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普遍性と特殊性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  普遍性と特殊性
 池田 宗教の教義は、厳格であるとともに、普遍性をもっているということが必要であり、これは、世界宗教であるための、また時代の変遷を超えて長命であるための、必要な条件ともいえます。厳格なものでなければならないということは、時代によって、また社会によって容易に変えられるようでは、宗教のもつ尊厳性が失われてしまうからです。
 しかし、この厳しさが、ときには衝突を引き起こしたり、柔軟さを欠く結果となって、人々に受け入れられなくなってくることも事実です。教授は、宗教の教義は厳格かつ不変であるべきであって、時代とともに様相を変えていくなどということは、宗教の堕落だとお考えになりますか。
 たとえば、仏教は、たいへん幅広い寛容性をもっています。仏教では、根本の教義についての変更は許されないが、枝葉末節のことにおいては、さまざまな時代・社会の風習に従ってよいと教えています。もちろん、何が根本で、何が枝葉のことであるかを判断する基準が問題になりますが、それは別の問題として、仏教にはそうした傾向が強いといえます。この考え方によると、日本の仏教では、礼拝儀式の際は膝を折り曲げて座る正座が主ですが、そのような風習をもたない国では椅子に座ることになります。もちろん、このような、形式に属することについて寛容である宗教は仏教に限りませんが、そのほか教義の伝え方にも柔軟性があるなど、仏教の寛容性は、他の宗教と比べて特徴的といえましょう。
 仏教が流布されてきた歴史を見ても、発祥の地インドの国民性は、内省的・神秘的といわれ、それに比して、中国は、かなり合理的に物事を捉える性格があるようです。それに対して、日本は、どちらかといえば現実的な性向があるように思います。仏教では、教えを弘める際には、そうした国民性を十分考慮した弘め方をすることが大切であると説かれていますし、事実なされてきたことが観察されます。教授はこうした仏教の伝道のあり方に関し、どのような感想をおもちでしょうか。
2  ウィルソン 純粋な形の仏教の教義は、その発生の当初から、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の教義よりも、普遍性がありました。それは、ユダヤ教など三宗教の場合は、仏教よりもはるかに文化的・歴史的に特殊な状況の中に、その起源をもっているからです。仏陀の思想が抽象的・形而上的な性格のものだったこと、神についての神人同形的な概念がそこになかったことは、仏教の教義が普遍的な性格をもつのに寄与しました。
 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統においては、のちに神についてのより普遍的な主張がなされるようになってからも、部族神という本来の概念から、影響を受け続けていました。たとえば、イスラエルは、特定の聖域を要求してそれを占有し、自分たちのための救世主の出現を待ちました(正統派ユダヤ教では、いまだに待ち続けています)。キリスト教徒は、特別な神の配剤を主張し、これによって自分たちが他の人間と区別されているとしました。また、イスラム教徒は、イスラム教発祥当初の状況に固有の特色がいまだに深く染みついた信仰生活を保っています。
 キリスト教の伝統における神人同形説の発生については、私たちはさきに論じ合いましたが、“神人”という概念が、すでにきわめてパティキュラリスティック(特殊主義的)なものであることは自明のことです。さらにローマ・カトリック教会は、ローマ帝国の行政機構を教会組織に採用し、適合させることによって普遍性を勝ち取ろうとしたにもかかわらず、もう一つのパティキュラリスティックな特徴を、自らに課すことになりました。それは、普遍性といっても、それはローマ帝国の政治的普遍性に負うところが大きかったからです。
3  キリスト教とイスラム教が、ともに拡大を続ける中で、人種や肌の色にかかわらず自ら選んで帰依する人々を求めていったことは、いうまでもありません。そして、これによって、この二つの宗教は、ユダヤ教やヒンズー教の伝統に見られるような極端なパティキュラリズム(注1)(特殊主義)を克服していきました。この両宗教にあっては、いずれもその指導者たちが――特にキリスト教の場合――彼ら独特の信仰や儀式や倫理を、新たな信奉者たちに熱心に吹き込もうと努めはしましたが、やはりある程度までは、多様な国家の様式や文化に順応していったのです。民族や地方の儀式が多様であったところから、キリスト教においてもイスラム教においても、その宗教的伝統の内部に、かなりの多様化が起こりました。その一方で、民族の気質や性格がたがいに違っているのは、いくぶんかは宗教の力によるといえるのかもしれません。
 こうしたすべてのケースについて、われわれは、かたや民族の文化や性格と、他方、宗教的信仰・実践・道徳との間に、相互作用の過程が常に進行してきたものと想定しなければなりません。もし宗教が効果的であろうとするならば、おそらくその宗教は、信奉者たちの生活様式や文化に、影響を与えなければなりません。しかし、いかなる宗教も、それをどの程度まで効果的に行っているかという点では、常に疑問を免れません。
4  たとえば、仏教が栄えてきた諸国の国民性に見られるたがいの相違点は、どの程度、仏教のせいなのでしょうか。それとも、そうした国民性は、まったく独立した気質として存続しているのでしょうか。もし仏教の教義が十分柔軟性に富んでいて、対象となる心的態度が黙想的・神秘的なものであれ、合理主義的なものであれ、また、現実主義的であれ、それらをすべて受容できるというのであれば、この三つの異なる態度のいずれに対しても、仏教自体は、常に不変であるということなのでしょうか。それとも、仏教も、種々に異なった文化や気質に合わせるために、教義を変えないまでも、強調点を変えるといった内的な変化を、ある程度経ているのでしょうか。
 仏教も、その歴史と布教の長い過程において、かなりの内的な多様化を経てきたことは明白です。そうした順応は、仏教がすべてを受け入れる受容力を示すものと受け取ることもできましょう。しかし、反面、普遍的に有効な倫理という概念を脅かす状況への妥協であったと見ることも、同じくらい可能なことでしょう。普遍的な効力をもつ思想や教えを有効に説くためには、宗教は、内的な統一性・一貫性を示さなければならないのでしょうか。
5  キリスト教が中央集権的な行政機構を採用したことが、その組織面に特殊主義の一形態をもたらしたことは、すでに述べました。そうした組織は、それ自体、普遍的に有効な教えの流布を促進する適切な媒体として、神が生気を与えたものと考えられました。たとえ組織がすでに特殊主義的なものであり、特定の文化や時代に負っているとしても、もし組織がなければ、宗教は教義・実践・倫理の面で衰退しやすくなってしまうでしょう。仏教もイスラム教と同様、中央集権化された組織をもっていません。そして、そうした統制力に欠けていたため、この二つの宗教には、そのいずれにも外来の要素が侵入する道が開かれていたわけです。
 このため、上座部仏教(注2)では、今日ですら、その実践は、往々にして占星術師や易者・信仰治療師などが活躍し、そしてときにはバラモン教の僧侶も一役買っている、より広範囲かつ多様な宗教活動の一部分を占めるだけのものとなっています。一方、大乗仏教も、タントラ教(注3)の呪術とか秘教的な神秘主義などの要素が入り込んでくるのを、避けられませんでした。全体的に見て、仏教は、そうした異質の特殊主義的な添加物から、重大な影響を受けているわけです。キリスト教は、かなりの数のたがいに排他的な信仰・実践・組織の体系へと分裂し、それによってキリスト教自体の特殊主義を例証しています。これに対して、仏教は逆の傾向をたどり、土着の宗教的伝統と寛大に妥協を行う中で、その中心的な関心事をさまざまな形で放棄し、その結果“万人にすべてを説く”ようになったといえるでしょう。
6  池田 いうまでもなく、仏教も、それがひろまった国々に、人々の生活様式や文化の点で影響を与えてきました。たとえば、インドについて見れば、仏教教団は、カースト制度(注4)のもたらした人間の差別観を否定し、少なくとも教団内においては、差別が排除されました。芸術等においても、明らかに仏教美術として区別できるものを生み出したことは、否定できないと思います。この点は、中国・日本についてもいえます。
 しかも、それでありながら、たとえばインドの仏教美術と中国・日本の仏教美術とはかなり異なっており、それぞれ、インド美術、中国美術・日本美術として独自の特色をもっています。
 その原因はどこにあるかといいますと、釈迦牟尼は五十年間にわたって法を説き、その内容は厖大なものです。そして、そこに示された教えや修行法もきわめて多様であり、どの教えを用いるかによって、実践形態も人生や世界の捉え方も、多種多様になったということができます。
 教授のおっしゃるように、キリスト教やイスラム教も、その宗教的伝統の内部に多様化が起こりましたが、教祖の提示したものは比較的単一的であって、国家や地方の様式の多様性が、その多様化の因になったのではないでしょうか。特にキリスト教の場合、イエスの教化活動は、わずか二、三年であって、それだけ教義も単純でした。そのため、中央集権化された組織を作って、教義解釈を統一することが可能だったのだと思います。仏教のように厖大で多様な内容をもった経典がありますと、統一的な教義解釈そのものが困難であったわけです。
 このように言いますと、仏教そのものが茫漠として曖昧であるかのようですが、その体系的把握が、それぞれの宗派によってさまざまになされてきたことは、いうまでもありません。私が信奉している日蓮大聖人の仏法においても、一つの体系化があり、私の信仰的立場においては、これを正しいと確信していますが、ここでは、その論議に触れないでおきます。ただ、仏教の基本的な行き方は、あくまで人々の生命の内面からの知恵の開発と、個々人の主体性の強化にあり、外側から生活規範を押しつけるものではないところに、文化や生活形態の画一化をもたらさなかった根本的要因があった、と申し上げることができます。
7  (注1)パティキュラリズム(特殊主義)
 一般的で非個人的な配慮よりも、特定の、地方的、個人的な規準によって支配される行動や関係を受け入れる気質をいう。個人的な愛情や親族間の絆共通の人種的アイデンティティー(自己同一性)、過去の交遊関係などはパティキュラリスティック(特殊主義的)な事柄の一例である。神学上では「特定人選定論」、すなわち、救済は特定の人にのみ与えられる、という考え方を指す。
 (注2)上座部仏教
 セイロン(現スリランカ)、ビルマ(現ミャンマー)、タイなどに伝わった戒律の厳しい小乗教の系統、南方仏教をいう。
 (注3)タントラ教
 タントラとはヒンズー教(ときに仏教)の秘儀的傾向をもつ経典。このタントラに従って宗教的実践をするインドの秘儀的宗教をいう。
 (注4)カースト制度
 アーリア人のインド侵入(紀元前一五〇〇年ごろ)によって成立したきわめて厳重な階級制・身分制度で、現代にまで及んでいる。古代のカーストは、四つ(司祭のバラモン、武士のクシャトリア、庶民のバイシャ、隷民のシュードラ)にすぎなかったが、長い間に細かく分化して、現在では二千から三千にも達するという。

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