地位と、その社会的起源および受容性の基盤については、種々の哲学上の留保事項があることは認めなければなりませんが、この点は取り上げなくても差しつかえないでしょう)。今日では、科学と無関係の事柄においてすら、真の科学的知識をまったくもたない人々が、経験的証拠を吟味し、原因・結果の問題を判断し、経験的実験を有効な手順とみなし、プラグマティズム(実用主義)の規準を常識として受け入れることに、完全に慣れてしまっています。こうした精神的傾向は、すべて、科学の発達に付随して取得されたものです。
 科学的論証および実験は、思考形態として、宗教と鋭い対照をなしています。科学的知識は常に懐疑や批判に晒されますが、宗教においては、知識は信仰と帰依に依存しています。科学は仮説を提示し、その仮説は、有効と認められた種々の手順によって、繰り返し試されます。科学上の主張は、原則として常に反証が可能です。これは、宗教的真理に関する主張が反証不可能であるのと対照的です。科学的な思考態度は誤謬を認め、発達を期待します。それは、あらゆる知恵はすでに説き尽くされていると想定する傾向をもつ宗教とは、対照をなすものです。
4  池田 宗教は“信”を出発点とするところから、その教義を信奉する人からの批判を受けず、信仰と帰依のうえに安住しがちです。そしてそれこそ、逆説的にいえば、宗教者の堕落を招いた原因の一つであったことは否定できません。まして、宗教の大部分は、その教えの中の科学的知識に関連する部分についても信従を要求し、その立場から、科学的知識に反する信条を人々に強制したこともありました。
 科学的知識と宗教的信条との確執は、かつてのような全社会的規模の問題としては、姿を消しました。それは、幾人かの科学者の犠牲と、人々の宗教心の喪失によって、宗教者が己の非力を覚り、自身の立場を狭め、限定するようになったからです。この結果、欧米でいえば、カトリック教会のように、全社会的規模を占める教派と科学的知識との確執は見られなくなりましたが、教典のすべてについて厳格な信仰を復活しようとする過激な少数派が現れると、局部的に激しい確執が生ずることが、しばしばあるようです。
 また、これは自然科学の知識との確執ではありませんが、たとえば、一九七八年、集団自殺で世界を震撼させた人民寺院(注1)などは、現代社会で確立している社会倫理に真っ向から反する倫理観が、一人の独裁的教主への信仰を基盤に形成された結果の破局といえましょう。
 このような悲劇を生ずる危険性は、広い意味での宗教には、いつの時代にもはらまれていると考えなければなりません。それ故にこそ、宗教の教義についても、批判の対象となりうるものについては批判・検討が加えられるべきであるとする考え方が、一般化することが望ましいと私は考えます。そのほうが、宗教にとっても好ましい結果をもたらすでしょうし、社会にとっても安全性を増すでしょう。
5  ウィルソン 科学的な見解と宗教的な見解の対立点を対照させることは、容易なことでしょう。キリスト教文化においては、天地創造とか進化の問題、また天文学・地質学・生物学・心理学などの分野で、かつての宗教上の正統学説が科学の進歩の前に絶えず後退してきたことを、人々は痛切に感じています。かつてローマ・カトリック教会が、医学的研究から天文学にいたる科学の実験者たちと紛争を起こしましたが、これは、その後、とくに十九世紀末から二十世紀初頭までの西洋知識人が、科学と宗教の対立を不可避のものとみなすうえでの例証となりました。
 今日、宗教は、かつての主張をかなり撤回してしまいましたが、宗教的信念や実践に関してなされた多くの主張が、科学的検証に耐えうるものでなかったということは、やはり真実です。したがって、科学者は、宗教上の現象――病気が治ったとか、幻想を見たとか、霊が乗り移ったとかの主張から、宗教の教義・理念にいたる事柄――については、多くの場合、そっけなくあしらってきたのです。
 しかしながら、キリスト教の教義体系を強調し、天地創造について特定の時間的枠組みを設定した面にあまり注目しすぎると、科学と宗教の対立が容易に誇張されてしまうでしょう。しかし、近代科学が、かつては必然的に宗教のものであった昔の知識体系にその淵源をもっていることも、忘れてはなりません。言い換えれば、初期の哲学は、自然界と超自然界のいずれに関しても解釈を加え、必ずしも両者を区別しなかったのです。
6  つまるところ、原始的な宗教にも治療法はありますし、仏教に説かれる物質の理論は、科学的説明と相反するものではありません。また、中世のキリスト教は、往時の理論体系の発展を促進しました。ピューリタン革命は物質界の実利的支配を奨励し、科学的探究への直接の刺激となりました。キリスト教において合理化の過程が着実に進んでいることも、認識されてよいことでしょう。そして、創唱宗教は(注2)、いずれも地方的な呪術や、一貫性がない、不規則で恣意的な主張を排斥しており、そのかぎりでは、これらはすべて、合理的な知識体系の発展を促進してきたとみなすことができます。
 すでに論じてきたことではありますが、もし宗教的信念や実践の核心を大切にしようとするなら、宗教に対する理性の適用にも、越えることのできない限度があります。理性は、究極の目標を指し示すものではありません。事実、われわれが合理性というとき、それは、(社会的ないし個人的な)何らかの目標の体系から矛盾する要素が取り除かれる過程を、また、そうした目標を達成するうえで効率のよくない方法が、より効率のよい方法によって絶えず置き換えられていく過程を意味します。目標それ自体は理性によって指し示されるものではありませんが、いったんそうした目標が与えられたとき、それを最も速やかに、かつ能率的に達成しようとする過程の中に、合理性が含まれてくるわけです。
7  目標の内容が、それ自体変化することは明らかにありうることですし、ある時点において与えられた行動の目的が、後になってそれ以上の目的のための手段となることもあるでしょう。しかし、もしわれわれが究極の目的というものを仮定しうるとすれば、それは、すでに合理的な選択を超越した目的であるといえましょう。科学は、探究のための、また知識を組み立てるための、合理的システムを構成します。したがって、その価値の前提はきわめて限定されており、本質的というよりも、むしろ優れて方法論的な性格のものなのです。何に向けて科学的探究を行うのかという焦点の選択が、究極的に価値判断の問題となることは、もちろん事実です。しかし、その後の手段の選択は、常に合理的に決定されます。一般的真理としていえることは、合理性の規範が適用されるのは、物事をいかになすべきかという点であって、何をなすべきかという点ではない、ということです。
 もしそうであるならば、私たちは、これとは別個の領域が存在し、そこではある種の価値が科学的探究や実験から、そして間違いなく科学的断定から支配されず、自立性をもっているということを認めることができます。宗教的価値は、まさにこのレベルに存在するといってよいでしょう。宗教は、人間に対して、常に(真理として述べられた)命題を提供し、(われわれが儀礼と呼ぶ)行動を要求します。人々の生活は、そうした命題や行動の光に照らされて営まれるのです。こうした教義や要求は、その具体的内容がいかなるものであれ、心の平和、精神の均衡、安心感、人間関係の調和、人生や仕事への積極的態度等々を求める、人間の要求に応えるものなのです。
8  これらの要求を満足させることは、その複雑さと微妙さにおいて、科学の可能性をまったく超越した、人間の古来からの関心事でした。その要求とは、個人にとっても、共同体や国家、さらには世界にとっても、悪からの救済ということにあり、それは、経験的・合理的な方法によってよりも、むしろ詩的想像力によってこそ受け入れることのできる、完全性への期待でもあるのです。これらの目標は、いずれの宗教的伝統においても立てられており、それが涅槃と呼ばれようと、あるいは死後の生命、復活、魂の転生などと呼ばれようと、それらは(到達されるべき)霊的な諸状況を仮説的に述べたものであり、その達成は、合理的に構築された科学的手段の及ぶところではありません。目標も、それ故にまた手段も、超経験的なものなのです。
 かりに、たとえば心の平和こそが人間の最も願う目標であり希求であり、それが、たとえば天の王国を瞑想することによって達せられ、そして、身体の物理的構成とその衰滅の不可避性が精密に分析されることによって、それが失われてしまうとしたならば、科学は、人間に心の平和を達成させるうえで、いったい何を提供できるというのでしょうか。
9  池田 合理性の規範が適用されうるのは、物事を“いかに”なすべきかという点であって、“何を”なすべきかではないということ、そうした“何をなすべきか”の命題を提供するのが宗教であること、宗教が提示する精神的目標の問題は、科学が重んずる合理性とはまったく別の領域であるということ――いま、教授が言われたことに、私も全面的に賛同します。
 私も、何のために生きるかという、生きる目的・人生の目標を提示しているところに、宗教の、他にない存在意義があると考えています。すなわち、科学やあらゆる技術が貢献するのは、われわれの生命の維持や生活の快適さに対してであり、その生命を何のために使うかという点は科学の領域外であって、この何のために生きるかを教えようとしたのが宗教である、ということです。
 そして、この宗教が設定する精神的目標も、そのための手段も超経験的であって、科学的手段の及ぶところではないということですが、私は、たしかにその一面はあるにせよ、経験的分野に接する――あるいは反映してくる――ものがあることも、否定できないと思います。たとえば、中世の日本の極楽浄土へ往生することを願う阿弥陀仏信仰が熱狂的にひろまったとき、極楽往生を熱望するあまり、死を願い、自殺する例が激増したと記録されています。
10  もちろん、どのような信仰をするのも当人の自由であり、たとえば、社会・国家の繁栄に対して不利な結果をもたらす恐れがあるからといって、国家権力や社会的規制力によって、宗教に圧力が加えられるようなことがあってはならないでしょう。しかし、個人は、自分の信ずる宗教について、あるいはこれから信仰する宗教を選択する際に、それが人間としての生き方や考え方にどのような影響をもたらすかを、深く考慮することが大切だと思います。
 こうした点からも、宗教は超経験的なものであるとして別次元に祭り上げるのでなく、それが経験的世界に投影するところを可能なかぎり理性的精神によって吟味し、人間性に適った、正しい宗教を選択すべきであると私は考えています。
11  ウィルソン 私が超経験的と呼んだ宗教的目標のタイプとは、肉体の再生、復活、霊魂の不滅などのことです。そうした状態に到達できるという希望は、人々を幸せにするでしょうし、現在の自分の行為の報いとしてそれが獲得できるという見通しは、人々を善良にしうるでしょう。しかし、彼らが幸せであることも、彼らが道徳的に品行方正であるということも、それは彼らの信仰が真実であることの証明にはなりません。有益なもの必ずしも真実とは限らず、真実なるもの必ずしも有益とは限らないのです。ダビデ(注3)が、“生い繁る香柏のように”悪人が栄えるのを見ながら、やがては正義が行われることを信じて自らを慰めたということが、思い起こされます。
 おしなべて、ユダヤ・キリスト教的伝統は、心正しい者にとってこの世で経験することはたしかに“涙の谷間(憂き世)”での経験であっても、“最終的には”報われるのだという、証明不可能な主張に、かなり頼っております。他方、人生を思う存分楽しんでいる人々が、それによって自らの宗教的信仰(それが何の信仰であれ)の正当さを証明しているということもいえません。私の見るところでは、人間の経験を宗教的真理に対する矛盾のない経験的証拠の起点として用いることには、困難があると思うのです。
12  (注1)人民寺院教祖ジム・ジョーンズを中心とした宗教的カルト。一九七八年、南米ガイアナの人民寺院の入植地ジョーンズ・タウンで、調査に出かけた米下院議員やテレビ記者、カメラマンら五人が殺され、それに引き続いて数百人に及ぶ信者が集団自殺をした。宗教教団の形態をとっていたが、ブライアン・ウィルソンの分析では、その思想の本質は共産主義である。
 (注2)創唱宗教
 発生形態から見た宗教類型の一つで、一人の創唱者(founder)の教えや人格に負うところの多い宗教をいう。自然発生的な宗教に対して用いられる。
 (注3)ダビデ
 ダビデ王(前一〇九〇年―前一〇一五年)。古代イスラエルの王で、『旧約聖書』の「詩篇」の作者と伝承されている。その子はソロモン王。

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