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日蓮大聖人・池田大作

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奇跡物語の意義  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  ウィルソン 私のような部外者の見方によれば、奇跡的な出来事についての報告は、立証または反証すべき主張としてよりも、むしろ信者の帰依心の深さを示す証拠として捉えられるべきです。奇跡と思われているものは、すべてそれに関わり合った人々の解釈いかんによるのです。たとえば、今日の科学ではありふれたことでも、一千年前であったなら、いや、百年前でさえ、奇跡とされたことでしょう。またそうした過去の時代の奇跡についても、現在では、納得のいく科学的解釈が得られるかもしれません。
 奇跡的な出来事のより重要な側面は、それが信者にとってもつ意義にあります。奇跡が、それだけで宗教としての十分な証左と考えられたことは、ほとんどありません。奇跡的な出来事にのみ依存する信仰は、呪術であって、宗教ではありません。また、奇跡が、人々が信奉者になるための理由として考えられたこともありませんでした。偉大な宗教指導者たちは、たんに人々を信じさせるために奇跡を行うよう求められたとき、多くの場合、これを嫌ってきました。奇跡は、人々の信仰を補助するものであり、統一性のある哲学や教義によって初めて意味をもつものです。
3  あなたが指摘されたように、奇跡は、合理性によってはまったく評価できない、象徴的ないしは詩的な真実を伝えるものでした。宗教は、必然的にシンボル(象徴)を用います。つまり、心的態度を伝達し、意識や感受性や人間的な性向を喚起し、人々の集団的な責任や忠誠への自覚を促し、さらには情緒を涵養し、緩和し、規制するうえで、象徴が用いられるのです。宗教のこうした機能は、合理性一点張りの機関によっては簡単に代行できません。また、世俗権力には、そうした事柄に関しては、社会の要求を汲み取るだけの力はありません。
 ある面では、各個人は、自分のためにも周囲の人々のためにも、精神的・情緒的な気質を養うことの重要性を自覚しなければなりません。宗教がそのような目標の達成のために用いる象徴の一つが、奇跡的な出来事という観念なのです。この観念によって、ものごとの可能性、ないしは可能性の極限を、寓意的に伝えることが可能になります。こうした奇跡的なものが表すものは、完成・回復・社会秩序・悪の克服といった理想です。もしかりに奇跡の観念が、悪は一挙に撲滅され、病気は回復し、死は克服できるといった期待を、そのままうのみにして願うことをも“同時に”満足させることがあるとしても、それは、われわれが観察することのできる広範な宗教的諸現象の多面性を示すものなのです。
4  なんといっても、宗教は、人間の制度の中で最古のものです。したがって、宗教が、人間の意識次元によって異なった理解がなされる、さまざまな観念・信念・儀礼を含んでいないとすれば、それこそかえって不思議なことでしょう。そこには原始的なものや、文字に則ったものや、呪術的なものもあり、あるいは高度化され、精神的な意味を与えられ、象徴的になったものもあります。宗教的な象徴が、多義性と柔軟性を備えていること、不変で数学的に表される価値とは同等視できないということ――それこそが、宗教的象徴の豊かさと永続性の源泉なのです。
 こうした象徴は、また同時に、事実に基づく事柄をも伝えますが、それだけではなく――またそれが主な役目でもなく――評価的・情緒的なものも伝えます。宗教的な用語や概念は、奇跡に関するものも含めて、たんに情報を伝達するだけでなく、同時に反応をも引き起こすものです。その結果、厳密に合理的な観点からすれば、そうした宗教的用語は、その多面的な性格上、常に捉えどころがなく、変わりやすくて詩的なものとなります。宗教的用語は、経験的な事実への言及を扱うだけでなく、価値や感情をも扱うものですから、系統的な分析や形式的な論理を受けつけません。
5  こうしてみると、奇跡とは、明確な科学的鑑定を必要とする出来事ではないといえます。宗教の枠内で奇跡的なものに重要性を与えているものは、変容とか力とか神秘といった観念なのです。宗教的脈絡と無関係になされる奇跡は、もちろんたんなる一つの現象にすぎず、たぶんトリックでさえありましょう。しかし、奇跡は、それが信仰や行動への呼びかけという、一つの世界観の中に位置づけられるとき、信者の内面に作り出されるものの象徴となります。すなわち、奇跡は、宗教が抽き出そうとしている意識の主観的な変化を、客観的に、明確に実感できる形で表現したものとなるのです。
6  池田 奇跡は、それが信仰・行動への呼びかけの中に位置づけられるとき、信者の内面に作り出されるものの象徴となる、との教授のお答えは、日蓮大聖人が釈迦牟尼の経典に述べられている奇跡あるいは奇跡的な事象についてなされた意義づけと、まさに軌を一にしています。
 たとえば、前述した法華経の宝塔について、経文には地球の半径に相当するほどの高さであること、それが空中に浮かんだことなどが説かれており、とうてい現実とは考えられないものであるわけですが、日蓮大聖人は、一人の信徒に与えた手紙の中でその意義を「法華経の説法を聞いた弟子たちが、自己の仏性を悟ったことを表しているのである」と教えられています。また、これは、さまざまな経典に説かれていることですが、地獄や仏の世界について、人々は地獄とは地の下にあるとか、仏の世界は西方はるか彼方にある等と信じているが、じつはわれわれの心(生命)の内にあるのであるとも教えられています。
7  日蓮大聖人は、尊厳なもの、その逆に恐ろしく醜いものを、人間の外のはるかな彼方に求めて渇仰や畏怖を教えた伝統的な仏教に対し、それらは、じつは遠い彼方にあるのではなく、一人一人の人間の心の中にすべてが収まっていることを教えました。逆にいえば、人間の生命こそ、宇宙的な広がりをもった広大無辺の存在であり、善と悪の両極を包含した複雑微妙な存在であることを示されたのです。
 それはまた、ある意味では、「神が人間を創造した」と教えた伝統的キリスト教に対して「人間が神を作ったのである」と反論したヨーロッパの近代主義にも通ずる変革であったといえましょう。ただし、ヨーロッパ近代主義は、神中心の思考から人間中心の思考に転換したものの、人間を理性と欲望に還元し、宗教の重要性を否定してしまいました。これに対し、日蓮大聖人は、人間生命こそ、宇宙的広大さと無限の可能性を秘めた不可思議の存在であるとして、生命を尊極とする宗教を打ち立てられたのです。
 私は、信仰者にとっては、奇跡あるいは奇跡的なものが、人間の外側に想定されようが、それが科学的理性に反しようが、そのようなことは問題ではないということを理解しますが、しかし、それでは、現代人の大多数にとって受け入れられないと思います。それに対し、日蓮大聖人の教えは、そうした観点から宗教に対して拒否的な態度をとる人も、十分納得し、受け入れうるものであろうと考えています。
8  (注1)宝の塔釈尊が法華経を説いた時(見宝塔品第十一)に、地より涌出した多宝塔のこと。七宝(金、銀、瑠璃、玻璃、瑪瑙、真珠、珊瑚)をもって荘厳され、高さ五百由旬、縦広二百五十由旬あり、この中に宝浄世界の多宝如来の全身が収められている。

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