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日蓮大聖人・池田大作

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混淆宗教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  釈迦牟尼の過去を語った本生譚の中に(注6)は、帝釈天は、釈迦牟尼の仏道を求める心を試すために、さまざまな姿をとって登場します。たとえば、釈迦牟尼が雪山童子とし(注7)て修行していたとき、仏法の教えを与える代償として、鬼が、童子の身体を食べさせるよう求めます。ところが、この鬼は帝釈天で、童子の仏法を求める心が真実か否かを試そうとしたのです。また、仏陀となってからの釈迦牟尼に対しては、梵天・帝釈天は臣下として仕え、守ったと、経典は述べています。この仏教のように、既存の神々の名をそのまま残して、痕跡を明瞭に留めている場合は別にして、キリスト教のように痕跡が隠されている場合、そうしたシンクレティズムについて当事者が知ったときに、どのような反応がなされるか。それについてうかがいたいと思います。
3  ウィルソン キリスト教の場合、どの程度までシンクレティズムが見られるか――その度合いについては、いくら大げさに言っても過大評価にはならないでしょう。キリスト教におけるシンクレティズムは、特にその発生期に顕著に見られますが、この宗教が新しい環境に適応していった過程の中で、布教の初期ばかりでなく、もっと後の時期においても、特にラテンアメリカにおいて、顕著に見られます。
 聖職にある学者たちは、キリスト教の伝統が培われる中で行われた宗教的借用の全貌を、なかなか認めたがりませんが、いま述べたことはすべて、学者間では明白なことなのです。
4  概して、教会は、異質の起源をもつ要素については、それを否定しないまでも、隠そうと努めてきました。学問的知識自体が、教会内の紀律の支配下にあり、聖職者以外の人々には史料がほとんど利用できなかった時代には、それも比較的容易なことでした。いまでも、慣例を守っているキリスト教徒の大部分は、キリスト教神話の主要な特徴が、古代近東からの外来的・異教的伝統といかに多くの共通点をもっているかについて、まったく何も知らないでいます。キリスト教に最も顕著に見られるユダヤ的要素は、「神がその選民に与え給うた民族的・物質的契約の、真実の精神的相続者は自分たちである」というキリスト教徒の主張によって、うまく処理されているのです。キリスト教徒の伝統的な理解によれば、かつて神の選民たるユダヤ民族は、神が彼らの中に現れたとき、すでにその神を拒否し、十字架にかけてしまったというのです。
 その後のシンクレティズムは――必ずしも皮肉な意味においてではなく――ローマ教会にとって、政策的なものとなりました。このことは、西紀六〇一年に教皇グレゴリウス一世(注8)が宣教師メリトゥス(注9)に与えた訓令を見ても、明らかです。すなわち、教皇は、メリトゥスに対して、異教の寺院を(聖別し直して)存続させること、そして(それまでは生贄を捧げていた)祭りを(新たな存在理由を与えて)続行することを、人々に許可するよう勧告したのです。ラテン・アメリカにおいては、司祭の数が不足していたため、そして、その結果として住民を宗教的に統制することが困難であったために、うわべだけキリスト教的で中身は異教そのままの儀式を容認するという方針を、余儀なくされたと考えられます。
5  キリスト教が、そのシンクレティズムを隠さざるをえなかった理由は、ローマ教会が排他主義に固執してきたところにあります。キリスト教徒は、他のいかなる神々も容認できませんでした。そして、異質のものはすべて、それが少しでも教会の権威に挑戦するとみなされたとき、例外なく抑圧されました。しかし、実際には、異質の要素を根絶するのは、(グレゴリウス一世も気付いていたように)容易なことではなかったため、そうした要素を受け入れ、少なくとも形式的に教会の支配下に編入し、統制するという方針が採られました。編入されなかった要素は、悪魔崇拝(注10)のカテゴリーに組み入れられました。さまざまな形でその地方に伝えられていた呪術や(注11)妖術も、すべてこの概念へと追いやられました。
 概して、一般信徒は、キリスト教の発祥時や、その歴史において、シンクレティズムがどの程度行われたかについては、知らないできました。今日でも、多くの熱心な一般信徒は、そうした事実があったことを信じようとしないでしょう。こうした事実に関する知識によって困惑を生ずる度合いは、プロテスタントのほうが、カトリック教徒より少ないといえましょう。なぜなら、プロテスタントは、カトリック教会に見られるような司祭制秘蹟(注12)儀礼といった要素を努めて減らそうとし、そうする中から、初期のシンクレティズムの証拠を減らしたばかりでなく、そうしたものを純粋な伝統に外れるものとして、激しく非難したからです。プロテスタントの諸教会は、呪術に対して、ローマ・カトリックよりもさらに徹底した反対の態度を取ってきました。そのため、プロテスタントは、キリスト教の起源に関する教義においても、また、伝道地で改宗者を求める場合にも、キリスト教以前の呪術的観念に対して譲歩することが少なかったのです。
6  学者や消息通の一般信徒の間では、いくたびか、宗史を、より相対主義的に再解釈しようとする企てがなされました。他宗教の慣行や信仰が総じて厳禁されている中で、これらの熱心な信者たちは、ときとして、次のような解釈を認めてきました。すなわち、「非キリスト教的宗教の要素の一部は、未開人の心に、キリスト教の真理の前触れとして、微かな輪郭をもって現れたものと見てよいだろう」――と。こうしたところから、キリスト教徒の人類学者たちも、かつては「未開人は、キリスト教について何も知らないのだから、宗教をもたない」と固く信じていたのが、後には、次のようになりました。――「未開人の一部に見られる最も漠然とした高神ないしは天空神の概念も、人間がもっている(キリスト教の)神への信に向かおうとする、普遍的・本然的な心の証であり、それは、彼らが、しだいにキリスト教に改宗する素地をもっているということである」と。この種のこじつけの理論によって、キリスト教にとって都合の悪いシンクレティズムの事実を、多少調節することが楽になったのです。
7  池田 私は、宗教を求める人間の心には、共通するものがあると思います。もちろん、まったく異なる方向へ向かっている場合も少なくありませんが、優れた知性の人は、その到達した深さに違いはあっても、同じ方向に向かっていることが、しばしばあるはずです。その意味で、キリスト教や仏教が、それ以前の宗教のあるものを自分たちの信仰の前提・先駆として位置づけたことは、無定見な妥協でない限りにおいて、本質的に正しいと認めてよいのではないかと考えます。
 特に仏教の場合についていいますと、仏教が探求したのは、人間の生命現象を貫いている真理であり、生命は、非常に広範な広がりと複雑な重層性をもって機能していますから、仏教以外の諸宗教が取り上げている課題も、それが生命現象に関係している場合、仏法の一部分の真理として位置づけられることは、むしろ当然といえます。
8  端的にいえば、仏教が明かしている生命は、時間的には永遠であり、空間的には宇宙的広がりをもっています。一方、仏教以前のバラモン教等は、宇宙、自然界の存在・事象を象徴化して、神として立て、それを畏敬崇拝します。これらの存在・事象が宇宙的広がりの中にある以上、それを象徴化した神々が仏法の一部分とされるのは、自然のことではないでしょうか。
 また、こうした教義的な背景は別にしても、それ以前の宗教に、なんらかの位置を与えて認める考え方は、文化遺産を保持するうえでも、人々の精神の広さや奥行きを増すためにも、大事なことです。異教に対して徹底的に排撃的な宗教は、先住の異教徒たちが築いた文化の伝統や美術品をも、破壊してしまうことになりましょう。そのような宗教によって形成された精神は、他の文明と接触したときに、激しい争いや拒否反応を起こし、発展をもたらすことはできません。
 ガンダーラ(注13)には、偶像崇拝を徹底的に嫌うイスラム教徒によって、顔を削り落とされたと伝えられる巨大な仏像がありますが、こうした貴重な文化遺産が無残に傷つけられたことは、残念なことです。その点、イスタンブールのセント・ソフィア大寺院の壁画は、ただ漆喰で塗り込められていただけでした。キリスト教世界でも、十五世紀、フィレンツェでサヴォナローラ(注14)によって、多くの美術品が異教的とされ、破壊されたり焼かれたことは有名です。規模や程度はさまざまであっても、同様の例は、いたるところで起こったことでしょう。その点、仏教は、それが広まったいずれの国にあっても、以前からの宗教を排撃しなかったので、それらの宗教が生み出した文化遺産を破壊することはありませんでした。もっとも、そのために、勢いを盛り返した以前からの宗教のために、破壊を蒙ったことも少なくありませんが。
9  ウィルソン この問題についての仏教とキリスト教の相違が、東洋と西洋の論理に対する考え方を反映するもの――もしくはそれが反映されたもの――であることは、疑いありません。西洋の論理では、“矛盾がない”という原則が、排他性の概念を強めています。そこでは、不一致ないし不調和な命題は、容認されえないのです。こうした精神的傾向は、もちろん西洋の科学の基礎をなしていますが、詩的・宗教的な思考の形式とは、鋭く対峙するものです。詩や宗教にあっては、曖昧さとか、多様な命題とかが容認されるだけでなく、それらは、その本質的な豊饒さの故に、大いに歓迎されるからです。
10  (注1)バラモン教
 紀元前数世紀よりインドにおいてバラモン階級を中心として発達した民族宗教。
 『リグ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』等のヴェーダの宗教を継承し、ヒンズー教に発展して現在にいたっている。インドの伝統的民族生活の根幹をなす哲学思想とその解釈、神学および祭式、儀軌、宗教事象全般を包含していう。
 (注2)梵天王
 大梵天王ともいう。娑婆世界の主とされるMaha^brahmanの訳。仏教では、帝釈天王と共に仏陀および仏陀の正法を行ずる者を守護する諸天善神とされている。
 (注3)帝釈天
 S’akroDeva^namIndrahの訳釈提桓因天帝釈ともいう。インド神話上の最高神で雷神であった。仏教では梵天王と共に護法の神となり、須弥山に住み、四天王を従えて、利天の主として、この天に住する三十三神を統領する。釈尊が過去世で修行中、種々に姿を変えてその求道心を試みたが、成道後は守護を誓ったとされる。法華経序品では、眷属二万と共に会座に連なった。
 (注4)四天王
 須弥山(古代インドの世界観で、世界の中心にあるとされる山)の四面の中腹にある四王天(持国天・増長天・広目天・多聞天)の主で、仏法を護持する四人の天王のこと。四天・四大天王ともいう。それぞれ一天下を護ることから護世四天ともいう。帝釈天の外将で、仏教では法華経序品第一で眷属二万の天子と共につらなり、同陀羅尼品第二十六で法華経の行者の守護を誓っている。
 (注5)阿修羅
 Asuraの音写。略して修羅ともいう。古代インドでは初め善神であったが、後には帝釈天等の善神と戦う悪神となる。須弥山の外輪の大海の底に住むという。その容貌は醜く、身体はきわめて大きく、常に武器を持っているとされている。
 (注6)本生譚
 釈尊が過去世において菩薩道を行じていたときに衆生を救った多くの善行を述べた物語をいう。漢訳に六度集経、生経、菩薩本縁経、菩薩本行経などがあり、パーリ経典のジャータカが名高い。
 (注7)雪山童子
 釈尊が過去世で修行していたときの名。雪山で菩薩の修行をしていたとき、帝釈天が羅刹(鬼)に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を半分だけ述べた。これを聞いた童子は喜んで残りの半偈を聞きたいと願い、その身を羅刹に食せしめることを約束して半偈を聞き、その偈を所々に書きつけて樹の上から身を投げた。羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の身体を受けとめ、その不惜身命の姿勢を褒め、未来の成仏を説いて姿を消したという。
 (注8)教皇グレゴリウス一世(五四〇年ごろ―六〇四年)
 ローマ教皇(在位五九〇―六〇四年)。混乱するイタリアにおけるローマ教会の独立性を高め、東ローマとランゴバルトの調停を図るなど、政治、外交上に手腕を発揮した。教会内部の問題としては聖職の売買を禁止し、布教事業、社会事業を奨励、特に貧民、難民、捕虜等を保護し、またローマ、シチリア等の教会領を統治、拡張した。ゲルマン民族の重要性を認めて、遠くアングロ・サクソンにまで伝道を行ったり、フランク族との関係を深めた。現存する八百四十八編の書簡や聖書解説、司牧規則は彼が優れた神学者、文学者であったことを示す。
 (注9)メリトゥス(?―六二四年)
 教皇グレゴリウス一世によってイギリスに派遣され(六〇一年)、カンタベリーのアウグスティヌスによってカンタベリー大主教に聖別された。
 (注10)悪魔崇拝
 キリスト教でいう悪魔とは、神への敵対者という概念である。聖書ではサタン(悪魔)もしくはルシファー(魔王)とされ、高慢と嫉妬の罰によって天国から堕ちた天使が他の魔物たちの首領になったとされる。中世キリスト教徒の間では、あらゆる外来の信仰を、神に敵対するもの、したがって悪魔に由来するものと考えるのが常識になっていた。このため、呪術や異端信仰は、たやすく悪魔崇拝の概念に組み入れられた。
 (注11)呪術(Magic)
 宗教とは対照的に、呪術(もしくは魔術)は自動的な働きをし、ひたすら個人的利益のみを求め、秘密裡に機能し、手段的活動としての情緒的な信奉を一切求めない。実際には宗教と呪術は絡み合っているが、宗教が発展していく過程の中で、呪術の自動的な要素がしだいに、より倫理的・慈愛的・愛他的な気質へと変容することが一般に認められている。
 (注12)秘蹟
 キリスト教で、キリストによって定められた恩恵を受けるための儀式。カトリックでは洗礼、婚姻など七つあるが、プロテスタントでは洗礼、聖餐(イエスの血と肉を表すパンと葡萄酒を会衆に分かつ儀式)の二つのみ。
 (注13)ガンダーラ
 パキスタンのペシャーワルを中心とする、インダス河とその支流のカーブル河の合流する地域一帯を指す。紀元前後に数世紀にわたって栄えた仏教芸術を、ガンダーラ美術という。
 (注14)サヴォナローラ(一四五二年―一四九八年)
 イタリアの宗教改革者。ドミニコ会の修道士から説教者となって教会の堕落を攻撃し、政治的自由を提唱、僣主メディチ家を攻撃してフィレンツェ市政の改革を行い、厳しい神権政治を断行し、ルネサンスの美術作品を堕落として激しく攻撃した。

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