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宗教の神秘性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教の神秘性
 池田 あらゆる宗教には、多かれ少なかれ、論理で説明しきれない神秘性の要素があります。そこに、哲学にはない宗教の特質があり、それがときには理性を超えた情念や行動を呼び起こし、優れた効果をもたらしますが、逆に、悲惨な結果をもたらすことになる場合もあります。呪術的宗教は、呪術によって病気を治すことを約束し、多くの悲劇を生んだ例がありますし、理想郷を約束した宗教が、その破綻によって、滅亡を余儀なくされた例もあります。
 神秘的な部分があることは、宗教である以上、当然のことといえますが、それを強調しすぎることは、宗教を現代から遊離したものにしてしまいます。といって、逆にそれを弱めすぎ、そのすべてを合理的に説明するとすれば――もちろんそれができるかどうかは別にして――そこには、もはや宗教性は失われてしまうともいえます。
 仏教は、教義の説明においても、合理性を重んじ、道理を重視しますが、反面、その究極の法については「思議することは不可能」と教えています。それは考えてはならないということではなく、人間の理性によっては思議しても分からないものであるという意味です。教授は、世界のさまざまな宗教をごらんになって、各宗教のもつ神秘性について、どうお考えになっていますか。
2  ウィルソン あなたのおっしゃる、あらゆる宗教は、その本性からして神秘的な要素を含んでいるということに、私もまったく同感です。諸々の宗教的伝統のうち最も合理主義的な宗派でも、ある点まで達すると、説明できない要素、あるいは「なぜ、こうであらねばならないのか」という最終的な疑問と取り組むことになります。この疑問に対しては、いかなる解答も、必然的に神秘的なものとなります。
 事実、一つの宗教的伝統の中で合理化への傾向が生じ、宗教を完全に“合理的”にする努力が行われるとき、信仰の力強い魅力が失われるという危険が生じます。たとえば、ピューリタニズムの後期発展段階において、ユニテリアン派(注1)が三位一体(注2)の神秘的教義を拒否し、十八世紀末のヨーロッパにおける合理主義的な時代精神と合致する“合理的な宗教”を求めたことがありました。
 ところが、彼らは、自分たちの宗教を、ある程度まで合理化することには成功しましたが、結局は、信者に対してことさら信仰心を起こさせるものを、ほとんど残さなかったという結果に終わっています。彼らは、最終的には、強い倫理的関心をもった高潔な人道主義者となることで、満足しなければならなかったのです。
3  プロテスタンティズムの歴史全体を見ると、神秘的な信仰から離れて合理的に向かう過程では、人々は、自らの経験を完全に合理化しようとし、ついには信仰を失うにいたるまで、満足して留まるということがないことが分かります。
 もちろん、高度に発達した宗教は、すべて合理的な論述の体系を備えています。ちなみに、ここでいう高度に発達した宗教とは、その聖職者たちが、学究的な性向を身につけ、教義の解明と体系化への知的な構造を発達させ、自己批判の受容力を形成している宗教を指します。そうした合理的な論述の体系は、ときにはますます整頓された、合理的に行われる討論や探究の過程によって発展します。そうした過程で、教義の中心的な争点が矛盾を免れ、洗練され、整合されて、合理的な正当化への基礎的構造がもたらされるのです。
 しかし、このような傾向にもかかわらず、説明できない神秘的な要素は残ります。それを把握するためには、信者は“信仰の飛躍(注3)”を行い、精神を傾倒し、知性や経験の制約を棄て去り、中心的な原理・存在遂行に自己を一体化させる、主観的精神を獲得することが求められます。そうした宗教的体系の核心にこそ、救済が見出されるとされるのです。
4  この神秘的要素は、われわれが“神秘家”と評している、また“神秘”なるものを行じる宗教の大家たちによる、たんなる特殊な信心の対象に止まるものではありません。そうした神秘的なものへの帰依者は、一般の信者の中では特殊な、また通常はほんの一握りの少数者なのですが、彼らは、やがて人々に、特殊な啓示力や気高さを具えた人間として、さらにはまた、自分ではそうした強烈な信仰心を奮い起こすことのできない大多数の信者から、信仰生活の教導者としても認められ、称賛されるようになるのです。そうした“神秘家”にとっては、“神秘”とは、もっと深い意味をもっているのかもしれません。しかし、すべての一般的な信仰者にとっては、宗教の中心点は、日常的経験を超越した真理を実感することにあるのであり、それこそが――少なくともこの理由から、またおそらくはその他の理由もあるでしょうが――神秘的なものであるのです。
5  池田 往々にして、宗教の神秘性は、人々に盲信・盲従を強いる口実とされます。これは、宗教が人間性の健全な維持・発展のために不可欠のものであるにもかかわらず、宗教への不信・敵意を引き起こし、特に現代社会において人々の宗教喪失を招いた原因の一つになっています。その意味で、宗教に神秘性は免れえないとはいえ、理性で捉えられ判断できる範囲では合理的であるのかどうか、そして、その宗教の説いていることが人間性の健全な維持・発展という目的に合致しているかどうかが、確認される必要がありましょう。
 日蓮大聖人は、諸宗教を批判・選択するうえでの基準として、仏教であれば、その宗派の教義が釈迦牟尼の説法の記録とされる経典に正しい根拠をもっているかどうか、次に、その教義が理性で判断できる範囲において合理的であり、良識に合致しているかどうか、さらに、その説いている通りの結果が現実の事象として現れるかどうかという、文証・理証・現証の三つの視点を提示されています。
 これは、神秘性を隠れみのにして、不合理な教えを人々に押しつけ、人間性の衰退をもたらしかねない宗教の正体を明らかにし、人々を堕落や宗教不信から守るために、きわめて大事な教示であると私は考えています。
6  (注1)ユニテリアン派
 十六世紀ヨーロッパに起こった比較的小さなキリスト教教団。他のキリスト教各宗派が立てている三位一体の教理を拒否し、人道主義的、自由主義的、合理主義的な教義解釈に立った信仰を行い、イギリスとアメリカの社会生活に少なからぬ影響を与えてきた。
 (注2)三位一体
 キリスト教の神観念の最も特徴的なもので、教理の中でも最も基本的、中心的な奥義の一つ。神はその本性においては一つであり、この一つの神の内に三つの位格(父と子と聖霊)があるとされる。
 (注3)“信仰の飛躍”
 キリスト教神学によれば、理性だけでは信仰上の神秘は解明しきれず、宗教教義の証明もできないとされる。そのような次元のものを信じ、さらに宗教活動に入っていくためには、個人は理性の限界を超えて“信仰の飛躍”を行うことが必要であるという。

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